第1章【2度目の余命宣告】

1話 選択肢

 7月中旬。



 蝉がけたたましく鳴いているのを聞くと、暑さが増していくような感覚を肌に感じた。その場で立っているだけでも額に汗が滲んでくる。それぐらいに今日は暑かった。

 病院の廊下に設置されたパイプ椅子に黙ったまま腰掛ける状態が堪え難く、立ち上がって窓の景色を眺める。しかし、数分も経たないうちにまた椅子へと逆戻り。それを幾度か繰り返しながら長い時間を過ごした。

 ここは町内の中で一番大きな国立総合病院。先生の評判もなかなか良いと聞く。そのためか、平日でもかなりの人がここを訪れ、待ち時間が1時間を超えることは珍しい事ではなかった。

 朝一から足を運んだのにも関わらず、かれこれ半日以上経つ。診察から始まり、血液検査とMRI、CTを受けたのち、この待合室で待機してから2時間が経過していた。はじめのうちは多くの患者が行き交い、顔見知りが居れば軽い挨拶を交わしながら時間を潰すことも苦にはならなかった。だが、時が進むごとに待合室にいたはずの患者たちは次々と居なくなっていき、最後には自分だけが取り残されていた。

 月に一度、検査のために通院しなくてはならない。だから、この状況には慣れていないわけではないのだ。しかしながら、こう何時間も待たされ続けるのは正直なところ苦痛に感じてしまう。

 うんざりする気持ちを紛らわすように、座ったまま窓の外に目を向けた。


狭山さやまさん、狭山 たくさん」


 診察室から顔を出した看護師の呼び掛けが耳に届く。

 狭山 拓。それがこの少年の名前。

 自分の名前を呼ばれ、ようやく椅子から解放されたことに安堵の息を吐く。


「はい」


「診察室へお入りください」


 看護師は拓の顔を確認した途端、その一言を告げて中へ戻ってしまった。これだけ待たされたのだから、気遣いの一言ぐらいほしいものだ。ただ、それに対して文句を告げたところで何かが変わるわけでもなければ、逆に嫌な顔をされるだけで終わってしまうだろう。そう考えると、文句を言うことすら馬鹿らしく思えた。待ち時間が長いことも看護師の素っ気ない対応もいつものこと。そう頭を切り替え、拓は診察室へと入った。


「お願いします」


 先生の向かい側に置いてある木製の小さな丸椅子に腰かけ、軽く会釈する。白髪交じりの頭に、年季の入った黒縁眼鏡をかけた中年の男性医師がよれよれの白衣を羽織ってこちらに目を向けた。


「今のところ数値に変化はないみたいだけど、状態は悪いとしか言えないね」


 溜息をつくような細々しい声を出した医師に対し、拓は返事をしなかった。これも恒例行事のようなもので、出だしはこの台詞から始まる。質問を無言で返したことには気にも留めず、医師は続けた。


「本当に手術しないつもりなのかい? この状態なら、いつ倒れてもおかしくない。余命はただの予想であって、君の身体は明日は我が身のような危険な状況なんだ。それは分かっているね?」


「はい」


「だったら」


 医師の言おうとしていることを予測していた拓はすかさず相手の言葉を遮った。


「それでも手術は受けません。このままでいいです」


「……そうか」


 少し悩むように医師は表情を曇らせる。しばし沈黙したのち、猫背気味に丸めた背中を直し、再度こちらを真剣な目で見遣った。


「何度も言ったかもしれないが、君はまだ若い。高校生なんて人生始まったばかりのようなものだ……これから君が経験することは数えきれないほどにある。確かに成功率は低いかもしれないが、僅かな可能性を信じてみてはどうだ? 君の未来やそれを願う両親のために……」


