少女の約束

かべうち右近

第1話 

 それはいつもに増してじりじりと暑い夏だった。

「お前が大人になる頃に覚えていたら、必ず迎えに来いよ」

 蝉の鳴き声がやけにうるさい夏だった。

「お前が大人になっても、私を覚えていられたら」

 空を見上げると、いつだって溶けるくらいに暑い太陽が体を刺した。

「お前が大人になっても、私を見ることが出来たら」

 小さい頃は夏に外に出て遊ぶなんて、滅多にしなかった。けれど。

「お前が大人になっても、私に触れることが出来たら」

 もしかしたら、いつよりも増して暑いと感じたのは、あの夏だけは、珍しく外で遊んでいたからなのかもしれない。

「必ず私はお前と一緒にいくから」

 何をしていたのかは、さっぱり、思い出せないけれど。

「いかないで待っているから」


***


 ピピピ ピピピ ピピピ

 突如鳴り出したアラーム音に、がばっと男は跳ね起きた。


「……っ」


 目覚めは最悪だった。荒い息を抑えながら、男は部屋の中を見回して、音源を探る。


「……夢、か……」


 ピ、と時計のアラームを止めて、男は唸った。


(しばらく、見てなかったのにな……)


 苦々しく思って、男はそこで初めて、自分が泣いていたことに気付いた。微かに乾いた涙の跡をさすって、夢を思い起こす。


 懐かしい夢だった。小さい頃から何度も何度も、繰り返し見ていた夢。けれど、哀しいという思いしか、目覚めた時には思い出せない。内容はどうしても思い出せないのに、なぜか同じ夢だと、男は思う。…内容は、思い出したくないのかもしれない。


 その夢を、しばらく見ていなかったはずなのに。


(どうして、今更……)


 男は首を振って、ベッドからすべり降りた。あたたかい布団の中とは違って、部屋は随分ひんやりとしている。十一月も中旬となろう朝だ。寒いのも無理はない。

 寒い筈なのに、男の背中はじっとりと汗をかいている。……先ほどまで見ていた夢のせいだった。


 もう一度だけ頭を振って、男は着替えを済ませる。それは、先ほどまで見ていた夢を、振り払うような仕草だった。


 部屋を出て、下の部屋の居間に男は顔を出す。


「おはよう、修治。今日は少し早いわねぇ」


 居間にいた女は、男をそう呼んだ。


 男の名は、修治。朝食をテーブルに並べているのは、彼の母だった。


「ん、おはよう」


 修治は軽く挨拶して、テーブルにつく。


「あら、あんた、目が赤くない?」


 修治の顔を見た母が心配そうな顔をしたのに、修治はしまったと思う。


「いや、そんなことないだろ」

「そう?」


 修治が目をこすりながら誤魔化すのに、母はその修治の前に朝食を並べながら言い、居間と続き間のキッチンに歩いて行った。夢を見て泣いたから目が赤いのだとは、よもや言えまい。


「母さん、前にも言ったけど、今日は泊まるから」


 ご飯に手をつけ、修治は母の背中に声をかける。


「ああ、皆が誕生日会やってくれるって言ってたねぇ。あ!」


 味噌汁をおわんにつぎながら言っていた母が、ぴたりと止まって、修治を振り返る。その顔は疑るような表情だ。修治はその顔に厭な予感がしたが、あえてそれは無視する。


「まさかあんた、お酒飲むつもりじゃないでしょうね」

「飲み会なんていつもやってるだろ?」


 素知らぬ調子の修治の返事に、母の顔が鬼と化した。


「あんたねー、まだ未成年なんだからね。絶対、呑んじゃだめ!」


 キッと睨んで母はきつく言う。が、修治は慣れたもので、はいはい、と生返事をしてご飯を食べる。


「お酒飲みたいんだったら、日曜まで我慢しなさいよ。ちゃんと20歳になるまで、お酒飲むのは許さないからね」


 味噌汁を修治の目の前に置いて母は言うが、修治はまた、はいはい、と生返事をした。


 そうして、修治は母の忠告を聞き流しながらご飯をお腹に流し込み、大学へと出かける。

 久しい夢を見た以外は、いつもと何ら変わりない、普通の一日の始まりであった。


***


 いつもノイズが走る映像だった。

 ―――………じ……。

 誰かが、呼ぶ声。その声音は優しくて、とても懐かしいのに、哀しい。じんじんと、体が痛むのだけれど、その痛みよりも、目の前で起きていることの方が重大だった。

―――……!

 叫ぶ自分。ぼんやりと、その映像は霞んで、全てを見通せない。けれど。

―――……いやだ。

 修治はその夢を知っていた。幼い頃から何度も見ている夢だ。だから。

―――見たくない……!

 夢を打ち切った。


***


「おい、もう授業終わってるぞ」


 こん、と頭を小突かれて、修治は顔をあげる。


「…何だ、白木か」


 起こされて修治は呟く。見回せば教授は既におらず、教室いっぱいに居た人が、立ち上がって教室から出かけている姿が目立つ。


「んー…よく寝た」

「よく寝た、ってお前、今日の授業全部寝てただろ。寝すぎだよ」


 修治を起こした友人――白木は呆れ顔で言う。


「まぁな」


 伸びをしながら修治は白木に答える。授業なんてどうでも良さそうな風だ。広げていたルーズリーフと教科書を鞄に突っ込む。


「………まぁな、って…お前が授業寝てるなんて、珍しいよな。何かあったのか?」

「さぁ、疲れてるんじゃないか?」


 白木が心配するのに、修治はなんともそっけない。男に心配されても嬉しくないという所だろう。


「…あっそ。で、お前の飲み会だけど、波多んちでやることになったから。先に酒とつまみ買ってから行こうぜ」


 そう言われたので初めて、修治は鞄から視線を白木に移して、疑問符を顔に浮かばせる。


「…俺も一緒に金払うのか?」

「もちろん」


 白木は何の気なしに返事したが、それで少しだけ、修治の顔色が芳しくなくなる。


「奢ってくれるんじゃないのか?」

「馬鹿言うな。皆でプレゼント買ってやるんだから、自分の飲み代くらい出しやがれ」


 軽く修治の頭をはたいて、白木はそう言ったが修治は納得しない。


「俺が祝われるんだろ?」

「金払って祝われろ」


 口の悪い友人は引き下がらないが、修治もしつこい。


「やだね。お前の誕生日だって、飲み代出してやっただろ。俺が奢られるのが順当だ」

「ちっ、言い出したらきかねぇなぁ、お前は。判ったよ、この頑固野朗」


 舌打ちをして言う白木の言葉に、修治は笑んで答える。


「そうこなくちゃな」


 そんなやりとりをして、修治たちは大学を出て、軽い買い物をしてから、誕生日会のある波多の家へと向かった。


 誕生日会と言っても、大仰なものではない。ちょっとした惣菜が小さなちゃぶ台の上に載せられ、その脇に所狭しと酒が並んでいる。要は、誕生日にかこつけた飲み会だ。


「誕生日おめでとー」


 最初は一応の乾杯をして、集まった面々は思い思いに酒を飲み始める。ほとんど腹に食べ物を入れずに飲むものだから、ものの1時間で酔っ払いの集団が出来上がった。


 主賓である修治も例に漏れない。缶の発泡酒をちびちびと飲みながら酔っ払いの視線を泳がせている。


「しゅうじ」


 その声は、修治が横になったときにかけられた言葉だった。一瞬驚いて、修治は声の主を探る。


「何だ、もう寝るのか?」


 声は、白木だった。酒の臭いをぷんぷんとさせて、こちらに近づいてくる。修治は軽く笑って、首を振った。


「いや」


 否定するも、修治は体を起こさない。修治の目には、蛍光灯の白い光が、チラチラと映る。直視するのは少し眩しい、真っ白い光だ。まるで、真夏の太陽のような。


「お前、今日一日中寝といて、まだ寝るのか? よく寝るな、今日は」


 そう言われて、修治は少し思案する。


 確かに、今日は講義中も含め、ずっと寝っぱなしだった。眠くないはずなのに、まるで何かに眠らされたかのような、浅い眠りと、夢。


「…ほんとだな」


 修治は曖昧に笑って、缶を宙にかざした。空き缶で蛍光灯の光を遮るように、修治はゆらゆらと手を動かす。アルミに反射した光が、きらきらと修治の目をまた刺激した。それはとても綺麗で、同時に、何だかとても懐かしい感じがした。


 キラキラと、修治の目の中に光が入っては、消えていく。


「綺麗だけど、空き缶の光ってのがしょぼいな」

「は?」


 修治が呟いたのを、白木が聞きとがめたが、修治はまた首を振った。


 そうして、修治はそのまま眠りについた。また、何かに誘われるような眠りに。


***


 少しずつ、変化を遂げる日常が微かな音を立てて、何かが、男を、そこへ誘う。

―――……じ。

声が、そこへ男を誘う。

―――し…う……。

不明瞭に聞き取れない声は、若い女のものだった。声に誘われ、先に渦巻くのは、どこかの社。緑濃いまだらの空間。そして、きらきらと光る何か。

―――誰だ?

 目を刺激してやまない光は、男の視界を、奪う。

―――………来い…………。

 男がはっきりと意識する前に、呼び声と景色は溶解する。

 ……男はまだ、微かな日常の変化に、気付いていない。


***


 朝方7時。修治はぼんやりと目覚めて、重い頭を振った。酔いは覚めているはずだが、体はなんとなくだるい。酒の臭いが漂う部屋には、男どもが伏していた。


「まだ早いか…」


 修治は少し笑って早々に帰る支度を始める。寝ている奴らを起こさないように、静かに鞄を取り上げて、修治はそっと部屋から抜け出した。


 アパートを出た修治に襲うのは、昇ったばかりのまぶしい太陽の光と、つんと凪ぐ冷たい空気。ゆっくりと伸びをしてから、修治は歩き出した。


 大学すぐそばのアパートは、修治の家からもかなり近い。修治の家の近くには、小さな川があり、川をはさんで小さな山、川沿いに歩くとちょっとした店の群れがあり、その店の群れを抜けると、大学が位置する。自転車で移動しても良いのだが、歩けば十分な距離である。


 飲み会のあったアパートは大学の裏にあったので、修治は大学を通り抜けて、いつもの歩きなれている川沿いの道に出た。


 7時という時間もあって、まだずいぶんと気温が低い。冬独特のキンと澄んだ空気に、白い息が吸い込まれていくようだ。朝の町はとても静かで、修治の歩く足音以外の音がない。


 しん、とした町に、修治の足音ばかりが響く。修治は黙って、自分の足音を聞きながら、家に向かって歩いていた。


 そのときである。


 修治は最初、それに気づかなかった。


―――……じ。


 足音に、ノイズが混じる。

 朝焼けの町には、修治以外、歩いている人はいない。車は店を挟んだ道の向こうに、時折走っているが、修治の足音よりも小さな音だった。

 ノイズは、車の音とは別の周波数で、修治の耳に届く。


―――…ぅ…。


 また、ノイズが走る。


 ぶぅん、と遠くを走る車の音と、足音に混じって、聞こえるその音。修治はまだ、気付かない。


―――……ぅ、じ……。


 それは小さな声のようだった。耳元で、かすかにささやかれるような、小さな音。3度目に耳に届いたとき、修治は、ただ雑音だと思った。しかし、次の瞬間、修治は耳を疑う。


―――しゅうじ。


 耳に直接響くような声。確かにそれは、修治の名を呼んでいた。


「……!?」


 訝しく思って、修治は思わず足を止める。ここにくるまで、誰ともすれ違っていない。誰かに呼ばれる筈が、ない。


「しゅうじ」


 今度は、後ろからの声だった。思わず修治は振り向いて、見たものに目を見張る。

 女が、立っている。たった今修治が歩いてきて、先ほどまで誰もいなかったはずの川べりに、女が立っているのだ。その姿が、修治には妙に気になった。


 白く丈の長いワンピースを着た、黒髪の長い女の人だ。今どき珍しく、前髪も後ろ髪もまっすぐに切り揃えている。着物でも着せてやれば、日本人形のような人だった。


 修治が振り向いて、何も言えずにじっと見ていると、女は少し首を傾げて、もう一度、名を呼ぶ。


「……しゅうじ……?」


 女は、まるで修治が旧知の友人であるかのような親しみを感じさせる声音で呼びかける。その顔には少しの驚きの表情も浮かべながら。けれど修治は。


「……誰だ?」


 言って修治は、眉間に皺を寄せた。それは理解できないことが起きたから、ではない。


「……私が、見えるのか……?」


 更に驚いた顔で、女は修治に語りかける。

 理解できないこと…急に日本人形のような女が現れたこと。それは、修治にとって、お化けがでたなどと騒ぎ立てるような、大事ではなかった。何故、女が自分を知っているのか、ということが、修治には問題だった。呼び捨てにされるような日本人形の知り合いは、修治の記憶の中にいない。


