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 かざりようとは職場で出会った。二年前、広美が二十七歳の冬だ。大学を卒業し、とあるコンビニチェーンの本社に勤務していた広美は、販売戦略部四課に所属していた。飲料品を評価し、仕入れ量の検討資料をつくる部署である。

 新商品のアピールに訪ねてくる営業マンは何人もいたけれど、胃の底がぶるっとふるえる感覚に襲われたのは、遼と対面したときが初めてだった。のちに噂で聞いた。若いがデキる男。快活な口調と甘いマスクを武器に、メキメキと頭角をあらわしているホープ。どうやら独身。

 そんなことは、どうでもよかった。広美が目を奪われたのは、まず彼の服装だった。どこにでもありそうな黒いスーツの、仕立ての良し悪しはわからなかったが、それは彼に、ぴったりと合っていた。

 名刺を交換しながら、テーブル越しに商品の説明を聞きながら、広美は遼を観察しつづけた。すっと肌に寄り添う生地の、その二の腕の、絶妙なふくらみと締めつけ感にれた。ジャストフィットしたツーボタン、ネクタイの結び目もかんぺきだった。

 別れ際、立ち上がった遼の全身を眺め、まいった。身体つき、身長、腕の長さ。遠ざかってゆく太ももの張り具合に、問答無用でそそられた。

 この人に抱きしめられたなら、どんなに気持ちいいだろう。

 大学時代、サークルの女の子に誘われ男遊びに精をだしていたころ、広美は毎週のようにとっかえひっかえ、男に自分を抱かせてみた。相棒の子が彼氏をつくってフェードアウトするまで、のべ三十人くらいは試しただろうか。セックスが上手い男、おしゃべりが楽しい男、気配りができる男、イケメン、金持ち。本気で告白してきたインテリアデザイナー、せいで付き合いつづけた同級生。

 いろんな男がいたけれど、ついぞ満足できる男には出会えなかった。

 圧迫が、いまひとつ。

 せすぎも、太りすぎもいけなかった。優しいだけの抱き方や、力自慢もちょっと違った。隆々とした筋肉も、しょせん珍味にすぎないと気づいた。カサカサ肌、汗っかき、体臭、体温、動きの癖。人間である以上、要素は無限に存在し、そのすべてを満たすのは奇跡に等しいと悟った。そのくせ男は、生活に干渉してくる。わずらわしい。付き合った同級生とは卒業のタイミングで別れ、仕事が忙しくなるにつれ、広美のパートナーはコンセントを抜いた冷蔵庫に落ち着いた。吟味に吟味を重ね、圧迫専用に購入した真四角の箱は文句もいわず、毎晩だって広美をおさめてくれた。人肌のぬくもりや柔らかさが恋しい夜もあったけど、まあ仕方ないと自分にいい聞かせた。どうせ世の中に、完璧な圧迫なんてないのだから。

 そんな彼女の、すっかりれていた期待を、風間遼がうるおした。

 ささいな用事をひねりだしては呼びつけ、少しずつ距離を詰めた。遼に会うたび、冷蔵庫が物足りなくなっていった。

 商談が一つまとまったおり、それらしいくすぐりを入れると、遼から食事に誘われた。少しらしてから承諾した。ほどよいランクのイタリアンレストラン、絶妙なムードのバー。ホテルの選び方まで遼はそつなく、手慣れていた。

 彼に抱かれ、自分の目利きに自信をもった。反面、修業不足も痛感した。想像の何倍も、遼はよかったのだ。

 理想的な肉づきだった。骨格が最高だった。過不足なく、広美がぴったりおさまるサイズ。しっとりしていながらべとつかない、肌質。さざ波のように押しては返す、力加減。こうなると、心拍音すら好ましい。

 何より遼は、果てたあと、頼まずとも抱きしめてくれた。そそくさと下着を身につけたりテレビをつけたり、無遠慮に一服かますやからとはぜんぜん違った。休憩を一泊に変え、朝まで遼の懐に包まれた。彼の身体の突起やおうとつが、息づかいが、広美の隙間を甘く満たしていくような、極楽と呼べる圧迫だった。

 毎晩でも抱かれたいと願う広美に、やはり遼はそつなかった。のめり込むそぶりはなく、彼氏づらをするでもなく、さりとて遊びの軽さはほどほどに、つかず離れず、大人のおうを楽しみましょう。そんな配慮が随所に見られた。まあ、仕方ない。そもそも二人は仕事上の関係で、へんにめるのは面倒だ。

 それはわかっていたけれど、遼への想いはぶくぶくぶくぶくふくらんだ。遼のいない日、コンセントを抜いた冷蔵庫の味気なさにほろりと涙がこぼれた夜、決心した。思いのたけをぶつけよう。正式に恋人同士となって、毎晩抱きしめてもらうんだ。

 結論からいうと、願いはかなわなかった。遼にフィアンセがいたからだ。

 おみになったラブホテルのベッドの上で遼が語ったところによると、相手の彼女は大学生、二十歳になったばかりだという。ひょんな偶然で知り合い、連絡先を交換し、デートを重ねた。付き合って一年近くになるけれど、清らかな交際がつづいている。

 結婚は、遼から切りだしたそうだ。向こうの両親は猛反対で、別れるよう命じられたが、めげずに粘った。持ち前のあいきようを発揮し、彼女の熱意のおかげもあって、どうにか認めてもらうにいたった。彼女が大学を卒業する再来年の六月に、式を挙げることが決まっている。

 聞けば、大層な家柄のお嬢さまらしい。少なくとも炎天下の街を歩き、取引先に頭を下げる生活とはオサラバできる。広美だって悪くない給料をもらっていたが、大の男をぜいたくさせられるほどじゃない。勝負ありというやつだった。

「なら、仕方ないか」

 ぽつりともらした広美の言葉に、後ろから抱きしめてくる遼が反応した。後頭部に、彼のあごがすっと当たった。

「ずいぶん、あっさりしてるね」

「だって仕方ないんでしょう?」

 まあそうだけど……苦笑のような声がした。たぶんこれまで幾度となく、「お願いだから捨てないで」といった台詞せりふをぶつけられてきたのだろう。

 広美は昔から、素直にあきらめるタチだった。どんなに魅力的な隙間を見つけても、どうせ寝転べない。はまれない。あきらめが日常化した人生を、広美は送ってきたのだ。

 しかしこのときばかりは、簡単にさじを投げるわけにはいかなかった。

「結婚したいとはいわない。恋人じゃなくてもかまわない。だからこの先も、たまにこうして抱きしめて」

 遼の二本の腕が、ぎゅっと広美を締めつけた。

「おれ、広美さんのこと、好きだよ」

 くすぐったげなふりをしつつ、そんなことはどうでもいい、と広美は思っていた。抱きしめてくれるかくれないか。重要なのはそれだけだ。

 なんならセックスも不要である。抱き枕として扱ってほしいのだ。さすがに気味悪がられるだろうと思い口にするのは控えたが、これが広美の本音だった。

 抱きしめられたまま、痛感する。この圧迫は、やっぱりいい。

 まだしばらく先の話だよ、それまでゆっくり、二人の時間を楽しもうよ──。いずれ別れる気でいる浮気男のじようとうみたいなささやきではあったけど、いちおう真実も含まれていた。先のことは、わからない。

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