5

 ごっごっごっ。

 車体は揺れつづけている。むしろ激しくなっている。山道を走っているのだ。いつ目的地に着いてもおかしくない。

 自殺の名所を検索したスマホは部屋に残ったままだろう。危ないメールを探して消して、もしかすると遺書らしきものを打ち込んでいる可能性もある。タッチパネルの指紋は消しやすい。眠る広美の手を押しつければ万全といったところか。

 無断欠勤に気づいた会社の人間が自宅を訪れるのは、早くても二日後の月曜日。自殺で片づけばおんの字。疑われても、逃げ切るつもりでいるのだろう。

 愚かな男だと思う。しかし愚かというなら、そんな男を追いつめた自分のほうがはるかに上だ。調子にのって油断して、殺されかけているのだから。

 目が覚めてよかった。本当に。

 揺れがやんだ。車が停まる。エンジンの音が消える。

 バタン、という音。近づいてくる足音。トランクが、ゆっくり開く。見下ろしてくる男の目の、尋常でない鋭さが、闇の中でもわかった。

「起きてたのかよ」

 遼が舌を打つ。わずかにひるんだ気配。「くそっ」といういらち。

 両手両足を縛った自殺などない。口のガムテープもあり得ない。まさか殴りつけるわけにもいくまい。

「くそっ」

 もう一度、遼が吐いた。駄々っ子のように地面を踏んで頭をきむしった。

 落ち着けといい聞かせるように、天を仰ぎ、深呼吸をする。顔が引きしまった。後戻りはできないという、彼の決意が読みとれた。

「声をだすなよ。乱暴はしたくない」

 いいながら、ガムテープを指でつまむ。ゆっくりがしてゆく。

「叫んだって無駄だ。このダムはもう使われてない。誰も助けにはこない」

 ガムテープがなくなり、呼吸が楽になった。広美はトランクに寝転んだまま、遼を見上げた。

「飲むんだ」

 錠剤を差しだされた。睡眠薬だろう。

「そうすれば、楽に終わる」

「……バレないと思ってるの?」

「バレないさ。さみしい独身女の身投げなんて、世の中にあふれてる。いちいち詳しい捜査なんてするわけない」

 甘い願望にすぎないとあげつらったところで、耳を貸してくれそうになかった。

 広美は事務的な質問をした。

「ここはどこ?」

「どこだっていいだろ」

「自分の死に場所くらい知っておきたい。教えてくれたら、それを飲んであげてもいい」

 迷いを見せながら、遼が地名を口にする。広美のマンションからずいぶん離れた他県の山奥だった。

「気が済んだか?」

 錠剤をねじ込もうとする遼に向かって、広美は思わず苦笑をもらした。

「何がおかしい?」

「何がって──」

「おい、大人しくしろ」

 ごめんなさい、と広美は答える。がんばって笑いをこらえる。その様子に、遼が落ち着きを失くしてゆく。

「何がおかしいんだ」

「だって、遠すぎる」

 遼は意味がわかっていないようだった。

「どうやって、わたしがここまで来たことにする気?」

「どうやって?」

「歩いて来られる距離じゃないでしょ」

「……車で来たことにすればいい」

「その車は、どこにあるの?」

 間抜けに口を開き、遼はぼうぜんとしていた。

「──電車だ。途中まで、電車を使ったんだ」

「それなら防犯カメラに写ってそうなものだけど……」

「たまたま写ってなかったんだ!」

 たしかにあり得なくはないかも──と返して尋ねる。

「わたしのスマホは部屋に置いてきた?」

 遼はうなずかなかったが、答えは明らかだった。

「この場所を検索したのは何時だったかしら」

 遼の動きが、完全に止まった。

「その時刻に、電車はまだある?」

 遼があえぎはじめた。泣きそうな顔ですらあった。

「……どうにかなる。ごまかせる範囲だ。君は自殺の場所をスマホで検索して、歩いてここまでやって来たんだ」

「ねえ、遼」

「大丈夫だ。自殺する人間の心理なんて、誰にもわかりゃしない」

「ねえ」

「うるさいっ! 黙れ」

「写真は処分した?」

 遼が、目を見開いた。

「あなたが突然ウチに来るなんていうものだから、わたし、急いで隠したの。部屋の壁に、たくさん貼っていたやつを」

「噓だ」

 尖った声が返ってきた。

「やばいものがないか、部屋の中は調べた。写真なんて一つもなかった。本棚にもクローゼットにも──」

「冷蔵庫」

「は?」

「冷蔵庫も、ちゃんと確認した?」

「……ない。なかった。ワインを取るとき、のぞいてる」

「二つ目は?」

「二つ目?」

「キッチンの縦長のやつじゃなく、リビングの隅にある、小さくて四角いほう」

 コンセントを抜いた、圧迫専用のやつ。

「隠したのは、そこ」

 遼は一瞬息をのみ、それから引きつった笑みを浮かべた。

「別に、君との関係がバレたって平気だ。君はおれに熱をあげて、フラれて自殺したんだよ。いや。だいたい写真なんて、君に撮らせた憶えはない。ちゃんと用心してきた」

「SNSで拾ったのよ」

「おれはそんなもんやってないっ」

「花岡さんはやってるでしょ?」

「え?」

「彼女、本名で登録してたから」

 すぐに見つけられた。

「……おれの写真は投稿してないはずだ」

「そうね。でも、自分の写真はたくさんあった」

 何枚も何枚も。

「わたしが飾っていたのは、彼女の写真」

「……紗彩の?」

 遼はぽかんとしていた。

「自殺したわたしの部屋からその写真が見つかったら、きっとたいへんな迷惑をかけてしまうでしょうね」

 青ざめた遼が、強がるように声を荒らげる。「今から戻って、処分すればいいだけだっ」

「パソコンにも残ってる」

「パソコン……」

「パスワードは、死にたくないから教えない」

 遼はいい返してこなかった。

 代わりに、「なんで紗彩の?」と、心底不思議そうに首を傾げた。当然の疑問だろうと、広美は思う。

 だってあの人、すごい圧迫だったんだもの。

 あなたにはわからない。花岡紗彩にもわかるまい。ホテルの最上階のカフェバーで覚えた、身の毛がよだつ快感を。

 あれを求め、広美は遼と会いつづけた。花岡紗彩の視線を感じながら、抱きしめられた。身体よりも心で、味わった。

 恐怖ともスリルとも一線を画した、それはやはり圧迫だった。とても素敵な、圧迫だった。

「ねえ、遼。聞いて。わたし、死ぬのは嫌。痛いのも嫌。あなたが本気なのは充分わかった。潮時だって理解した。会おうなんて、もういわない。助けてくれたら、今夜のこのこともぜんぶ忘れる」

 だから──。

「このつまらない圧迫を、早くほどいてちょうだい」

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