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「噓だろ?」初め、遼はそうもらした。しばし絶句し、「噓だろ?」と繰り返した。

 花岡紗彩から警告を受けた二日後、店舗視察を口実にオフィスを出た広美は、客の少ない喫茶店を選んで遼を呼びだした。さつそうと現れた彼の顔は、広美の説明を聞くうちに青ざめていった。

「おそらくまだ、探偵があなたをつけていると思う」

 遼が慌てて辺りを見回した。地下の店に窓はなく、しらのマスター以外に人目がないことは明らかなのに、ごくりとつばを飲む。

「おれは、何も聞いてない」

 君についても話してない、夏のキャンペーンのことだって、話のネタにしただけだ──遼は疑う気になれないほど脂汗を流し、唾を飛ばした。おしぼりで額をぬぐい、内緒話のように声を潜める。「なんで、いきなり君のところへ?」

「さあ。穏便に片をつけたかったんじゃない?」

 余計なことをっ、と吐き捨てる遼を哀れに思った。

 広美は別の答えをもっている。おそらく花岡紗彩は、こうなることを予想していたのだ。脅せばふたりは会わずとも電話で、少なくともメールで、別れ話をするはずだ。遼は簡単に納得しない。女を手玉に取ってきたプライドが、黙ってフラれることを良しとしない。必ず理由を問い詰める。問い詰められれば花岡とのやり取りを明かすしかない。別に口止めをされているわけでもないんだし。

 目の前でうろたえる遼の反応こそが、花岡紗彩の目的なのだ。今、間違いなく彼に刻まれた感情。花岡紗彩に対する恐怖。

 見事なものだと、広美は感心していた。自分と遼の力関係をあくし、性格を見抜き、将来まで見据えた対応。あれでまだ学生というのだから末恐ろしい。

 ただ一点、花岡紗彩は見誤っている。

 世の中に、あなたの常識が通じない人間がいることを。

「じゃあ……」遼が、切迫した泣き笑いを寄せてくる。「仕方ないよな? バレちゃったんだもんな。おれにフィアンセがいることは知ってたもんな? ひと時のバカンスだって、お互い納得してたよな?」

 広美は遼を眺めた。出会ったころに比べ、少し太った身体。張りが失われた肌。ぞんざいになりはじめているセックスや抱擁を思い返し、時間の流れを感じた。

「きれいに別れよう。美しい思い出のまま、胸に秘めてさ」

「もう会わないということ?」

「それは、そうだ。職場には配置換えを希望する。そっちから打診してくれてもかまわない。どうせ来年、彼女が卒業したら辞めるんだから平気さ」

 平気なのはあなただけ──そんな皮肉は控えた。

「まさか、ゴネる気じゃないだろ?」

「ゴネる?」

「別れないとか、いわないだろ? いや、ごめん。広美さんはそういう人じゃないよな。しつこい女は嫌いだろ? かつこう悪くて、みじめだと思うタイプだろ? わかるよ。おれはそんな広美さんにかれたんだから」