「聞いているのは、俺だ。何だ、お前は」


 一歩、女が足を踏み出しかけたのを、修治は声の威圧で、それを止める。二人の間に、ぴり、と空気が張っているようだ。冬の空気とは、違う、もっとぴりぴりとした空気が。


「……っ」


 女は、一瞬口を開きかけて、黙る。そして、まっすぐ見つめていた修治から、そこで初めて目を逸らした。


「……駄目、か…」


 女の言葉に、ぴり、と空気が揺れ、凪にさわさわと冷たい空気が混じる。


「しゅうじ…約束…。今はまだ、忘れているか…?」


 冷たい空気に、さらりと女の黒髪が揺れる。日本人形が悲しい笑みを浮かべて、修治をもう一度見て言った。その言葉が、妙に修治の耳にまとわりつく。まるで耳が焼け爛れてしまったか、もしくは脳みそがいかれてしまったかのように、うまく人形の言葉が理解できなかった。ただ、目だけが人形を捕らえていて、さらりと揺れる黒い髪と、その下のやけに白い肌が光に混じる。


「な、に…?」


 言葉を吐きながら、容赦なくぶつけられる日本人形のまなざしに、修治は急に、酒がまわったような目眩を感じる。耳がおかしいのも、人形の言葉が理解できないのも、二日酔いのせいだと、修治は思いこもうとする。急に世界が傾いだように視界が揺れるのも、女が急に現れたのも、傾いだ視界に光が走るのも、きっとすべて、酔いのせいだと。


 足元をふらふらとさせ始めた修治に、また少し悲しそうな顔をして、人形は一歩、修治から離れる。


「やくそく、だ」


 もう一度つぶやいて、日本人形の女は、とろり、と空気に消えた。


「やく、そく…」


 同時に、修治は視界を光に奪われ、その場に昏倒した。


***


 修治は目覚めて、しばらくぼんやりとする。視界に移る天井を見て、どうしてここにいるのだろうと考えてから、先ほどまでが夢だったのだと思い至った。

夢はすでに朧な記憶の隅に消え初めている。かろうじて頭に残った情景を修治は頭に浮かべて、苦笑した。


 カーテンの隙間から覗く空には、すでに半ばまで上った太陽がさんさんと照っている。時刻は昼近くだった。日が照っているとはいえ、やはり寒い。


 久々に見た夢以外は、何ら変わりない、いつもの同じ、普通の一日の始まりだ。

着替えるという一連の動作の間に、寒気も手伝って、修治の眠気は完全に覚める。そして朧に覚えていた夢も、呻いたこともはっきりとした意識にかき消された。

修治は暖房がついている筈の一階の居間へと降りた。居間は思ったとおり、暖房が入っている。


「あら、あんた、いつの間に帰ってきたの? もう昼だよ」


 テレビを見ていた母が、修治の姿を見とめて声をかける。


「朝帰ってきた。何か食べるもんある?」

「冷蔵庫に今朝の残りあるよ。母さん、もう昼ごはん食べちゃったから、あんた冷蔵庫のもの、適当に食べて」


 テレビから目も離さずに母は言う。母の暇つぶしは大抵、お昼のワイドショーである。丁度殺人事件が報道されているところだ。母は顔を険しくさせて、食い入るように画面を見つめている。それはいつものことなので、修治は気にもとめずに冷蔵庫を物色する。


「ちょっとー、あんたこれ見なさいよ。この近くだって。この事件」

「へーどこ?」


 テレビに背を向ける形で座った修治は、背中越しにチラリと母を見て、適当に返す。殺人事件といったって、自分にはおおよそ関係ない。


「あの神社の近くの」

「え、すげえ近いじゃん」

「物騒ねえ……」


 このすぐ近くでの殺人事件。

 死体が次々と見つかり、連続殺人事件であることがつい最近わかったらしい。犯人はまだ見つかっておらず、住民に注意を呼びかけているらしい。


(そういえば、なんか子どものころも殺人事件があったんだっけ。忘れたけど)


「あんたも気をつけないと。犯人が捕まるまで、夜出かけるのやめなさいよ」

「大学あったら無理じゃね?」

「あんたはまたそんなこと言って!」


 呆れた声が返ってきたが、修治はあまり気にしていなかった。どうせこの辺りは人気が少ない。殺人鬼だろうと、見知らぬ人間に近づかなければいい話だ。


「へーへー」


 ソファから立ち上がりながら言う母に、修治は軽く返事してそのまま居間を出た。部屋の中から母の声が追ってきていたが、修治は特に気にも留めない。居間を出てすぐに玄関に向かい、靴を履いて、上着をはおり、玄関の扉に手をかけた。


「ちょっと修治、ケーキ、買ってあるんだからね、早く帰ってきなさいよ!」


 出ようとしたその時に、最後にそんな言葉が修治の耳に届く。しかし、修治は返事をしないで、ただ、


「いってきます」


 それだけ言って、家を出た。


 十一月一八日、日曜日。今日は、修治の二〇歳になる誕生日だった。だから、バースデーケーキが用意してある。この歳にもなって、バースデーケーキ。修治は用意されたケーキを想像して苦笑した。自分にいいかげん、子どもではない、良い大人だ。ケーキを欲しがるような歳じゃない。ガキだったあの頃ならともかく、自分は大人になった筈なのだから。


(あの頃?)


 修治はぼんやりと考えていたのだが、そこでぷつりと思考が停止した。どうして『あの頃』と比べたんだろうかと、ふと疑問に思う。大体『あの頃』がいつなのか、修治には検討がつかない。なのに、修治はぼんやりといつかの自分と今の自分を比べていたのだ。


 今朝、久々に見た夢と同じように、意味が判らなかった。だから、それ以上考えるのは止めることにする。判らないことは考えても仕方がない。


 そんなことを考えながらも、ポケットに財布と携帯を突っ込んできただけの修治の足は、自然といつも行っている近所の本屋に向いていた。


 修治の家は、町中の住宅地のはずれにある。家から少し歩くと、細い川があるが、修治は用事がないため、めったにこの川に掛かる橋を渡らない。修治の家から見て左手に川があり、川の左手には道路を挟んですぐに、山になっている。誰も寄らない山だ。川沿いの道をしばらく進むと、できそこないの小さな繁華街があり、その中の一つに修治の行きつけの本屋がある。


 本屋の看板をぼんやりと見上げながら、修治は本屋に向かう。特に用事があるわけではないのだが、それでも足は自然とそちらに向いている。すでに癖になっているのだ。慣れた道を無意識に歩く。川沿いの、人通りの少ない道だ。大通りに比べれば車の通りも断然少ない。その静かな道をあと300メートルほど歩けば目的の本屋につく。


 ちょうどそんなところまで来たところだ。修治は前方に人を発見した。


***


 あまり外に出ない子供だった。小さい頃から家で本を読んだり、一人でゲームをしていることの方が多くて、外で遊ぶ友達は少ない方だった。我侭というよりは頑固な性格だったので、友達と遊びなさいという親の言葉にもあまり従わない。夏休みでも、エアコンと扇風機の両方をガンガンに回して涼しくした部屋で、一人で遊んでいるのが思い出の殆どだった。


 けれど、その夏だけは珍しく、少年は外で遊びまわっていたのである。外で遊ぶしかなかったのだ。


「しゅうちゃん、外で遊んでらっしゃい」


 体を悪くして、一夏の間だけ家に同居していた祖母が、少年、修治を外で遊ばせたのだ。


「ばーちゃん、外暑い」

「暑いのなんか当たり前だわね。子供は外で遊ぶもんだよ」


 しかつめらしい顔をした祖母に対して、孫は自分の主張を飽くまで頑固に貫こうとする。しかし弱音を吐く孫に祖母はぴしゃりと言い、外で遊ぶように家から修治を放り出した。これでよくも病人だとは言ったものである。お腹が空くといけないからと言って、祖母は自分の茶菓子を修治に持たせていたが、到底その砂糖菓子を食べる気は修治には起きなかった。透明のビニール袋に詰めた砂糖菓子は、袋の中で少しずつ崩れて大層食べにくそうだった。


「涼しいところないかな」


 家から出された修治はおおよそ、子供らしくなく可愛らしくない様子で、日陰を求めて歩き始めた。手には無理やり持たされた砂糖菓子の袋をしっかり握っている。食べる気はなかったが、置いて出ればまた祖母に叱られると判断したのだろう。ビニール袋を握った手はじっとりと汗をかく。道の脇の木で鳴く蝉の声が余計に暑く感じさせた。


 この頃からよく通うようになっていた本屋の道を選んで、修治は空を見上げた。視界に広がるのは憎たらしいくらいに晴れ渡った空である。その端には青い山が映る。何の変哲もない、快晴の空である。今更ながら、何でこんな暑い日に外に出なきゃならないのだろう、と可愛くないことを考えながら修治は再び道へと目線を戻しかけた。


 その時である。


 視界の左端で、何かが動いた気がした。


 ふと見て見ると、そこは何もない。ただ川が流れているだけで、何かが視界をよぎったというのなら、鳥でもいたのかと思えば、そうでもないようだ。そうしてキョロキョロとしているうちに、修治は川の向こうに小さな鳥居があるのを見つけた。


「……あんなのあったっけ?」


 見覚えのないものだった。毎日小学校に通う道々で、この川沿いの道は通っているはずなのだが、鳥居を見たことはないような気がする。もしかしたらそんな気がするだけで、見ていても今までは気に留めていなかっただけなのかもしれない。視力の良い修治の目には、鳥居の先に、木漏れ日がまだらに落ちた涼しそうな階段が続いているのが目に入った。


「行ってみよ」


 呟いて、修治は一番近い橋を渡り、すぐに鳥居のところまでたどりついた。川を挟んで見ると、小さく見えた鳥居も近づいて見れば、かなり大きく見える。川越しからも見えたとおり、鳥居の先には木漏れ日の落ちた階段が続いている。長く続く階段の先は、緑に覆われていて、その先にあると思われる建物は見えない。鳥居の先の階段上にあるものといえば、神社だろう。大して面白いものがある訳でもないのは判りきっている。けれど何となしに修治はその鳥居から離れることもせず、ただ階段の先を見上げていた。


「誰だお前」


 修治の後ろから、凛とした声がかかった。高く澄んだ、耳に快い声だ。


「え」


 振り返った修治の目には、自分よりも背の低い少女が映った。その姿が妙だ。ぱつんと切り揃えたおかっぱ頭に、紺色の浴衣といういでたちである。祭りがある訳でもないのに昼間から浴衣を着ている人など珍しい。手には小ぶりのひまわりを一輪もっている。


「登らないなら、どいてくれよ」

「な、なんだよお前」


 二度目の無礼な言葉に、修治は驚きながら声を荒げる。見たことのない少女は、修治が発した自分に対しての言葉に、一瞬きょとんとしたが、すぐにその表情を収めた。


「とろい奴だな、通るぞ」


 奇妙に映る少女にたじろいでいるばかりの修治に苛立ったのか、少女はトンッと修治の体を押し退けて階段を上り始めた。反動で軽く修治の体が下がった。ぼんやりとしていたとは言え、押し退けられたのが気に入らなかったらしい。修治はむっとして少女の背中を追いかける。


「待てよ!」


 少女は急な階段を駆け足で上っていく。修治は運動が苦手な方ではないが、少女の背中になかなか追いつくことが出来なかった。追いついた時にはすでに少女は階段を上りきって、神社の境内で足を揺らしていた。


「何だ、お前ついてきたのか?」

「お前って言うなよ」


 息をあげながら走りよってきた修治に、少女は飽きれたように声をかける。まるで、来なきゃいいのに、というような口ぶりだ。それがまた、修治を逆なでするのだ。


「名前知らないからしょうがないだろう。しかし何でまたこんな、来ても意味のないようなとこに来たんだ?お前、遊ぶんならもっと他のところがあるだろうに。さっさと帰ったほうがいいぞ」


 大人びた、というよりはすれた男のような口調で少女は忠告する。というのは、神社の周りにはほぼ何もないということだ。鳥居の横に小さな井戸があるくらいで、他には殆ど何もない。敷地がさほど広いわけでもないから、おおよそ遊ぶには適していないと思われる場所だ。『ならお前はどうしてここにいる』という言葉を、修治は一応飲み込んでおく。それよりも先に。