 医師の説得に本当は迷いもあった。葛藤がないわけではない。それでも、拓は頑なに首を縦には振らなかった。


「先生の言いたいことは分かります。けど、もし成功したとしても普通の生活に戻れる訳じゃないんですよね。最悪……一生寝たきりになる、そうですよね?」


 ハッキリした口調で言った拓に、医師は否定も肯定もしない。ただ、顔を下に向けて小さな唸り声を出すだけだ。それは拓の想像は惜しくも当たっているということを明確にさせた。


「俺が寝たきりになってしまったら、母親ひとりが一生苦労することになる。それだけは避けたいんです」


 数年前に父は他界してしまった。母は身体こそ健康だが、今年で60歳を超える。年のいった母に迷惑が掛かるのはどうしても堪え難かった。


「だから、先生がなんと言おうと手術は受けません」


「そうか……君の好きにしなさい。無理強いはしない」


「我が儘を言ってすみません」


「それはいい。ただ、もしも気持ちが変わったら直ぐにわたしに言いなさい……君が生きたいと思えた時は全力を尽くすから。あと定期検診は必ず来るように」


「はい……失礼します」


 軽く頭を下げ、診察室を後にする。午後の診療を待つ患者たちがちらほらと待合室に集まり始めていた。


 この病気は手術を受けなければ助からない。

 病名は【悪性脳腫瘍】


 拓が病気に気が付いたのはちょうど2年前。こんな暑い夏の日だった。

 普段から低血圧気味だったために、前からよく眩暈と頭痛を起こしていた。しかし、月日が経つごとにその症状は明らかに頻度を増していった。心配した母に急かされ近くの内科を訪れたのがはじまり。

 血液検査を受けた拓に医師は診断結果ではなく、別の大きな病院を受診しなさいという、なんとも後味の悪い言葉を言い放った。紹介状を手渡され、次に訪れたのが今の病院になる。その時もあらゆる検査を受けさせられ、最終的に最悪の現実を突きつけられた。


 余命3年。それが俺に残された命のタイムリミットだった。

 脳腫瘍はかなり大きく、手術するにも困難な箇所に出来ていることからグレード3と手遅れに近い状態。細かい神経を巻き込んでいる脳腫瘍を取り除くには技術的にも難しく、どんなに腕が立つ医師であっても神経を完璧に傷付けずに終えることは不可能だと言われた。そして手術を受けたとしても生存確率は半分の50パーセント。成功したとしても、神経を傷付けた場合は何かしらの障害が残る。それが病院の下した診断結果。


 4年前に癌で父親が他界してから、生計を立てるために朝晩休みなく働いている母の背中をずっと見てきた。いつか倒れてしまうんじゃないかと心配していた矢先、自分自身が母の負担となってしまうなんて夢にも思わなかった。しかし、それは覚めることのない夢のような現実。

 直ぐにでも手術をと医師は言ったが、拓はそれを拒否した。

 薬で進行を遅らせる生活を選んだことに母が最初から賛成したわけではない。それは親として当然の反応だと思う。当時は手術を受けてほしいと毎日のように頼まれた。しかし、その説得に毎回同じ返事をした。


 ――悔いが残らないように好きなことをして死にたい。


 寝たきりになってしまったら、自分の足で自由にどこにも行けないことが日常になってしまう。一生、部屋のベッドの上で過ごすことしか出来なくなるのなら、残された時間を自由に生きたい。

 その決断はどれだけ母を悲しませ、傷付けたか分からない。拓の前で涙は一切見せたことのない母だったが、きっと知らないところで泣かせてしまっただろう。それを考えると、自分のした決断を悔やんだ。


 しかし、そんな母もいつしか手術のことを口にしなくなった。


 それから2年。あっという間に月日は流れ、自分に残された時間は残り1年となってしまった。あと1年の間で自分がどれだけ悔いが残らない生き方ができるのだろうか。少しでも誰かの役に立てる生き方をしたいとは考えながらも、まだ高校生の自分にはそれは難しい課題だった。


 ーーこのまま自分は何もできずに運命の日を迎えてしまうのだろうか……?


 言い知れぬ不安が徐々に拓の心を蝕み始めていた。

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