「たしかに、泣いたりわめいたり、すがりついたりは得意じゃない」

「だよな? そうだと信じてた。やっぱり広美さんは素敵な女性だ」

「でも」

 そう発した瞬間の遼の顔。ぎろりと血走った目は、まるで漫画のひとコマみたいだ。

「つまらない脅しに屈するのもしやくにさわる」

「馬鹿っ」

 その怒鳴り声に、カウンターのマスターが眉をひそめていた。

「脅しだって? そんな甘いもんじゃない。あの子は──紗彩は本気だ。じっさい、おれは聞いたことがある。高校時代の、彼氏の浮気相手がどうなったかを」

 広美は身を乗りだした。「どうなったの?」

「……詳しくは聞いてないけど、少なくともその子は学校を辞めて家族ごと引っ越したらしい」

「つくり話じゃなく?」

 遼は口をつぐみ、うつむいた。すぼめた肩の震えは演技には見えなかった。

 やっぱり花岡紗彩は、やる女なのだ。

「彼女を悪く思わないでほしい。さみしがり屋なんだ。おれは、そんな彼女の支えになってあげたいんだ」

 しつ深いとも独占欲とも、お金のためとも、遼は口にしなかった。いっそいさぎよいと広美は思う。

「とにかく、おれたちは終わりにするしかない。こんな関係をつづけても、みんな不幸になるだけだから」

「ねえ、遼」

 立ち上がりかけた遼が、腰を浮かせたままこちらを向いた。懇願するような顔だった。

「わたし、別れる気はない」

 噓だろ、というふうに、遼の口がぽかんと開いた。

 噓だろ、と彼が発する前に、広美はいった。

「無理をいうつもりはない。ただ、たまにでいいから、抱いてほしい」

「無理だ!」遼が目をひんいた。「探偵に見守られながらホテルに行けってのか?」

「ホテル以外にも場所はある。なんなら会社でこっそり──」

「いい加減にしてくれっ」

 遼のこぶしがテーブルをたたいた。

「むちゃくちゃだ。冷静になれよ。おれにその気はないんだぞ? なんなら彼女に事情を話してもいい。頭を下げれば許してくれるさ。その後につきまとってみろ。自分がどうなるか、わからないのか?」

 カフェバーの入り口に立っていた男たちが脳裏に浮かぶ。ぞっと全身に鳥肌が立つ。

 その感情を抑え込み、広美は遼を見据えた。

おぼえてる? 夏のキャンペーンが終わったころに送ったメール」

 えっ……と、遼が口ごもる。販路拡大を命じられていた遼へ、社内に蓄積されたフランチャイズ店の情報をメールした。オーナーの誕生日や家族構成、人柄、趣味まで、可能な限りを伝えた。その情報をもとに遼は、夏のキャンペーンのお礼という名目で個別営業をかけた。

「ずいぶん役に立ったでしょう?」

 事実その後、遼が担当する商品の受注はのびた。

「わたしが送ったメール、あなたからの返信、ぜんぶ残ってる」と、広美は自分のスマートフォンを掲げて見せた。

「わかってると思うけど、社外秘の情報よ。もちろん個人情報だし」

「それが、なんだってんだ」

「『有名コンビニチェーンのOLとメーカー営業マンのずぶずぶなちやくと不正』。センスのある見出しじゃないけど」

「おれがどうこう以前に、君が処分される」

「仕方ない」

 ぜんとする遼に向かって重ねる。「あきらめるのは得意なの。あなたのこと以外は」

 この段階でようやく遼は、広美がじようを逸していると悟ったようだった。

「──君がふざけた真似をしたところで、痛くもかゆくもない。仕事は辞めるといってるだろ? 彼女だって、おれを信じてくれるはずだ」

「そうかも。でも、彼女のご両親はどうかしら。情けないしゆうぶんが耳に入っても、あなたとの結婚を許すと思う?」

 表情を失くしていた顔が、みるみる真っ赤に染まった。目元のしわが、きようものめ、と叫んでいた。

 広美は、柔らかな笑みをつくった。

「安心して。本当に、無理はいわないから」


 週に一度、会社のメールを使い約束を交わす。待ち合わせは人ごみで、時間は三十分以内。この取り決めに、遼はいささか拍子抜けした様子だった。食事もなし、泊りもなし。すなわちセックスもなしである。会話さえままならない。

 広美の希望はただただ、抱きしめさせることだった。

 たとえばライブハウスで、たとえば競馬場で、たとえば満員電車で。時刻を示し合わせ、おおよその場所を決め、二人はまるで偶然のように近づき、事故のように身体を添わせた。