「修治」

「は?」

「修治だ。お前じゃない」


 目を丸くした少女に、修治は繰り返した。何度も何度もお前呼ばわりされたのでは、腹がたってしょうがない。

「……あぁ、お前の名前?」

「修治だ。お、ま、えは?」


 むっつりした顔でもう一度言い、『お前』攻撃を仕掛けてみる。身をもってお前呼ばわりの屈辱を味あわせたかったらしい。


「……お前、変な奴だなぁ。私なんかほっといて、早く帰ればいいのに」


 なおも呆れたように少女は言ったが、今度はただ呆れているだけでなく微かに楽しそうに笑っている。


「だからお前じゃな…」

「悪かったよ、お前なんて呼んで」

「え」


 すんなりと出てきた謝罪の言葉に、修治は拍子抜けした。一瞬にして、自分が何故怒っていたのか、わからなくなる。


「教えてやる」

「は?」


 くすくすと笑いながら言う少女に、修治は怪訝そうな顔を向けた。


「私の名前は」


 少女が修治の言葉を遮ったところで、首を少し傾げた少女が止まった。傾いでさらりと揺れた黒髪の毛先までが止まっている。いや、修治の目には、急に景色が揺らいだように映った。鮮明だった目の前の少女と神社が急に色を失い、そして閃光と共に消える。


***


 ……夢だった。


「起きたか?」


 目覚めた修治の目に、真っ先に飛び込んだのは、先ほど本屋に向かう途中で見かけた女の人だった。そして、その先に見える、木造の天井。修治がいるのは神社らしい。修治はぼんやりと、夢の続きかと思った。女の人は、修治を心配する風でもなく、待ちくたびれたような感の表情を浮かべている。修治はただぼんやりとしていた。まだ頭が起きていないらしい。


「どうした? 頭でも打ったのか?」


 修治が何も言わないので、覗き込んだまま、女の人は首を傾げた。それで切り揃えられた綺麗な髪が一筋、さらりと落ちて、修治の顔に当たる。日本人形のように整った顔が不思議そうな顔でこちらに目を向けている。


「あ……」


 思わず修治は声をあげる。この日本人形に、修治は見覚えがあった。


「ん?」


 また首を傾げて日本人形が修治の顔を見たが、修治は答えず、ただ顔を見る。

何処で見たのかを、思い出せない。知らないのに、知っているような気がする。整った日本人形。切り揃えられた黒髪。何かが、修治の中で1つ弾けた。何かと目の前の日本人形が、重なる。


―――私の名前は……。


「……さ、や…?」


 少し掠れた声で、修治は呟いた。何故か、その名が頭に浮かんだ。この日本人形は知らない筈だが、その名を、覚えず修治は呟いていた。その声は小さかったのだが、女の人には聞こえたようだ。日本人形の顔が、ふ、と微笑んだ。


「覚えていたか、偉いぞ。ばかしゅうじ」


 あどけない少女のように微笑んだ女の顔が、修治の目に焼きついた。


***


 修治は本屋に寄ることなく、川沿いの道を散歩して、どこにも寄ることなく家に帰った。何となく、本屋に寄る気がおきなかったのだ。


 男言葉の日本人形は、修治が目覚めてすぐに、去ってしまった。


「あの場所で、また。しゅうじ」


 そう言い残して、未だ現実と夢との区別がついていない修治を残して行ってしまった。


 夢見ごこちだったためか修治は、日本人形に、乱暴に頭を下ろされて初めて、意識がはっきりとする。頭に響く激しい痛みで目覚めるまで、自分が膝枕で寝かされていたことや、倒れて寝てしまっていたのだということにしばらく気付かなかった。激しい痛みに修治はまた意識を失いそうになるが、何とか痛みに耐える。そうしてから体を起こして修治が日本人形の姿を追おうとした時には、すでに日本人形の姿は階段から颯爽と消えていた。


 あの日本人形の細腕で、どうやって神社へ運んだのかが謎だ。そもそもあの日本人形の存在自体がわからない。修治には自分の名を知られていることが不思議だったし、どうして『さや』という名前が浮かんだのかもわからない。


 取り残された修治は、辺りを見回して、どうやら夢に見た神社と同じところだということに気が付く。それからすぐに日本人形が去って行った階段を、自分も駆け下りてみたが、やはり日本人形の姿は見当たらなかった。


 神社のある山から下りて、修治は本屋に寄らずに家に帰った。気が乗らなかったのだ。お腹が空いていたはずだが、それも忘れていた。


「あら、あんた割と早かったねえ」


 家に帰り、居間に再び顔を出した修治にかかった一声だ。母はいつものように、普段と変わらない家事をしていた。修治に起こった異変など知る由もない。

母の方を見て偶然に視界に入った時計の針は、2時をさしている。修治は自分が意外に長い時間を寝ていたのだと知る。成人した日だというのに、随分と自分は時間を無駄にしたものだと修治は思う。今日は何かをするはずじゃなかったのか。


「何か食べるもん残ってる?」


 修治は冷蔵庫に手をかけ、一応母に聞いてみる。冷蔵庫の中には見たところ、すぐに食べられそうなものは入っていなかった。


「あんたご飯食べてないの? やだね、ちゃんと食べなさいよーいい大人になったんだから自己管理くらいしなさい」


 母は早口でまくしたて、立ち上がってキッチンの方へと歩いてくる。修治のために簡単なご飯でも作ってやるつもりなのだろう。近づいてきた母を避けるように、修治は冷蔵庫の前を離れて居間の入り口に歩いていった。


「いいよ、腹減ってないから」


 言い残して、自分の部屋に引き上げる。母の声が出る前と同じように追ってきたが、それは無視した。


「……大人、ねぇ」


 ぼそりと呟いて、修治はベッドに横たわる。


「どれだけ大人になったんだか」


 嘆息して無意識に吐いた言葉は誰に受け止められるわけでもなく、そのまま部屋に吸い込まれた。


 そして、横になった修治の意識はすぐに溶けて行く。まるで睡眠薬を盛られたかのように、魔法で引き込まれるかのように、休息を欲していなかった修治の体は、眠りに誘われた。


***


 明るくなった視界の中に広がったのは濃い緑だった。十一月の山には相応しくない、青々とした緑が匂う夏のような風景。…しかし、修治はその違和感に気付いていない。ただ、緑を見回して息を吐いた。清々しい感じがする。葉の間からは、温かい日の光が漏れていて、影を落とした石段にまだらの模様を作り出していた。神社の階段である。階段の中腹あたりにいる修治は、そこで初めて違和感を覚えた。


「……何でこんなとこいるんだ?」


 大きく伸びをしてから、存分に五月の清々しさを満喫した後の言葉である。きょろきょろと周りを見回す。そこはやはり、神社に続く階段の途中だ。しかし、修治は登ってきた覚えがさっぱりない。


「しゅうじ」


 途方にくれているところへの、天からの声だった。


「え?」


 天だと思った先には、あの日本人形が居た。日本人形は、空ではなく、階段の一番上の所にしゃがんで、こちらを覗いている。キャミソールの間から露になった白い肩にまだらの日が映えて、修治には少し眩しかった。


 何となく、帰ろうかと思っていた。けれど、何となく神社に登ってみようかとも修治は思っていた。声がかかった瞬間、修治の足は神社の上に向かっていた。


「……さや?」


 一段一段、確かめるように上りながら、修治は聞く。確か、『さや』と言ったら、この日本人形は答えたのだ。その名前に深い意味はないはずなのに、修治は自然と緊張して日本人形の顔をうかがう。

「……さや」


 もう一度、修治は呼びかける。日本人形と、目が合う。瞬間に風が吹き、修治は足が、すくんだ。


「何だ?」

「いや…」


 聞き返した日本人形の声に、修治はまたたじろいで、少しうつむく。日本人形…いや、さやの視線が、修治にささっているのが修治にはわかった。けれど、何故か視線を合わせることが出来ない。何が気まずいのか判らない。この年になって、人見知りをするわけでも、異性が怖いわけでもない。けれど、何かこのさやという女に対して、違和感にも似た気まずさが修治らしからぬ行為をさせる。


「…しゅうじ?」

「なぁ…お前さ」


 さやの訝しげな声に、修治は、階段の真ん中に立ち止まったまま、もう一度声をかけた。


「さや、だ。しゅうじ、お前って呼ぶなって最初に言ったのはしゅうじだろう?」


 修治ははっとして、顔をあげる。この日本人形が、知らないはずの修治の夢だ。さやの顔こぼれた悪戯っぽい笑顔が目に入った刹那に、また、出会った時と同じように修治の脳裏に閃光が走った。けれど、今度は倒れない。くらくらとしたが、何とか踏みとどまる。


「さや、聞いていいか?」


 眩暈を抑えて、修治は、さやをまっすぐにみつめた。その修治の目に、さやはまっすぐにみつめ返してくる。修治はぶつかってくる黒い目線から、今すぐにでも目を離してしまいたくなる衝動を懸命に抑える。怯えているのかもしれない。修治は、この見知らぬ女に恐怖を抱いているのかもしれないと、そう思った。


「どうしたんだ、しゅうじ」


 変わらずの男言葉で、けれど、声音には少し気遣いを伺わせる様子でさやは修治に言葉を促す。理解出来ない焦燥感に、修治は頭がぐるぐると回るような感じがする。それでも、一つ深呼吸をして、息を整える。


「…どうして、俺の名前を知ってる?」


 恐る恐る、修治は言葉を搾り出す。

 そもそも、違和感を覚える元凶、得体の知れない恐怖を抱く理由はこれだ。どうしてさやの名前を知っていたのかがわからない。そして、さやがどうして修治の名前を知っているのかが、修治にはわからない。…判らないものというのはそれだけで畏怖の対象となりうるのだ。

 修治が発した疑問は、すぐさまにさやの顔色を変化させた。


「………なんだと?」


 低い声が、可憐な姿から漏れる。見る間に笑顔は消え、眉間に皺を寄せてさやは舌打ちした。そして、しゃがんでいたのから、すぐに立ち上がる。じわじわとさやの苛立ちが伝わってくるようだった。けれど、何がまずかったのか、修治には判らない。ただ、修治がさやを知らないということは理解しもらえたようだと悟る。


「どうして、お前の名前を、私が知っているか…? そんなこと……何故だと思うんだ……?」


 口に手をあてて、低く唸り、さやは歩き回る。そして、ちらりと修治の方をみて、さっと階段を下りてきた。来た、と修治が思った時には、すでにさやは息のかかりそうな至近距離でしかつめらしい顔をしている。


「私を覚えてないのか?」

「いや、覚えてないどころか、そもそも…」


 たじろいでの修治の答えに、さやは盛大な溜め息を漏らした。


「呆れた奴だ。ばかは治ってなかったらしいな。お前が、全部思い出さなければ、お前は……っ。もういい」


 さやはそう言うと、とんっ、としゅうじの体を押す。修治はとっさに反応できず、そのまま階段から足を浮かせてしまった。しまった、と思った時には、すでに修治の体は宙に投げ出されている。


「ばかやろう」


 言い捨て神社に消えていく、さやの後ろ姿が、急激に修治の視界で狂う。うねり、渦を巻いて、濃い緑と、日のまだらに溶け、霧散した。


 それは修治が疑問を抱くほどの時間もない。ぐん、と体を下にひっぱられるような降下する感覚はぱっと消え、体が移動している。


……夢なのだ。そうして、夢が切り替わる。散った色がノイズを含んで再び集まり、また新たな、鮮やかな映像になる。


 そこはすでに見慣れてしまった神社だった。ほんの短いの間に、夢の中でも、現実でも。


 夢の中では、幼い自分が何かをしているのだ。そしてその記憶では、修治はよく神社にいる。


 今回の夢も、神社で修治は幼いころだった。そしてまた、あのおかっぱの少女と幼い修治は一緒だった。


「なあ、しゅうじ」


 いつものように、少女は境内に腰掛けて足を揺らしている。すぐ側には少女が空き缶にさした花が一輪風に揺れていた。


「なんだよ」


 幼い修治は少女と肩を並べて座り、同じように足を揺らしている。もうすぐ沈んでいく夕日を、2人はぼんやりと眺めているところだった。


「あのな…」


 少女はやけに元気がない。対して修治はじっと夕日をみつめていて、少女の様子には気付いていない。


「あのな、お前、明日来るか?」

「は?」

「明日、来るか?」

「うん、来るよ?」


 少女にしては珍しく、至って真剣な表情である。修治は軽く答えてそれがどうしたのだと先を促す。しかし少女の言葉は繰り返しだった。


「じゃあ、明後日来るか?」

「来るよ」

「じゃあ、その次は? その次の次は?」

「なんだよ急に」


 修治が怪訝そうに少女の顔を見ると、少女は泣きそうな顔をしていた。それで修治はぎょっとする。


「……ずっと、忘れないか? 私を忘れずに、ここに遊びに来るか……?」


 少女の言葉と共に、ひやっ、と風が流れた…ように修治は感じた。幼い自分は、今度は呆れたように、息を吐いて笑う。


「何言ってるんだよ、さや。おれ、馬鹿じゃないんだから、さやのこと忘れたりするもんか」


―――さや?


