第二章 上層事変:前編

第42話 序章

 闇に包まれた宇宙空間に漂う一隻の船――宇宙船・アスガルド。その船頭の遥か先に、深刻な環境汚染の影響で、地球の大部分の海が赤に変わってしまった母なる星、地球がある。


 ヴァルキリーの操縦桿を握る〝パイロット〟は、赤と白に染まった地球を静かに見つめていた。フルフェイスヘルメットのシールドはスモークがかかっているので、肝心な容姿と表情までは分からないが、視線の先は確かに地球へ向けられている。


 〝パイロット〟は欠伸をしたのか、シールドが水蒸気で曇った。眠気を覚ますかのように頭を小さく振り、操縦桿を握り直して、モニターの隅に表示された時間を確認する。現在の時刻は深夜一時。宇宙船・アスガルドへ入船する為に入国審査局に待機を命じられてから、半日くらい経過した所だった。


 普通の人なら痺れを切らして、時間がかかり過ぎだと怒鳴り散らしているだろう。けれど、この〝パイロット〟は怒鳴り散らす事も、暇潰しになるような事もせず、ただ静かに地球を見つめ続けていた。


『ねぇ、ずっと地球を眺めていても面白くないだろう? せっかくの二人きりなんだ。たまには〝私〟とお喋りでもしないかい?』


 突然、コックピット内に女性とも男性とも判断できない中性的な声が響いた。〝パイロット〟の首から下げられている鈍い光を放つ菱形のオーブがキラリと光る。どうやら、この声はヴァルキリーのシステムを介して、オーブから発せられているようだった。


 しかし、〝パイロット〟はオーブからの問いかけに返事をする事なく、無視を決め込んだまま、地球を見つめ続けている。その様子に声の主は呆れたように短く溜息を吐いた。


『またお得意のだんまりかい? もう何年も君と一緒にいるんだし、いい加減信用して欲しいんだけど。〝私〟に心を委ねてくれたら、君の心に巣食う闇を綺麗さっぱり拭い去ってあげる。今はだんまりでも、いつか君は〝私〟の手を――』


 〝パイロット〟は鬱陶しそうに小さく舌打ちをし、オーブとヴァルキリーを繋ぐ回路を切った。そのせいで、エネルギーメーターの数値が一気に減少し、コックピット内の照明とモニターの明るさが少し暗くなってしまったが、宇宙船に辿り着けるくらいの残量は残されている。


 〝パイロット〟が疲れたように長い溜息を吐くと、『大変お待たせいたしました。パスポートの提示と滞在目的、ヴァルキリーとオーブの型式番号の申告をお願いします』というAI音声がタイミング良く、コックピット内に鳴り響いた。


 〝パイロット〟はAIの指示通りに、バーチャルキーボードでパスポート情報と滞在目的等を的確に打ち込んでいく。


 エンターキーを押してから、数秒後――。モニターに『入国審査完了。アスガルドへようこそ』と表示された。


 宇宙港の入口付近に設置してある青い信号が、数回点滅されたのを目視で確認した〝パイロット〟は、進入角指示灯に向かって、操縦桿をゆっくりと押し込んでいった。


 操縦しているヴァルキリーが、宇宙港に向かって緩やかに加速し、ほんの少しGがかかって、身体がシートに押し付けられるような感覚がした後、〝パイロット〟は全天周囲モニターの後方を見やる。


 〝パイロット〟は遥か後方に位置する地球を見て、何かを感じたのか、鼻を小さく啜った。操縦桿を握る手が緩む。〝パイロット〟が地球の方向へ手を伸ばそうとした瞬間、ピピッ! という電子音が鳴り響いた。


「ねぇ……もしかして、泣いてる?」


 突然、ヴァルキリーの通信システムを介して誰かに話しかけられた。ハッと我に返った〝パイロット〟がバーチャルキーボードを操作すると、モニターに長い白髪を一つにまとめた、中性的な顔立ちの少年が映し出される。


 地球がある方向と少し離れた方角のモニターに、天使の羽を生やしたヴァルキリーが飛んでいた。そのヴァルキリーは騎士のような銀の鎧を身に纏い、腰にはロングソードが携帯されていたが、仲間の機体だと分かると、〝パイロット〟は何もなかったかのようにシートに座り直す。


「本国から命じられた重要な任務があるのに、精神的に不安定な状態で大丈夫なの? 〝N〟って、本国の〝ナンバーズ候補〟なんでしょ? 感傷に浸るような人間だったっけ?」


 質問責めに合うも〝N〟と呼ばれたパイロットは、無言のまま何も答えようとはせず、先程と同様にだんまりを決め込んでいた。


 すると暫くして、「もしかして、の事が心配なの?」と白髪の少年が勝手に推測し、一方的に話し始める。


「他者から弱みを握られやすいを、いつまでも側に置いておくなんてどうかしてるよ。使僕はともかく、君は本国の〝ナンバーズ候補〟の代表として、任務に赴いた正真正銘の兵士なんだ。僕達の命は全て本国の為に消費、利用される。個人的な想いなんて必要ない。君もいい加減、首から下げてる〝オーブ〟に身も心も捧げなよ。そしたら、余計な事を考えずに済む。のようになれる。真に信じるべきお方が誰なのかを――」


 〝N〟は話の途中で通信回線を切り、鎧のヴァルキリーと距離を開けるように、操縦桿を思いっきり押し込んだ。エネルギー残量が一気に減って、アラートが鳴ったが、宇宙港はもう目の前だ。残量なんて気にする必要はない。


 シールドにスモークがかかっている為、〝N〟の感情はやはり読み取れなかったが、操縦桿を握る手は小刻みに震えていた。しかし〝N〟は覚悟を決めたのか、地球への未練を振り切るように顔を上げ、宇宙船・アスガルドの宇宙港の中へ入っていったのだった。

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