 そのたび、せきずいに電流が走った。細胞という細胞が、悲鳴を発する。もう戻れない──そんな確信を覚える快感だった。

 写真を集め、部屋の壁を埋めてゆく。見られているという妄想だけで、広美の気持ちはたかぶった。あるいはこれが、恋という感覚なのかもしれなかった。

 すれ違いに似た逢瀬を重ねるにつれ、丸くなりかけていた遼の身体が引き締まっていった。正しくは、やつれていった。抱擁の最中、「もうやめにしないか?」「そろそろ許してくれ」「いいかげんバレてしまう」ささやかれる泣き言を、広美は相手にしなかった。しゆくしゆくと圧迫を愉しみ、適当な場所を探して一週間後に連絡を入れる。その日がくるまで会社帰りの夜道をぞくぞくしながら歩く。部屋の写真に囲まれ過ごす。胸を高鳴らせ、待ち合わせの場所へ。人ごみで抱き合い、別れ、また連絡する。こんな日々が、二ヵ月、三ヵ月とつづいた。

 十月の末日、ハロウィンの夜、歩行者天国になった交差点の真ん中で「来月いっぱいで退職する」と遼に告げられた。「ああ、そう」と広美は返した。遼のあっけにとられた顔が、一瞬で険しくなった。広美の肩を両手でつかみ、睨みつけてくる。どすの利いた声でいう。「退職までという約束だったはずだ」

「気が変わったの。結婚式まで付き合って」

「ふざけるなっ」

 向かい合う二人のそばを、仮装した若者たちが陽気に通りすぎてゆく。

「おれの人生をめちゃくちゃにするつもりか?」

 花岡紗彩の存在を明かされたとき、遼はくどくどと、そして遠回しにこういっていた。自分はあまり裕福でない家庭に生まれた。この先、才能と努力だけでのし上がるには限界がある。時間もかかる。周りを見返したい、親にも楽をさせてやりたい。花岡紗彩というチャンスを逃す気はない。絶対に。

 ならば浮気などしなければいいのに──そんなは口にしない。今となっては彼らの清い交際と遼のおうせいな性欲に、むしろ感謝している。素敵な圧迫に出会えたし、彼を追いつめる罪悪感が薄れるから。

「時間はいいの? これから彼女と待ち合わせなんでしょう?」

 遼が、じっとこちらを見つめてきた。嚙み締めた口もとが震えていた。


 次の週、待ち合わせの場所を伝えるメールに、遼から返信があった。

『君の部屋で会おう』

 遼が部屋に来るのは初めてだった。手にした紙袋の中から高そうなシャンパンを取りだし、わざわざ買ってきたというグラスに注ぎながら、吹っ切れたよ、と彼は笑った。どうせ結婚まであと半年、だったら楽しむのがおれの流儀だ。そうと決まれば、ほら、飲もう。お互い明日あしたは仕事も休みだし、朝まで付き合ってもらうからな──。

 機嫌よく乾杯し、グラスを空けてゆく。おつまみの用意も、お代わりのしやくも、すべて遼がやってくれた。彼はじようぜつだった。どんどん酒をすすめてきた。シャンパンがなくなると、冷蔵庫で冷やしてあったワインを運んでくる。さあ、飲んで。

 日付が変わりかけた時刻、スマホを貸してくれと請われた。調べものをしたいんだけど、おれのは電池が切れかけてるんだ。スマホをいじる遼を眺めながら、広美は彼が、ほとんど酒を飲んでいないことに気づいた。

 君は誰か、友だちとか家族とかに、おれとの関係を話したりした?

 いいえ。

 会社のパソコンにメールは残してる?

 いいえ。

 じゃあ、このスマホだけが、おれと関係してる証拠なわけだ。

 そうね。

 いいの? おれ、それを消しちゃうかもよ。

 そうね。

 スマホを握る遼が一瞬、鋭い目つきをしてきた。広美は黙って、見返した。

 遼が部屋を見回した。どこからおかしくなっちゃったんだろうな──とつぶやいた。初めからよ、と広美は返した。そうだね、と遼が応じた。

 ふらっと視界が揺れた。意識が遠のいてゆく。あらがいがたい、睡魔に襲われる。

 ごめんね。でも、悪いのは君だ。

 遼がスマホを床に置いた。画面が目に映った。『自殺 名所』という検索ワード。山奥に建つダムの写真。手袋をはめる遼の姿がかすみ、広美の記憶は途切れた。

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