 幼い自分が少女の名を呼ぶのを聞いて、疑問に思う。そして、修治は自分に頷いた。そのとき、景色は一瞬にして色褪せる。遠くで流れる景色を、修治はすでに見ていなかった。


―――そうだ。


 そして思う。幼い頃に自分は、確かに『さや』という少女と遊んでいたのだ。あの、林に囲まれた小さな神社で。


―――でも、あいつがあのさやの筈がない。


 よく似た大きい方の日本人形を思い浮かべて、修治はすぐに頭を振る。確かに幼い頃遊んだ日本人形と、今日現れた大きな日本人形の姿は似ている。性格も似ている。言葉が乱暴な癖に、ちょっとしたしぐさが妙に可愛らしいところも。名前まで同じのようだ。だけど。


―――だけど、あいつは……


 そこまで考えた所で、夢の景色は急激に色をなくし、更に遠ざかり、小さくなった。そして、映像がぷつりと途絶える。


***


 夢から覚めると、修治はぼんやりと窓の外を見る。窓の外はまだ随分と明るくて、帰ってきてから、長い時間は寝ていないらしいことが伺える。何となしに時計を見てみると、時計の針は三時半を少し回ったところだった。


 未だはっきりとしない頭の中には、先ほどの夢の内容が朧に浮かぶ。夢なんてすぐに忘れるはずなのに、再生される記憶は確かだった。


 夢の中で、さやは何故か怒った。理解できない。夢なのに、修治がさやを知らないことを示した途端に、さやは姿をくらましたのだ。どうしてだろう、と修治は思う。

それに、そのあとすぐに見た、幼い頃の夢だ。幼い頃に、確かに、修治はさやという少女と遊んでいた。けれど、遊んでいたということしか、思い出せない。今、現れたさやと、昔遊んださやが同一人物でないという確信が、何故かある。確信というよりも、信じられないというほうが正しいかもしれない。どうしてそう思うのかも、修治には判らない。先ほど、夢の中では思い出しかけていたのに、どうしてか思い出せない。


 今日、さやと会ってから、修治は判らないことだらけだった。


「さや、か……」


 呟いて、修治はベッドから起き上がった。自分が思い出せないなら、母なら知っているかもしれない、と思ったのである。


 先ほど不機嫌に部屋に引き上げたことも忘れて、修治はまた一階の居間に行く。やはりそこには同じように母の姿があった。しかし今度はテレビを横目に洗濯物をたたんでいた。上機嫌らしく、鼻歌交じりに作業をしている。


「母さん」

「ん?」


 声をかけると、母は洗濯物から目も離さずに声を返した。こちらも先ほど、修治に袖にされたことを忘れているようだ。


「俺さ、小さい頃、よく家で遊んでたよな」

「なに、急に」


 ふふ、と笑って母は次々とタオルをたたみ、積み上げる。


「いや、何となく。でさ」

「うん?」

「俺、女の子と一緒に、毎日遊んでた時あったよな?」


 修治がそう言うと、母は急に怪訝そうになり、修治を見上げた。そして、首を傾げる。


「女の子とぉ? あんたが小さい頃に? 遊んでないわよー何言ってんのー」


 からからと笑い飛ばして母は再び、鼻歌交じりに作業に戻る。幼い頃は友人も少なかったが、女の子の知り合いはもっと少なかったらしい。そんな修治の交友関係において、女の子と遊んでいたなら、滅多なことだ。母が覚えていない筈がない。なら、修治の捏造した記憶ということになりそうだ。


 それでも、修治は首を捻りながら、懸命に言う。どうにか思い出して、母から話を聞きたいのだ。


「あれ?いつだったか、夏にさ……ほら、確か…」


 眉間に皺を寄せて考える修治の頭に、一筋また、何かが掠める


「そうだ!ばーちゃんが…!」


 言った瞬間に、バシッと閃光が走った。不意に、修治の目の裏に、映画のように映像が流れる。


***


 ぼんやりと暖かい感じがする。視界一杯を占領した世界は、居間の風景ではない。それは現実であって、今でない過去の現実。修治の幼い頃の記憶である。けれどそこは、見慣れない部屋だった。白一色で統一したベッド、カーテン、壁の部屋。どうやら病院の一室らしい。


 今回は、穏やかでない場面だった。


「しゅうちゃん! いけんよ! 行っちゃいけん!」


 祖母が恐ろしい剣幕で修治の腕をつかみ、引きとめているところだ。それに対して、修治は一生懸命の抵抗を試みている。


「ばーちゃん! 約束したから行かないといけないんだよ!」

「しゅうちゃん、あんた、行ったら……」


 祖母は何事かを怒鳴ったのだが、不鮮明で聞き取れなかった。幼い修治は最後まで聞くことをせずに、祖母の手を乱暴に振り払って、そのまま走っていってしまった。


***


 遠ざかった病室の景色と共に、閃光の余韻を残しながら、居間のある現実の風景が徐々に戻る。


 立ったまま白昼夢を見たのか、鮮明に記憶が呼び起こされた。ぼんやりとしていたのを母に指摘される。


「あんた、どうしたの?」


 さっき笑っていたのとは母の調子が変わっている。心配になったらしい。


「いや、なんでもない」


 頭を振って、修治は話を戻すことにする。幼い頃に遊んでいたあの少女…さやの話だ。


「それより…なあ、ばーちゃんがさ、うちに来てた夏あっただろ。俺、あんとき、外で遊んでなかった?」

「あー? そうだっけ?」


 話を戻せば、母はすぐに話についてくる。切り替えの早い母だ。

「ん、ばーちゃんが外で遊べってうるさかったから」


 修治はソファに腰を落ち着かせながら話し掛ける。


「ふーん、そうだったかねぇ」


 修治の言葉に、母は考えながら洗濯物をたたみ続ける。あともう少しで、洗濯物が終わりそうだった。


「うん、で……女の子と遊んでた気がするんだけど…」


 修治は懸命に思い出そうとする。チリチリと焦燥感が募って、何故か思い出さないといけないような気がする。


 幼いさやと、大きいさやとが別人だという、根拠のない確信。本当は確信の根拠なんて考えなくていいのかもしれない。けれど、今はこのわからないことだらけの事を少しでも、わかりたいと…思い出したいと思っていた。


「だから、そんなのお母さん知らんよ。よそ様のお嬢さんと遊んでたなら、連絡貰ってるはずだしねぇ」


 最後の一枚をたたみ終えて、母は洗濯物を持って立ち上がる。することがあるから話はこれまで、と言わんばかりの母の態度に、修治は焦る。話を続けてもらわないと、困るのだ。


「……いや、あいつ、親がいなかったんだよ。だから連絡は…」


 不意に、覚えてもなかったことが口をついて出た。自分でも驚いたが、それは構っていられない。話していると、何かを思い出しそうになるのだ。さやの正体を知る、手がかりをつかめそうな、そんな気がする。


「親が居ない……? そんな子がこの辺にいた…?」


 振り返った母の顔は、怪訝そうというよりは、不審そうな顔だった。そして、徐々に、顔つきが険しくなる。それは、何かを思い出していくように。


「いたんだよ。さや、って女の子」

「…………さや?」


 思い出したい修治が意気込んで言った言葉に、呟いた母の顔が更に変化して行った。その顔は、修治には判らなかったが、明らかに恐怖の色だ。


「……さや……? 親の居ない子? そんな、そんな子、遊んでない。修治は遊んでない」


 妙に慌てて、母は洗濯物を持って廊下へ出て行こうとする。


「あ、母さん! 何か知ってるのか?」

「もう、その話は終り。修治はずっと一人で遊んでたでしょ。あれだけ言ってずっと頑固に、一人でね!」


 追いすがろうとした母に、バタン、と扉を閉められ、修治は取り残される。もう聞くなという合図らしい。修治の頑固さは母譲りだ。母が何か知っていそうだが、こうなっては話してもらえない。


「……だめか……」


 嘆息して肩を落とす。急に、さやのことを思い出したような、そんな気がする。確かに修治は、幼い頃さやと一緒に遊んだ。忘れていることが、少しずつ思い出せそうなのに、母はもう話を打ち切ってしまった。……理解できない焦燥感が、修治を襲う。どうして、こんなに焦って思い出そうとしているのか。どうして、こんなに『さや』という少女が…そしてあの、大きな日本人形が気になるのか。ここまで考えても、修治にはやっぱり判らない。


 廊下に行った母を、追いかける形で廊下に出て、修治はそのまま玄関に向かう。


「じゃ、俺、散歩行ってくるから」


 洗面所でタオルをしまっている母に声をかけて、上着をはおってから玄関で靴を履き始める。もやもやとした気分で、何となく外の空気が吸いたかった。


「ちょっとあんたどこに行くの?」


 タオルをしまい終えたらしい母が、洗面所から顔を出す。その顔に気がかりな表情が浮かんでいる。……何かを恐れているような顔つきだ。しかし、修治にはそれを感じ取れるほど、母に気を遣っていなかった。


「いつもんとこ」


 振り向きもせず答える修治に、母は少しだけ安堵する。いつものところ、というのなら、近所の本屋ということだ。いつもと変わりはしない、そこなら大丈夫と言わんばかりに母は、胸を撫で下ろして、微笑む。


「……気をつけてね。……近頃は物騒だから」

「行ってきます」


 玄関で見送る母に軽く手を振って、修治は玄関を出る。

 母が何を恐れ、心配して話を打ち切ったのかが、修治には判らない。けれど、母に聞いてみたところで話してはくれないだろう。それなら自分で考えるしかない。…そうでなければ、あの、もう一人の大きなさやに聞くしかない…。


 修治の足は自然と神社に向いている。暗に本屋に行く、と母には言ったが、神社に行かないといけないような気がした。神社に行けば、何かがわかるような、そんな気もした。だから、足早に、修治は神社に向かう。


 歩く修治の背に当たる日の光は、すでにきついオレンジを帯びていた。日暮れが近かった。


 西日が落ちる階段を登りきると、紅に染まった神社に出る。神社にある人影を認めて、修治は驚いた。さやがいたのだ。境内に座って体育座りで俯いていた。さやは、顔を膝に埋めながら、隣に置いてある、空き缶の花を弄っている。泣いているのか、微かに肩が震えていて、酷く小さな印象を与えた。


「……しゅうじ?」


 ぴくり、とさやが動いて顔をあげたのは、修治が神社前の鳥居をくぐるのと同時だった。さやの反応は修治が声をかけるよりも早い。


「しゅうじ…!」


 修治の姿を確認すると、さやは叫んだ。

 驚きながらも、修治はゆっくりと歩いてさやに近づいていく。さやは立ち上がるでもなく、修治をみつめたまま、境内に座っていた。修治の目の前にいるさやは、今度は夢じゃない。現実のさやだった。顔をあげたさやは今にも泣きそうな表情だ。肩を震わせていたのは、泣きそうなのを我慢していたのかもしれない。


「どうして、来たんだ…!」

「え?」


 さやが言うのに、修治は首を傾げる。


「時間が……ないんだ」


 修治を見上げて、さやは言った。


「時間?」


 修治はただおうむ返しに聞く。何だか可笑しな感じだった。何となく神社に来たのに、まるでさやにひきつけられて来たみたいだ。


「もうすぐ、あいつが…」

「あいつ?」


 修治が聞くと、さやはふるふると首を横に降って更に泣きそうな顔になった。


「悪かった」


 さやは修治の袖を軽くつかむ。


「何が」


 何が何だか判らない。昼間は、不遜とも言えるくらいに、大きな態度だったのに、今、さやは弱弱しく謝っているのだ。夢の中でさえ、あの態度だった。なのに、今のこの弱さはなんだ。


「ばかが治ってないなんて言って、悪かった」

「……え?」


 修治は耳を疑った。それは確かに夢の中のさやの言葉だった。さやが知りようもないこと…それ以前に、さや自身が発した言葉ではないはずなのだ。修治の夢の中で、さやが発した言葉なのだから。修治の中にまた一つ疑問が生まれる。


「……ばかだなんて、嘘だ。しゅうじはここに来てくれた」


 さやは再び顔を伏せて、嗚咽を漏らすように、呟く。驚いた修治の様子など、気にしても居ない。


「修治に、ここに来て欲しかったから、何度も神社を見せたよ」

「見せた…?」


 修治が眉間に皺を寄せる。見せた、というのは、修治がたびたび見せた、夢のことをさすのか。そうだとすれば、あの夢の中のさやも、修治が作り出した夢ではなく、さや自身が見せた夢なのか…。


 ……さやのことを思い出そうとしていたために、消えていた恐怖が、再び、修治の中に生まれる。けれど、目の前にうずくまるさやが、何だか可哀想にも思える。何だか自分が、悪いことをしているような、そんな気分になる。


