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 遼との密やかな関係が一年を過ぎたころ、上司から声をかけられた。デスクではなく個室へ連れていかれた。ぶよぶよの身体をゆさゆさ揺らす課長の背中を追いながら、嫌な予感がした。

「実は」あふれる脂汗をハンカチでぬぐいつつ、課長が口を開いた。「君に会いたいという人がいるんだ」

 ほら、夏の、パックジュースの陳列企画をえらく気に入ってくれたそうでね、ぜひ担当者と話してみたいとおつしやってて──。

「あれ、君のアイディアだったろ?」

 店頭にワゴンを設置し、四角いパックジュースを敷き詰める企画だ。縁日の屋台を真似したものだが、氷や水の代わりにドライアイスで冷やす点がこだわりだった。パックジュースは水に弱いうんぬんとならべたたくは御託にすぎず、みっちり隙間を埋めてみたいというだけの冗談みたいな提案だったが、なぜか採用され、思いのほか参加店が増え、まずまずの成功を収めた。

 それにしてもおかしな話である。本来、広美は販促キャンペーンの担当ではない。持ち回りで参加した社内コンペの企画がたまたま上手くいったにすぎないと、外部の人間でもピンときそうなものなのに。

「先方は有名な大企業の、創業者のご親族さまだ。責任をもって、我が社の魅力をしっかり伝えてくれなくちゃ困るよ」

 そうをするな。そしてできれば、上司である自分のこともしっかり売り込んでおいてくれ。

 断る理由も権限もなく、広美はすぐさま待ち合わせの場所へ向かった。会社の最寄り駅からほど近い、高級に入る部類のホテル。その最上階にあるカフェバー。

はなおかです」

 予想は当たった。貸し切り状態の店内で待っていたのは、うら若い女性だった。おそらく二十歳そこそこくらい。きらりと光るネックレス、指輪、ったカーディガンまで、ちょっとやそっとじゃ手が出ないしろものだろう。

「面白い企画だと、彼がいっていました。パックジュースを取り上げたのが目新しいって」

 まどろっこしい腹の探り合いはなしだった。夏の企画が通ったとき、広美はそれを遼に伝えている。パックジュースの仕入れが増えるよ、と。

 街を見下ろす窓を背にした花岡は長い指を組み、驚くほどれんにほほ笑んだ。「おかげで成績が上がったんですって」

 でも──と、細い首をかしげる。

「でも、そういうのってどうなんでしょう。わたし、お勤めの経験がないからよくわからないんですけど、何かこう、ズルって感じがしません?」

 抗弁のいとまはなかった。「まあ、どっちでもいいんですけどね。彼は喜んでいるし、もし問題になったところで、どうせ辞める会社ですもの」

 ウェイターがテーブルにやって来た。豪勢なパフェを花岡の前に置く。スマートフォンで写真を撮りつつ、彼女がいてくる。

「蝶野さん、でしたね」

 ええ、と広美はうなずく。

「お生まれはしずおか県で合ってらっしゃいます?」

 ええ、と広美はうなずく。

「O型、うお座。一五三センチ、四○キロ。これは今年の健康診断のときの数字ですから、今は少し違うかしら。実家ではお父さまとお母さまの三人暮らしで、お父さまは家電量販店の店長さん」

 この調子だと、卒業文集のタイトルまで挙げられそうだ。

「SNSはやってないみたいね。ブログも」パフェの写真を撮り終えたスマホをいじりながら、上目遣いに見やってくる。「遼くんもそうだけど、今どき珍しくないですか? 楽しいのに」

「花岡さま」

「『さん』でけっこうよ、広美さん」

 では──、と姿勢を正す。

「花岡あやさん」

 花岡の目が、かすかにとがった。

「わたしのような者に興味をもっていただけて光栄です。わたしは花岡さんのことを、存じ上げませんが、あなたがたいへん魅力的な、気立てのよい女性だという噂は聞いております」

 当然、遼から。

「こうしてお会いして、噂の正しさを知りました」

「つまり?」

「とうていかなわないと理解しました。張り合おうなんておこがましい」

 花岡は椅子に背をあずけ、顎に手を当てた。値踏みするような目が、しばし広美を見下ろした。彼女の、反らした胸の膨らみが目に入る。趣味の問題ではあろうけど、この点でも広美に勝ち目はなさそうだった。

「もともと初めから、張り合う気もありませんし」

「思った通り、そうめいな方」

 花岡が、わざとらしい笑みをつくった。

あこがれちゃうな。広美さんのキャリアウーマンって雰囲気。ドライでクールっていうのかしら? 自分の力で生きてる感じ。わたしはぜんぜん駄目。昔からおっとりしてるといわれるし、向上心が足りないってよく〓られる。一人じゃ何もできないの」

 その笑みのまま、すっと顔を寄せてくる。

「だから、ちゃんと支えてくれる男性が必要だと思ってる。誠実で優しくて、頼りになって、決して裏切らない人」

 まばたきもせずに見据えてくる。

「だって苦手なのよ。競ったりするのが嫌なんです。誰かと何かを取り合うとか、奪い合うとか、疲れるでしょ? そう思わない?」

「──ええ、わたしも苦手です」

「よかった」と、目を細める。「広美さんがそういってくれて、ほっとした。探偵さんを雇いつづけるのもお金がかかるし、裁判なんてことになったら恥ずかしいものね」

 とどめのように加える。「お仕事に支障がでるのも困るでしょう?」

「もちろん──」と、広美は応じる。「困ります」

 花岡が、満足げにうなずいた。

「わたしたち、気が合うかも」

 そうですね、とあいづちを返しながら、広美は自分の身体のこわりを感じていた。

「お仕事中に呼びだしてごめんなさいね」

「いいえ。では──」

「ええ、さようなら」

 立ち上がりきびすを返すと、いつの間にか入り口に数人の男が立っていた。背広姿にサングラスをした大きな男と、若いチンピラ風が三人。席を探すそぶりもなく、彼らはじっとこちらをにらんでいた。

 ああ、おどされているんだと、実感した。


 その夜、冷蔵庫におさまりながら、広美はいろいろ考えた。これまでにないくらい、考えた。人生初の、身の危険。てんびんのもう一方に、人生最高の圧迫がのっている。こんなにも悩ましい選択があるのかと、身もだえしそうだった。

 あの女は、やるだろう。どれだけ用心したところで探偵には敵わない。遼と関係をつづければ、ほどなくサングラスの男かその手下が広美の前に現れるのだ。そして無残な仕打ちをされるのだ。そんなの嫌に決まってる。

 けれど得られる圧迫は、すさまじい。人生をけてしまいそうになるほどだ。このよろこびに勝るものなどないんだと、追いつめられてはっきりわかった。うれしいような、うんざりするような発見だった。

 手放すには惜しすぎる。けれど破滅はしたくない。この素敵な圧迫を、可能な限り長引かせる方法はないものか。パックの栄養ゼリーをじゅるりとすする。もはや冷蔵庫は、気休めにすぎなかった。

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