「……どうして、俺に神社を…夢で、見せたんだ?」


 慎重に言葉を選びながら、修治は話す。普通なら、人に夢を見せたなんて、信じられない。けれど、さやなら、見せたのかもしれない、と修治はそう思う。


「神社に来いとは言えなかった。でも結局、修治は自分でここに来てくれた…」


 さやは、もう一度顔を上げて、修治と目を合わせる。不思議と、昼間の夢の中で感じた恐怖、つい先ほど生まれた恐怖も感じなかった。修治は自身でも呆れたものだと思う。


「ごめん…しゅうじ。中途半端に思い出させるくらいなら、夢なんか見せるんじゃなかった…」

「さや…?」


 ぎゅ、と袖をつかんだ手に、力が入る。修治は空いた方の手で、さやの頭を撫でた。少し声が掠れて情けなかったが、気にしない。さやはされるままにしていて、また顔を膝に落とすと、微かに震える。


「しゅうじ、思い出してほしい。お願いだから…」


 さやは懇願する。何を急いでいるのか、せっぱ詰まった様子で、さやは言う。大きな日本人形は見を縮めている。夢の中の、小さなさやという少女は、いつもこの大きな日本人形と同じ場所に座っていた。酷く似ているけれど、それでも、修治は、どうしてか、あのさやと、目の前のさやが同一人物でないと、妙な確信がある。


 修治はそっとさやの頭から手を外して、首を振った。


「俺は、思い出したり出来ない。お前を知らないんだ…。だって…」


 きらきらと、視界の中を光が流れるように走る。頭が痛くてまた意識が飛びそうだったが、堪える。何か、この妙な確信の理由が、もう少しで思い出せそうな気がする。


「違う、違うんだしゅうじ。それは忘れてるだけだ。お前は私の名前を思い出してくれただろう…? だから…だから、全部思い出して欲しいんだよ、しゅうじ。そうじゃないと、私は、お前を…」


 切なそうに、首を振って、さやは顔を上げた。そしてその目に、西に沈もうとする夕日が映る。瞬間に、さやは更に顔を歪めて、唇を噛んだ。


「あぁ……時間が、足りない…! しゅうじ、お願いだ。思い出してくれ」

「さや、だから」


 今度はすがり付いてきたさやに、修治は、顔をそむけて、言うが、さやは聞かない。何を急いでいるのか、それが修治には判らなかった。視界の隅には変わらずに、光が流れ続けて修治を惑わす。きらきらと流れる光は、チラチラとさやと交わっては消え、流れていく。


「私はお前が好きだ。好きなんだ! だから…、思い出して欲しい……!」


 悲痛な叫びが、神社に響く。ただただ、修治は困惑してその言葉を聞くしかなかった。思い出すもなにも、修治が知っているさやと、目の前のさやは、別人の筈、なのだ。なのに、視界に走る光が、まるで思い出せとでも言うようにうるさく光る。


「思い出してくれないと……しゅうじ、私は小さい頃に一緒に遊んだ、さやなんだ。しゅうじ」


 見上げて、さやは訴える。そこで初めて、頭の中で否定ばかりしていた修治が、ぴくりと反応した。


「一緒に、遊んだ……?」


 ひときわ大きく、光が走った。怪訝そうに、修治はさやを見る。


 光の中に、懐かしい光景が踊る。おかっぱの少女と、自分。そして、この神社。

さやの言葉を信じるなら、記憶の中のさやと、目の前のさやが同じだということになる。修治の中では、何かがそれは可笑しいと、叫んでいる。同じなら、こんなに似ているにも関わらず、修治が別人だと思う理由は何だ?そもそも夢を見せたのがさやならば、記憶自体嘘なのか。夢じゃなく掘り起こされた記憶も嘘なのか?


「そう…一緒に遊んだだろう?」

「でも、あいつは、さやは…」


 修治は混乱する。妙な確信の正体が判らない。ズキズキと頭が痛んで、修治の意識を奪おうとする。まるで思い出してはいけないことかのように。けれど、変わらず光は走り、思い出せと修治を促す。


「さやは? 私は一体……どうしたんだ?」


 言いよどむ修治に、さやの言葉が刺さる。様子は弱弱しいのに、言葉は驚くほど強い。


「思い出してくれ、しゅうじ。時間がない! 私はしゅうじと一緒に遊んだ。それで、どうしたんだ!?」

「判らない! ……どうして、お前は俺の知ってるさやじゃないんだ?」


 叫ぶさやに、思わず修治はさやの腕を振り払った。それでさやの体は弱弱しく崩れる。


「同じ、なんだよ……しゅうじ、私はさやだ。忘れてるだけなんだ……! ……ふ…ぅっ…く…」


 急に、さやの息が乱れる。痛みに耐えるように顔をゆがめて、さやは胸を抑えた。その声に、修治ははっとしてさやを抱き起こす。


「……さや? どうしたんだ……?」


 修治の手に助けられて、何とかさやは荒い息で、上体を起こす。けれど、修治の先の空を見て、ますます息を荒げ、顔を歪めた。


「しゅう、じ…」


 修治は思わず、息を呑んだ。

 この顔に、修治は見覚えがあった。苦しみに耐える、このさやの顔。荒い息をしながら、自分の腕の中で、脂汗を浮かべた、その顔。


 心臓が、高鳴る。体の中の血管が沸騰したように、騒ぎ始める。やめろやめろと、頭痛が訴えているのにも関わらず、ひときわ眩しい光が、修治の目を襲った。太陽を直視したかのように眩しい、その光。


 光に映って、記憶が、鮮明に蘇る。


***


 いつもは、ノイズが走る映像だった。


 鮮明に映った世界は、神社の階段下の鳥居だった。緑が濃い視界に、修治が歩いている。ちょうど、修治が鳥居から、道路に出たところである。


「しゅうじ! 危ない!」


 誰かが、呼ぶ声。懐かしい声が、緊張をもって叫ばれる。


 瞬間に、修治の視界は反転して、草むらに入った。じんじんと痛みを訴える体や頭など無視したかのように、修治の目は、目の前の道路に、釘付けだった。


 一瞬の出来事である。


 道路を車が走っていくのに、道の真ん中に立っていたおかっぱ頭はどんっ、と鈍い音をたてて車に押された。車はスピードを変えず、ふっと浮かんださやの体が、フロントガラスに乗って、その衝撃で、また更に跳ねる。


「さや…!!」


 目にはスローモーションで映し出されているのに、さやを助けないといけないと思っているのに、修治の体は鉛のように、動かない。ただ、目と自分の叫び声だけが、動いている。


 ガラスからとんだ体は、軽く軽く跳ねて、道の脇にとさっ、と音をたてて落ちた。


 その音でようやく、修治の体は自由になる。自分の痛みを堪えて、走りよって抱き起こしたさやの体は、血まみれだった。そして、修治に向けられた顔は、酷く苦しそうで、息を、乱していた。


 それが、いつもノイズで始まっていた映像の、正しい記憶。


***


「しゅ、う…じ…どう、して、私は、お前の知ってるさやじゃ…ない…?」


 さやの声に、修治は喘いで現実に引き戻される。光は変わらずあるのに、あんなに酷かった頭痛が、今は治まっている。


 さやの体に、血はない。今、視界の中に毒々しい赤はない。けれど、その、苦しみに歪められた顔が、修治の心臓を圧迫する。


「さや…」

「どうして、だ…?」


 さやの促す言葉に、修治は認めたくないというように首を、振る。光に記憶は映らないが、脳裏に踊る、あの血まみれの姿。


「だって…」

「だ、って…?」


 幼い頃は判らなかった。けれど、今なら、一目でわかる。


「だってお前は……」


 修治は、深く息を吐く。まるで、鉛のようだった。


「さやは、死んでる」


 呆然と呟いて、修治は目の前の女を見る。

 

「…駄目だ…。しゅうじ、時間切れ、だ…もう、おまえ、を…」


 泣きそうな顔のさやが、どんっ、と一瞬揺れたかと思うと、目を閉じて、修治の手を離れて再び倒れる。ちょうど、日が没するのと同時だった。


***


「絶対お前忘れるもん」


 小さなさやは、口を尖らせて言った。もうすぐ沈んでいこうとする夕日を、修治とさやは二人で境内に座りながら眺めているところだ。……昼間の夢の続きらしい様子である。


「忘れるかよ、お前みたいなやつ」

「いや、絶対に忘れるよ」

「なんだと」


 確信をもったように断言するさやにむっとして言ったが、修治はさやの顔を見てぎょっとする。


「……お前は、忘れるんだ…」


 不意に、さやの声が低くなる。その顔が何とも言いがたく悲しそうで、修治はどきりとしてしまった。


 さやには、修治が忘れるということを確信する理由を、修治に伝えることが出来ない。ずっと、出会った時から隠していることがある。……それが、さやには辛かった。


「……忘れないよ、さやのこと、忘れない」


 何と言っていいか、しばらくためらって、それでも修治はさやに言った。修治が一生懸命にしているのがさやにも伝わったらしい。さやが柔らかく笑む。


「しゅうじ、もしも、もしも大人になっても覚えていたら」

「必ず覚えてる」


 力強く、修治は頷く。それでさやも頷き返して、言葉を続ける。


「うん…覚えてたらさ、この神社に迎えに来てくれないか?」

「迎えに?」

「いや、来てくれるだけでいい。そうしたら、私はしゅうじと一緒に神社から出る」


 修治が確認するのに、少し首を振って、さやは弱く笑った。修治はさやが言った事を頭の中で逡巡して、もう一度確認の言葉を出す。


「それだけ?」

「ああ、私はしゅうじと一緒にいく」


 頷いたさやに、修治は納得できないように首を傾げた。


「さやが一人の時じゃないと、神社から出ないんじゃなかったのか? おれと一緒には神社出ないって、前に言ってたよな」


 修治が聞くと、さやは苦笑いして、首を振った。


「…いいんだ。しゅうじが大人になっても、私を覚えていてくれて、迎えに来てくれたら、私は、この神社から、出てもいいんだ…たとえ許されなくても、私は一緒に行くよ」


 さやの言葉に、修治は「そっか」と声を返す。それを了承と受け取り、さやは言葉を続けた。


「しゅうじが迎えに来たら、私はしゅうじと一緒に、あの鳥居をくぐる。それだけでいいんだ……いいか?」


 そう言ってさやは頷き、それから、少し不安そうに、修治に問う。さやが何を不安に思っているのかは知らないが、修治はとりあえず、ちゃんと約束してやろうと思った。だから、強く頷く。


「いいよ」

「じゃあ、約束だ」


 修治が頷くと、さやは安心して、酷く嬉しそうに、それでも何かに怯えたような様子で、修治に頷き返した。


「約束。ゆびきりげんまんな」


 修治はそう言って、さやに自分の小指を突き出す。さやは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑んで、その指に自分の小指を絡めた。

そうして、二人は、指を交わして、夕日の中で約束した。大人になっても、決して忘れないと…。


***


 修治が目覚めたのは、神社の境内の上だった。さやが倒れるのと同時に、修治も倒れたらしい。それでまた夢を見たのだ。


 ……必ず忘れると言ったさやの言葉は正しかったのかもしれない。現に、修治は、何故か忘れていた。


 さやが運んでくれたのか、修治は境内の上に横たわっていた。目覚めて最初に気付いたのは、頬の痛みだ。目を閉じたまま触ってみると、左の頬がどこかに打ちつけたのか、殴打されたかのように腫れている。うっすらと開いた修治の目に、ぱっと、顔が現れる。思わず修治は飛びのいて、境内から離れていた。何のことはない。修治の顔を覗き込んできていたのは、さやだった。


「思い出したか?」


 あどけない笑顔を浮かべて、さやは尋ねた。その笑顔に修治は何故だかぞっとする。自分でも何故ぞっとしたのかは判らない。けれど、何か違和感があった。明らかに、さっきのさやの様子とは違うような気がする。辺りは日が暮れてすでに暗いが、そんなに時間がたったとも思えない。さっきあれほど苦しんでいたさやの体調が、そんなにすぐに復帰するとは思えなかった。


「なんで…」

「約束」


 確かに修治は約束した。


―――大人になっても覚えていたら。

―――覚えていたら、必ず迎えに行く。


 それは思い出した。けれど、何かを忘れているような気がする。……修治は、まだ、さやが少女のさやと目の前にいるさやが同一人物でないと確信していた理由が判っていない。


「大人になっても」

「大人になってもお前を覚えていたら」


 さやが繰り出す言葉に、修治は夢で見た言葉を、いや、思い出した約束を重ねて答える。


「覚えていたら?」

「覚えていたら、俺はさやを迎えに行く。それで、お前は一緒に神社から出る……そうだったな?」


 じりじりとさやは修治に近寄り、そして、笑う。修治はさやの態度に薄気味悪さを感じながら、じりじりと後退りした。近寄ってはいけないと、何かが叫ぶ。


「そう、それだけ、それだけを約束した?」


 さやは自分の小指を見て、微かに笑い、そして修治に問い掛ける。脂汗のようなものが、額を伝う。


「…ああ、確かに俺は約束したな」


 修治が言うと、さやは急激に狂ったように声をたてて笑い出した。


「何で笑う? 約束どおり、思い出したぞ?」

「…だから馬鹿だと言われるんだ」


 修治の言葉にさやは、不意に急に笑い声を収め、修治に聞こえない程度に小さく呟いた。そして修治と目を合わせて、にぃっと笑む。さやは刹那に修治に踊りかかり突き倒して、その首に手をかけていた。その手には、まだ、力が篭っていない。しかし、さやの体から急に発せられた殺気が、気が向けばいつでも力をこめて首を締めると訴えている。


「さて、どうやって殺してやろうか?」

「…なんだって?」


 さやの下で、ぴくり、と反応して修治が問い返す。首に掛かった手を解こうと、手をやるが、さやの手はびくともしなかった。急に向けられた殺気と、理解できない状況に、修治は混乱する。どくどくと血管が音をたてて、うるさいくらいに修治を惑わせる。


「お前を食べるんだよ。そういう約束、だろう?」


 恍惚の表情を浮かべ、楽しくて楽しくて堪らないというように、さやは言う。さやの行動にも驚いているが、今発せられた言葉に修治は耳を疑う。


「待ってくれ、俺はそんな約束は…」


 焦って修治は否定しようとする。自分を食べる。そんな馬鹿な約束を…。


「したんだよ、お前は」


 さやは冷酷に、修治の声を遮って言い、舌なめずりした。


「今からどうやって楽しもう…?」


 言いながらさやは、片手の指先で修治の頬を撫でる。その爪が、肌をつぷりと刺して修治の血を流した。


「さや…!」


 小さな痛みに、修治は溜まらず叫び声をあげる。すると、さやはますます楽しそうに目を細める。


「……ああ、いいねぇ、その叫び声。さやが悲しんでくれる」


 そう言ったのに、修治は眉間に皺を寄せた。ふつりと、疑問が生まれる。


「……お前、誰なんだよ。さやじゃないのか…?」


 さやの姿だから、さやだと思う。それは違うらしいと、修治は感じ取って、問い掛ける。そのときに、じわり、と首にかかった手に力が篭り始めた。


「誰だろうねぇ、俺は」


 自分が誰であるかなんて、どうでも良さそうに、さやの顔をした奴は言う。修治は懸命に首に掛かる手を必死に抑えるが、外れない。女の力じゃなかった。それでもとにかく、死にたくないと、修治は必死に抗う。けれど、なかなか首にかかる手は外れない。


「さや…!俺は、約束を守りに、来た、んだぞ!」

「…お前は、俺を知らない。覚えてない……忘れてる! だから、だめだ…!」


 さやの顔をしたものの顔に一瞬、悲壮の表情が浮かんだ。しかしすぐに元の壮絶な顔に戻る。その間も、修治の首に込められた力が弱まることはない。


「くる、し…」


 修治が、酸欠に喘ぐ。沸騰した血液が、頭に上ってきたように、ぐらぐらとする。


―――さやって子は人を食い殺す化け物なんだよ!


 頭に響いた叫び声に、修治ははっとする。祖母の声だった。もう少しで意識が飛ぶところで、修治は何とか持ちこたえる。


「…お、まえ…は、ばけも、の…か?」

「な、に…?」


 苦しみながらも言った修治の言葉に、さやの顔をした化け物が、一瞬怯む。手の力も一緒に弱まった一瞬の隙を修治は逃さず、すかさずさやの体を突き飛ばした。どんっ、とさやの体がはね飛ぶのと同時に、修治はゴロゴロと転がって、何とか化け物から逃げ出す。急に戻る呼吸に、むせて修治は激しく咳き込んだ。


「俺が化け物だってことは思い出したのか…面白いなぁ。しゅうじ、お前は面白いよ。もっともっと、じっくり遊んでやらなきゃあなぁ…?」


 突き飛ばされて、体を激しく打ちつけたにも関わらず、化け物は痛むそぶりすら見せない。弱みを見せるどころか、楽しそうにくつくつと笑って、ゆらりと立ち上がった。


「軽くぶっただけで、気絶するのだもの。もう少し可愛がって遊んでやらないと、だめだよなぁ、さや?」


 そう言った化け物に、修治は思わず左の頬に手をやる。……修治が昏倒したのは、化け物に殴られたためだったのだ。瞬時に理解して、化け物の力に改めてぞっとする。


「お前は…化け物なのか? さやはどこだ?」


 ゆっくりと、化け物は修治に歩み寄る。未だうずくまったままの修治は、じりじりと這って後退するしかない。


 少しずつ蘇った記憶が、パズルのピースのように、順番を変えてひとつ、また一つとつながり始めている。祖母はさやを化け物だと言った。目の前にいるのは化け物に違いないだろう。けれど、幼い頃に遊んだのは、化け物ではなかったはずだ。

化け物は、少しずつ、修治を追い立てるように歩み寄る。


 恐怖が、修治の体を支配していた。どくんどくんと鳴り響く心臓の音がうるさくて、今にも鼓膜を破ってしまいそうだった。


 ……それでもまだ、さやのことを考えている。非現実的な状況と、非現実的な自分の思考が、修治には信じられない。けれど、あの、泣きそうなさやの顔が目に浮かぶ。それだけで、さやのことを考える理由は充分だった。


「さや…! 俺は何を忘れているんだ!?」


 叫んだ瞬時に、化け物が飛び込んで来て、修治の腕をつかんだ。ふっと修治の体が浮いたかと思うと、境内前の階段に叩きつけられている。


「ちょっと黙りなよ、俺が楽しめないだろ?」

「…く…っうぅ」


 手首を軽く振って、化け物は痛くもない手に息をふーっとかけた。化け物とは対照的に、修治の背中には、激しい痛みがじんじんと伝う。先ほどから変わらず鳴り響く心臓の音と相まって、修治は気が狂いそうだった。酷く冷たい地面に、どんどん体温が奪われて、余計に修治の体を弱らせる。荒く吐いた息に、血が混じっているような錯覚さえ起こすくらい、苦しかった。


「くだらないこと気にしてる暇があるんだったらさ、もっと楽しくなるように逃げ回ってくれよ。殺しがいが、ないだろ?」


 修治がさやのことを思い出そうとするのが、化け物には気に食わないらしい。化け物は心底苛立ったように修治を見下ろしながら、一歩、また一歩と修治に近づく。体の細胞が、逃げろ逃げろ、と悲鳴をあげている。なのに、修治の体は動かず、口が動いた。


「俺は、さやを思い出したいんだよ!」


 修治が叫んだ刹那、ごうっ、と神社を風が覆った。周りの木々を揺らし、渦を巻いて、風は修治を包む。


 突風に視界を奪われた修治が、次に目を開いた時、驚愕に思わず痛みを忘れた。景色は一変していた。暗く寒い世界が、緑の濃いまだらな夕日のおちる世界に一変していた。


***


 それは、幼い修治がさやと約束を交わした、すぐ後の記憶だった。日暮れ前、修治が帰る時間である。いつものように境内でさやが見送っているのを背にしながら、階段を下りようとしていた時だ。ふと思い出して、修治はさやを振り返る。


「あぁ、そうだ。聞いてくれよ。ばーちゃんが馬鹿みたいなこと言ってたんだ。さやが人間じゃないって。化け物なんだってさ」


 笑いながら修治が言ったのに、さやは俯いた。一緒に笑うかと思ったら、顔を暗くして、さやは言葉を選ぶ。


 さやは、確かに化け物だ。いつかはばれることだが、こんな風に聞かれるとは、さやは思ってもみなかった。


「…私は人間じゃない。でも、人間じゃなかったら化け物なのか?人間じゃなかったら、しゅうじと遊んじゃいけないのか?」


 思いのほかのさやの言葉に面食らったのは修治だ。けれど、すぐに笑う。


「何だ、ほんとに人間じゃないのかよ」


 修治が笑ったのに、さやがびくりとした。嘲りに見えた。


「……」

「どうみたって人間なのにな。まぁいいや。んじゃ、帰る時間だから、また明日な」

「え?」


 修治のあっけらかんとした、いつもの調子に、さやは驚く。どうして、自分を拒否しない。その疑問が浮かぶ。


「ばいばーい」


 しゅうじはそのまま階段を下りていく。


「待て、しゅうじ!」

「ん?」


 思わずさやは呼び止める。夕日が沈みかけているから危険だったが、伝えておかなければならない。修治の態度は、さやから見ればさやを化け物だと信じていないように見える。だから、ちゃんと伝えておかねばならないのだ。


「本当なんだ。私は、化け物なんだ。化け物を、体に飼ってる…。今は、人間みたいだけど、日が暮れると……お前を殺すかもしれない」


 泣きそうな顔だった。それに修治は呆れたように息を吐いて、さやに近づいていく。それにじり、とさやは一歩下がったが、修治の次の言葉にびくりと止まった。


「……さや。お前さ、俺殺すの?」

「……!」

「一緒に遊んでる奴をさ、そうやすやすと殺すなんて、ひどくね?」


 怯えたように体を強張らせたさやに、修治はこともなげに、笑って言う。


「……うん。酷いな」


 修治に合わせて、さやも普通に言うように努める。さやは涙をこらえていた。修治の想いが、痛いほどさやに伝わってくる。だから。


「殺さない。お前が、私を覚えてる限り、絶対に殺さないよ」


 だから、さやは修治を殺さないし、修治もさやが修治を殺すと思わない。


「うん」


 強く頷いて、修治はぽんぽんとさやの頭を叩く。


「もしも夜に、間違えてしゅうじがここに来ても、絶対に、殺さない。私の中の化け物を、抑える。…頑張る」

「うん」


 ここでさやは堪えきれずに、泣きじゃくり始めた。いつお強い、修治の前で泣いたことのない、さやの初めて見せる涙だった。それを修治は笑いもせず、戸惑いもせず、ただ頭を撫でてさやと言葉を交わす。


「でも…もしもしゅうじが私を忘れたら…」

「殺していいよ」

「しゅうじ!」


 言いよどんださやに、修治が言う。思わずさやは非難の声を上げて修治を睨むが、修治は意に介さず、笑っていた。


「仲いいわけでもないゴキブリ殺すの、やだ?」

「しゅうじ!」


 非難の声を高めるが、修治はそれでも悪びれない。変わりに少しトーンを落として、さやと目を合わせる。


「…さやがほんとは、夜にはばけものになっちゃってさ、ほんとは、夜になったら俺を殺すのに、それを頑張ってやめてくれるんだろ?なのに、俺がそのさやを忘れてたら、さやも頑張る意味なくないか?」


 修治が言うのに、さやは答えない。


「だから、俺がさやを忘れてたら、さやをばけものであることを含めてさやのことを全部忘れてたら、俺はさやに殺されていい」


 きっぱりと断言する修治に、さやはまた顔を歪める。


「しゅうじ…」


 苦々しく吐いたさやの頭を、もう一度撫でて真剣な顔をした。


「約束。絶対、忘れないで、ここに来る。ここに来てさやと遊ぶ。大人になっても忘れない」


 そう言って、修治は、誓いに似た約束をしたのだ。忘れてはいけない、約束を。

 そこで思い出の記憶はそこで途切れる。


***


 ごうっ、と風は修治から離れて、神社の空に吹き抜けて消えていった。視界には元の、月と闇と化け物が支配する、夜の神社だった。


「うるさい、うるさい…うるさいねぇ…」


 風は、修治にだけ吹いたかのように、化け物はついさっきと様子が変わらない。修治は長い時間、記憶を呼び起こしていたように思ったが、それは現実にはほんの数瞬だったらしい。のたり、と一歩踏み出して、化け物は修治をにらみつけた。化け物には、修治が叫んだのが、相当気に入らなかったらしい。


「……しゅうじ」


 化け物はぴたりと立ち止まり、名を呼んだ。


「しゅうじ」


 一拍おいて、もう一度声がかかる。その声は優しそうな響きを持っているが、伝わる殺気が、その声音を表面だけの偽りだと伝える。だから、修治は返事をしない。いや、出来ない。


「お前は約束を破った。…いや、約束とはいえないのかもしれないけれどな。でも、お前は守らなかった。……お前は俺を裏切ったんだ。…だから、お前を食い殺していいんだ。俺は、お前を殺してもいいんだ」

「……」


 化け物がとうとうと語るのを聞きながら、修治は何も答えない。

 確かに、と修治は心の中で呟く。化け物が言うように、確かに修治はさやとそう約束したのだ。なのに、修治にはまだ何かを忘れているような気がしてならない。…そう。恐怖で忘れていた。修治はまだ、何故一緒に遊んださやと、目の前のさやが、同じじゃないと確信した理由が、わかってない。


「俺は、何を忘れてる? 化け物…教えてくれ…」


 修治が言うのと同時に、木々がざわ、とうごめく。ばけものの髪が、うねり、逆立った。化け物の体を包んでいた洋服が、その動きに合わせて、白い着物へと形を変えた。伝わる冷気と、白い着物の化け物が、一枚の絵のようにこちらを睨んだ。


 再び、背中の痛みと、どくんどくんと鳴る心臓の音が始まる。痛みと音と、目の前の化け物ははっきりとしている。寒いはずなのに汗ばんだ手も足も、ピクリとも動かない。まるで、蛇ににらまれた蛙のようだ。


「遊ぶのも飽きるなぁ! お前は!」


 ぷつり、と何かが弾けたように、化け物は跳躍した。その姿がスローモーションで修治の目に映る。高く高く飛んだ化け物は、長い爪を生やした手を振り上げている。それが、修治の所へ降りてきて、首を切ろうとしているのは、明らかだった。どっ、と心臓の音が大きくなる。逃げなければ死ぬ。それはわかるのに、修治の足は動いてくれない。終りだ、と修治は思った。


『社に入れ!』


 不意に、頭の中に凛とした声が響く。突然の声に、動かなかった足がぴくっと反応して、気付いた時には社の中に滑り込んでいる。逃げ込むと、バタン、と大きな音をたてて修治は社の扉を閉めた。そうして、一歩、扉から退いたところで、崩れ落ちる。


「おのれ…」


 恨み言が社の格子扉の間から伝わる。さやの形をした化け物は、社に入ろうとせず、格子扉に手をかけさえしない。腕を伸ばしさえすれば、修治をくびり殺せるのに、伸ばそうともしない。直感的に、修治は、化け物が社の中に入れないのだと悟る。瞬間に、修治は酷く安堵して、息を吐いた。とりあえずのところ、危険は遠のいた。恐怖に粟立った肌をなで、暴れる心臓をどうにかおさえて、息を整えた。痛みを訴える背中だけはどうにもならなかったが、しばらくの深呼吸で、血管を破りそうだった心臓はどうにか収まった。


「ここに、逃げ込んだのは、さやか…? さやの仕業か!」


 ぎりぎりと歯軋りをしながら、さやの形をした化け物が、恨み言を漏らす。格子越しでも、修治にはその殺気が伝わってきた。今まで自分を殺そうとするものなんて、相対したことがないが、自分を殺そうとする殺気とは、これなのだろう、と実感する。けれど、修治には手を加えることが出来ない。修治が社に入っている限りは。……冷静に考えて、修治は苦笑した。さっきまで、死ぬかと思っていたのに、修治はまだ生きている。


「化け物、そこじゃ俺を殺せないだろう? 話のついでに、教えてくれよ」


 修治が格子越しに、化け物に話し掛けるが、化け物は歯軋りをもらすだけで、答えようとしなかった。


 修治には、まだ気に掛かることがある。あの白昼夢での必死な祖母は、一体いつだろうか。さやが化け物だということで病院から出るのをとめられていたのだろうが、どうも、祖母がさやを化け物だと言ったときよりも、後のような気がした。首締められたときに修治を救った声が、病院のときほどせっぱつまったように聞こえなかった。それに、大きいさやが小さいさやと同じでないと確信した根拠が、まだ思い出せない。まだ、記憶のパズルのピースが足りていない。確か、祖母と話をした後に、神社に行って、修治はさやとあの約束をしたのである。けれど、まだ何かがたりない。…まだ、修治は忘れているようだ。


「しゅうじ」


 しばらくして、声がかかった。声は、内側からだった。修治は驚いて、中を見回す。すると、奥の御神体の方から、ぼうっと光が浮かんだように、人影が進んできた。


「しゅうじ、思い出して欲しい。死んでほしくない。殺したくないんだ…」


 歩いてきたのはさやだった。しかも、幼い、おかっぱ頭のさやだった。


 修治は目を疑って、ぱっと格子の方を見た。けれど、そこには確かに大きいさやがいて、もう一度振り返ると、やはり小さなさやがいる。透き通るように白いさやが、座った修治の目の前で止まる。


「さや、どうして俺は、お前を…、その姿のお前が、大きいお前と同じじゃないと思ったんだ?」


 修治は疑問を、さやにぶつける。けれど、さやは首を振って、質問には答えてくれない。


「……一つは守ってくれた。迎えに来てくれた。私が化け物だということも、思い出してくれたな。……でもそれだけじゃ駄目なんだ。しゅうじ」

「さや、俺は、お前を思い出したいんだ。けど…」

「しゅうじ」


 さやは修治の言葉を遮って頭を振る。飽くまで、さやは修治の言葉を聞かない。


「全部、修治が覚えてるはずなんだ。私はお前を殺したくない。だから……思い出して」


 少女は悲しそうに言い残して、闇に溶けた。


―――殺したくない。


 消えたさやの言葉が、修治の頭の中で反芻される。

 修治はさやを忘れないと、きつく約束したはずだった。さやを悲しませないために、そう約束しておいて、どうして忘れている。


 どうしてずっと、大きなさやと、小さなさやが同一人物である筈がないと、思っていたのか。本人に言われるまで、どうして夢に出てくるさやが、今現実にいるさやだと思おうとしなかったのか。あんなに面影を残していて、わかりやすいのに。


 ……あの、幼い頃に遊んださやが、一緒に遊んださやが居ないと思ったのは、何故か。


 再び、ずっと考えていた疑問を思い出す。


 どうしても修治は思い出さないといけなかった。闇に溶けて行ったさやのためにも。修治は自身の心から、思い出したいと思った。


 頭に痛みが走る。それは、思い出して欲しくないという、信号だった。けれど、視界に走った光が、修治の願いを手助けした。バシバシと走る閃光は、修治の視界を奪って、記憶を促す。


―――そうだ。


 修治は、思い出す。


―――思い出したくなかったら、自分で、忘れてた。


 修治の目の裏に、再び夏の夕日が踊る。


***


 忘れていたのは、その、誓いにも似た約束をした直後だった。

 思い出さなくてはいけなくて、そして、忘れていなければならなかったことだったのだ。


 修治が階段を下りるのを、珍しくさやは階段の下まで一緒におりたのだ。さやが、階段最後の鳥居の奥で、修治を見送る。決して鳥居からは出ない。修治はさやに手を振って、階段の最後を一段を降りた。


 そのとき、修治は気付いていなかった。階段の死角から車が走ってきていたのを。さやに目を向けたまま、修治は車のくる道に入ったのだ。


「危ない!」


 修治の体はどんっ、と押されて草の茂みに入った。


 一瞬だった。修治を助けるために車の前に立ったさやの体は、車に押された。体は軽くはねて、フロントガラスに乗る。ガラスにぶつかったと思ったら、跳ね飛ばされ、道の脇に落とされた。修治の目にはスローモーションで鮮明にその一連の動作が目に映った。


 まるで、車は何もぶつからなかったかのように通り過ぎていく。車体には一点の血も残さずに。

 だけど、さやは、血まみれだった。


「さや!」


 突き飛ばされた衝撃で、痛みを訴える体を修治は無理に起こしてさやに駆け寄る。さやの怪我に比べたら、修治の痛みなんて、かすみたいなものだ。さやを抱き起こそうとした修治に、さやは弱弱しい笑顔を向けた。


「……修治、大丈夫だ。私は、人間じゃないから、簡単に死なない」

「でも…」


 首を振って、修治はさやの手を握る。


「ほら、少しずつ治り始めているだろう?」


 腕の擦り傷が治り始めているのを見せて微笑む。けれど、えぐれた腹は、一向に血を流すのを止めない。


「さや! 嘘だろ? 死んじゃうよ!」


 修治は顔を歪めて、必死に泣くのを堪えながら、叫んだ。その言葉に、さやは腹に手をあてて、息を吐き、もう一度腕を見る。先ほどふさがりかけていた傷は、そのまま止まっていた。自己治癒が、進んでいない。


「………そうだな」


 苦しそうに息を吐いて、重くこたえた。


「誰か呼んでくるから! 待ってろ」


 歯を食いしばって、ぎゅっと目を一旦閉じてから、もう一度目を開く。それからそっとさやを地面に横たえて、修治は立ち上がりかけた。そこへさやが修治の足をつかんで、制止をかける。


「いや、しゅうじ、私は誰にも見えないから、治してもらえないよ」

「どうして」


 何故止める、と修治の目がさやを非難する。けれど、さやは弱く首を振ってその無言の非難をかわした。


「私は、大人には見えないんだよ。大人には、私は存在しない。……ばけものだから」

「でも!」


 修治は必死に首を振る。それでも、誰かを連れてくれば、誰か、見えるかもしれない。誰かが、さやを元気にしてくれるかもしれない。


「…見えたって、もう治せないよ。死ぬときだけ、人間になるからさ…大人に見えたって、そのときは、もう治せない…」


 さやの言葉に、しばらく沈黙が流れる。それで、修治は膝をついて、さやの側に座った。さやはふっと息を吐いて。修治の手を握る。修治は血がつくのも構わず、その手を握り返した。


「修治、約束をもう一つしよう」


 修治は無言でさやの言葉を促す。


「忘れろ」

「え?」


 さやの言葉に修治の顔が強張った。


「私のことを忘れるんだ」


 繰り返して、さやは念を押した。


「なん…で…」


 掠れた声で訪ねる。けれどそれに対するさやの答えは、まだない。

さっき忘れないと、そう約束したじゃないか。…そんな言葉が修治の顔に浮かんでいるようだ。


「そして、大人になったら思い出してくれ。私を、私の中の鬼を連れて行くために。……約束を守ってくれたら、この裏切られ続けた鬼を連れて行ける…」

「鬼…?」


 そこで初めて、修治は意味のある問い返しをした。さやは荒い息を吐きながら、激しく咳き込んで、呟く。


「……私の中のばけものだよ」


 ぴくり、と修治は体を強張らせる。さやは構わずに、荒い息を抑えながら、言葉を紡ぐ。


「私は、ここで死ぬ。けれど、逝かないで待っているから…。しゅうじ、お前は私を大人になっても忘れないと……そう約束してくれた。だから、お前が、大人になっても…私を忘れず、私の声を聞き、私に触れることが出来たら……」


 今度は、浅い、けれど苦しそうな息をさやは吐く。開いた方の手で、何とか、修治が泣かないように、修治の頬を撫でた。


「必ず迎えに来いよ」


 それが最後の言葉だった。ぽとり、とさやの手が落ちる。

 さやが事切れると、修治は、さやの言葉どおり、さやのことを全て忘れた。一緒に遊んだことも、さやが、死んだことも。


 神社の前の道で、少年は発見された。少女の死体を抱えて自失した少年は何を聞かれても、何を言われても、何もいわなかった。ただ、発見した町の人に、この子は誰だ、と言われたときに、一度だけ、「さや」と答えた。聞き返されても、あとは何もいえなかった。本当に忘れてしまったのだ。


 この事件のために、数日間、修治は病院で過ごすことを強いられた。そして、記憶の封印は、長く続かなかった。きっかけは、病院に見舞いに来た祖母の何気ない一言だった。


「もう、神社には行っちゃいかんよ」


 祖母がいつもくれる、砂糖菓子を弱弱しい手つきで、修治は口に運ぶ。


「行っちゃ、駄目なのか?」


 修治はのろり、と顔を動かして祖母の顔を見た。修治は神社に行ったような記憶がない。なのに、祖母には止められる。意味が判らなかった。祖母は、気遣わしげな表情を浮かべて、修治の顔を見返している。…病身にこの修治の事件は、さぞ体に障っただろう。しかも、祖母が化け物だと思っている『さや』と同じ名の少女の死体と共に修治が発見されたのだ。心配はもっともだった。


「もう、あんな思いはしたくないだろう?」


 祖母は、修治がさぞかし怖い思いをしたのだろう、と修治の頭を撫でてやりながら言う。修治が全てを忘れてしまったのは、酷く怖い思いをしたからに違いないと祖母や母は思っているのだ。だから、思い出さないように、怖い思いをしないように、神社に近づかないことだけは注意しておかねばならなかった。


「……でも…」


 言いかけて、修治の頭に、ふつり、と封じられたばかりの記憶が曖昧に戻る。

「……俺、神社に行かなきゃ。さや…そうだよ。さやと約束したんだ」


 それは最初にした約束だった。それだけを思い出した。とにかく、さやに会いに行かなきゃならない。ひとりにしたら、さやは泣くだろう。さやが泣いた顔を見た覚えは、修治にはなかったが、泣くような気がした。


「さやなんかおらん! 死んだんだ! あの女の子は死んだんだよ!」

「だって、約束した。明日も、明後日も、その次も遊びに行くって…!」


 金切り声で叫ぶ祖母に、修治は叫び返す。


 そうして、祖母が激しく止めるのにも関わらず、修治は、病院を抜け出て、神社へ行った。けれど…


 けれど、神社にさやはいなかった。末枯れた神社には、賽銭箱の横に、枯れた花が一輪、差してある空き缶があるだけで、それ以上、人の臭いはなかった。


「さや…?」


 きょろきょろと見回して、修治は必死にさやの姿を探す。毎日さやが活けていた、空き缶の花。それが枯れている。


 いつかさやは言っていた。


『この神社は誰もいないだろう?だから、私が毎日花を生けるんだ』

『空き缶っていうのが、しょぼいとおもうけどな』

『うるさいな。私は気に入ってるんだよ。……きれいだろ?』


 ふたをくりぬいた空き缶に花をさして、さやは嬉しそうに空き缶を日にかざす。空き缶がキラキラと光って、一緒に揺れる花がとても綺麗だった。


 花は、毎日さやが活けていたのだ。枯れた花が空き缶にささっていたことなんか、一度もない。なのに。


 修治は、さやの姿を懸命に探す。やがて、神社に夕焼けが降りて、少しずつに思い出す。約束をしたこと。そして、その後に……徐々に、修治は思い出してきて、不安になってくる。そこへ追いかけて、祖母がやってきた。


「いないのか? さや!」


 修治は必死に誰も居ない神社で叫ぶ。


「しゅうちゃん。こないだ、女の子が死んだんだよ」

「……」


 祖母が言うのに、修治は聞こえないふりをした。もう、思い出していた。さやが、死んだことだけ、思い出した。その時交わした約束を、修治は思い出していない。だから、修治は認めたくなかった。…さやが、死んでいなくなってしまったなどと。


「身元がわからなくて、名前は確かじゃないけど、しゅうちゃん、あんたはさや、って呼んだよ。着物を着た女の子だった」


「いやだ…知らない! 知らない!!」


 叫んで、暴れた後に、修治は気を失って、病院へと連れ戻された。

その日から、修治は、自らも自分が一緒に遊んだ女の子のことを忘れた。ただ、神社に近寄ることなく、忘れるように努めるうちに、いつしか本当に忘れてしまったのだ。


***


 思い出すと、修治の目の前の閃光はぷつりと途絶え、そして、頭の痛みも消えた。ただ、頬と背中の痛みだけが、残った。


 修治は約束の全てを思い出した。自分が何故、さやが今居る筈がないと思い込んでいたのかも、何故今までずっと忘れていたのかも、全て。

修治は見回すと、格子の先に変わらずに佇むさやの姿を見つける。日が暮れて、夜になり、随分と時間が経つ。上着だけではかなり寒く、随分と冷えこんでいる。昏倒していた時間もあり、気温の低さも考えると、もうすぐ夜明けなのかもしれなかった。

殺気だったさやの姿に、修治は苦笑いして、頷き、さやの姿の化け物に話し掛けた。


「さや! いや…お前は、さやの中の鬼だな。思い出したぞ!お前は死んでる! お前との約束は全部で三つなんだ!」


 そう言うと、格子の外のさやは、はっとして目を見張る。そして舌打ちをして、修治を睨んだ。


「一つはお前を迎えにいくこと。……いつも、神社に遊びに行くって約束したよな。大人になってから、迎えに来たら、お前は俺と一緒に…この神社を出るって、そう言ってたよな、最初は…」


 さやから、ぎり、と大きい歯軋りが聞こえる。修治は優しい表情で言い、同時に、哀しそうだ。


 …さやは、この神社の御神体だ。だから、御神体であるさやが神社を出るというのは、神をやめるということだ。けれど…死んでしまってはそれも叶わない。それを判って、修治は一度首を振って、立ち上がり、言葉を続ける。


「もう一つ。お前を忘れないこと。お前は化け物で、俺を殺すかも知れない。だけど、お前は、俺がお前を化け物であることを含め、全部覚えていたら、お前は…お前は、俺を殺さないんだ」


 かっちりと目を合わせて、修治は一歩踏み出し、さやの中の化け物に言った。……神であるさやに、どういう経緯で鬼が潜んだのかは判らない。けれど、地を騒がせる化け物や鬼を静めるために、鬼を封印するのはよくある話だ。さやが、鬼を自身に封じ込めたに違いない。


「……貴様…」


 扉の外のさやが、忌々しそうに、唸る。殆ど消えそうな月の光を浴びながら、化け物は格子の前を行ったり来たりした。……夜は、化け物が力を持つ。昼間は太陽光で神であるさやが鬼を静めていられるが、夜は、化け物に体を支配されるのだ。月の、一度死んだ光を浴びると、鬼は力を得て、暴れる。


「最後に」


 修治は息を吸ってそして、もう一歩格子に近づき、ゆっくりと格子に手をかけ、もう一度言葉を紡ぎだす。


「俺は、さやが車にはねられてから、お前を、さやを忘れて、それから、大人になってから思い出すこと…そうしたら、さやは…さやの中にいる、鬼を連れてあの世に逝けるんだ…」


 全て約束を言い終え、修治は格子を開いた。全てを思い出して、全てを言った。けれど、寂しいような、哀しい思いが修治の胸に募る。


「全部守った。…少し遅くなったけどな…さや。お前を全部思い出して、迎えに来た」


 修治は苦笑しながら言って、目を見開いて硬直するさやを見つめる。未だ殺気を放つさやを目の前に、修治は無防備に体をさらしている。

確かに、修治は約束を守った。これで、さやとの約束どおり、修治は殺されない。けれど、そうではないのだ。全てを思い出したから、修治は約束を守れたが、それは同時に、さやとの別れを意味しているのである。……それが判っていて、修治は、悲しかった。


「おのれ…!なぜ、約束を守ったりする…!」


 化け物は叫び、総毛だって手を振り上げた。ひゅんっ、と修治の耳元で音が鳴る。しかし、修治の首は飛ばなかった。


「しゅうじ…」


 忌々しそうだったさやの顔が不意に柔らかくなり、凛とした声で名を呼んだ。ふわり、とそよ風が修治の横を過ぎる。そのときに、すでに鬼からさやに替わっているのが、修治には、何となく判った。微笑んださやの体が、ゆがみ、膨張したかと思うと縮み、少女になる。穏やかな顔とは裏腹に盛大な恨み言が、さやの喉奥から漏れていたが、体がちぢむと、それがぷつりと途切れる。少女のさやは、昔のように、おかっぱ頭で、着物を着ている。白い、着物だった。


「しゅうじ。ありがとう」

見上げる形となったさやは、そうお礼を言った。修治は微かに微笑んで、さやと視線を合わせるためにしゃがんだ。

この、幼い少女の姿が、さやの本来の姿だ。大人の姿は、修治が思い出しやすいように、作っただけだ。修治は、幼いさやの姿を疑問にも思わず、さやが何かを言うのを、ただ待った。


 そしてさやは、真面目な顔で、とつとつと語り始めた。


「しゅうじ。私の中に居る化け物はな、人に裏切られ続け、町で暴れまわっていたものだ。…それを私が封じた」


 修治はさやが話すのを、黙って頷いて聞く。それに答えて、さやも話し続けた。


「私は、本来なら死なないんだがな、化け物の体が朽ちたから、私も一緒に朽ちる」


 さやがそう言うと、修治は顔をしかめる。判っていたがやっぱり胸に傷みが走った。それを悟ると、さやは柔らかに微笑んで、修治の頬を撫でた。ちょうど、何年も前に、さやが死の間際にそうしたように。


「私は、ただ死ぬだけなら、消滅するだけなんだ。けど、しゅうじが約束を守ってくれたら、裏切られ続けた化け物の本性を鎮めてやることが出来る。そうしたらな、化け物は…この鬼は、あの世にちゃんと逝くことが出来るんだよ」


 修治が俯きそうになるのを、さやは制止して、しっかりと、優しく目を合わせる。頷き聞きながら、修治は何も言えなかった。自分が感じるこの寂しさは、自分勝手な我侭なのだ。寂しさを訴えたところで、さやが逝くのは変わらない。ならせめて、さやが悲しまないように、修治は笑顔で送ってやらねばならない。


「だから、しゅうじが約束したことを守ることで、化け物は裏切られ続けた身から救われる。私自身、鬼と一緒に生き長らえていた生に終止符が打てるんだ。消滅じゃない形でな」


 話を締めくくると、さやは儚く笑った。そしてもう一度修治の頬をなでる。


「すまない、頬がずいぶんと腫れたな。それに、背中も酷い」


 さやは、修治の頬をなで、背中をなでた。そこからじんわりと、熱が伝わるように痛みが少しずつひく。傷を、治してくれているらしい。


「大丈夫だ」


 修治は軽く首を振って、ようやくそれだけを言い、さやに苦く笑いかける。


「ずっと外にいるから、お腹も減っただろう? 悪いな。何もしてやれない。私が、あのときのしゅうじみたいに、お菓子をあげられればいいんだが」


 困ったようにさやが言うのに、修治は少し笑った。自分が落ち込んでいるのに、さやは何てことを考えている。出会ったときのことを、思い出す。


「私の名前は、さやだ」


 初めて会った、緑の濃い明るい神社は思い出される。無理に思い出していたときとは違って、妙に懐かしかった。


「さや、か。変な名前だな」

「なんだよ、失礼な…」


 言いかけたさやの言葉が、不意に止まった。そして、シャワシャワと蝉が鳴く神社に、ぐぅ、と盛大なお腹の音が鳴った。


「…なんだお前、お腹すいてるのか?」


 鳴ったのは、さやのお腹だった。さやは赤面したが、それでも修治に質問には頷いて肯定する。


「しょうがないな。俺のお菓子やってもいいけど、どうする?」


 修治は恩着せがましく、ビニール袋に入った菓子を見せる。それは、祖母が修治に持たせた砂糖菓子だった。


「…いいのか? お前のだろう?」


 ぱっと、顔をあげて、さやは悪そうに修治に言う。さっきの大きな態度と打って変わった弱気が面白かったらしい。修治は笑って答える。


「いいよ、どうせ俺一人じゃ食べないし。一緒に食べようぜ」

そう言うとさやは、顔を輝かせて素直に言ったものだ。

「ありがとう!」


 笑顔で言って、それから修治とさやは一緒に遊ぶようになった。砂糖菓子は、修治とさやが仲良くなったきっかけだった。


「…菓子じゃなくても、お腹がふくれれば何でもいいんだけどな」


 さやが言葉を続けて思案する。それに、修治はますます笑えてしまう。


「あのときのお腹の音、神社中に響いてたな」

「そんなに大きかったか?」


 眉間に皺を寄せて、さやが言うのに、修治は耐え切れなくなって、とうとう噴出した。合わせて、さやも少し笑う。


 そうやって話している間に、徐々にあたりは明るくなってきた。不意に、さやが顔をあげて、東の空を見た。……本当に、別れの時間が、近かった。急速に、楽しい時間が、遠ざかる。少しの間忘れていた悲しみが、また修治を襲う。さやは、この世から居なくなる。こうやって、話しているのに、さやは、修治の目の前から消えるのだ。


 意識した瞬間に、どくん、と心臓が鳴った。刹那に、さやと目が合った。さやは、修治の不安を見透かして、それを包むように柔らかく微笑んだ。


「ありがとう」


 いいながら、さやは修治の首に腕を回して、抱きつく。暖かい感触が、修治に伝わる。まるで生きているように、暖かい。ぎゅ、と修治を抱きしめた後に、さやはまた自分で修治の体から離れ、修治をみつめる。


「……さや」


 苦く笑んで、修治はさやをみつめ返す。いよいよ別れの時なのだと悟る。笑顔で、送ってやろう、と修治はそう思う。けれど、どうしても顔が歪んでしまうのだ。


「大好きだよ、しゅうじ」


 微笑んで、さやは社の境内を歩いて降りた。そして、もう一度、社の境内に立った修治を振り返る。


「お前はちゃんと約束を守ってくれたな」


 今までで最高の笑顔を送って、さやは風に溶けた。さやが溶けた風は、ふわり、と修治の周りをかろやかに舞って、空の彼方に吸い込まれていった。それはちょうど朝日が昇るのと同時だった。


 修治は、一人、登ってきた朝日をみつめ続けた。瞳に映っていたのは、朝日なのか、懐かしい思い出たちなのか。ただ、空をオレンジに染める朝焼けに、約束の空を思い出していた。

 こうして、さやは修治を残し、鬼を連れて逝った。

 全ての約束は、果たされた。

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少女の約束 かべうち右近 @kabeuchiukon

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