第40話 シンラ・イグニス

 孤児院に戻った俺は、真っ先にマリウス先生の所へ走っていった。現在の時刻は十時過ぎ。この時間帯のマリウス先生は、図書室で整理整頓をしている事が多い。


「ハァッ……ハァッ……先生っ!」


 息を切らしながら図書室に入った俺は、カウンター机の横を通り、二階へ続く木製の階段を一段飛ばしで登っていく。すると、分厚い聖書を何冊も抱えながら歩いているマリウス先生の後ろ姿を見つけた。


「マリウス先生、ただいま!!」

「おっと! なんだ、イグニス君か。少し考え事をしてたから、驚いちゃったよ」


 俺は自分の親に甘えるように背後からハグをして、良い香りがする司祭服に顔を埋める。いつもなら、建物の中では走っちゃ駄目だよと注意されるのだが、今日は特に注意はされなかった。


「改めて、おはよう。シンラ君とは話せたかい?」

「うん、話せた! シンラが俺の父さんだって知ってから、すっげぇ嬉しくてさ! 今までマリウス先生やケンタウロスおじさん達がいたから、両親の事なんて知る必要ないって思ってたけど……やっぱり、血の繋がった父さんって特別なんだな!」


 俺が興奮気味に喋ると、マリウス先生は少し驚いた表情に変わった。そのまま持っていた聖書を近くの本棚へ突っ込み、俺に向き直る。


「そんな事まで喋ったのかい? イグニス君には、自分が父親だって事を秘密にしておくって言ってたんだけどな」

「へへっ! 実は〝耳〟を通して、父さんの心の声を聞いたんだ!」


 俺が得意げに発言したのを聞いて、マリウス先生は、ますます驚いた顔になった。


「そうなのかい? 僕はまだ君の暗示は解いてないはずなんだけどな。うーん、なんで聞こえたんだろう……」


 マリウス先生は不可解だというように考え込んでいた。一方の俺は暗示が解かれていないとは思わず、首を傾げてしまう。


「てっきり暗示を解いたんだって思ってたけど、解いてなかったんだ?」

「うん。暗示を解くには、僕が〝声〟で別の暗示をかけるか、僕が相手の身体に触れるかしなきゃいけないからね。ほら、こんな感じでさ」


 マリウス先生の手が俺の肩にそっと触れる。すると、スピーカーを通しているかのように、大勢の人の声がいろんな所から大音量で聞こえ始めた。


「うわっ……な、なんだこれ!?」


 突然の現象に俺は戸惑い、両耳を手で塞いで一歩二歩と後ずさる。


 楽しい、嬉しい、大好きという正の感情に加えて、腹立つ、イライラする、なんで私だけこんな目に――という負の感情が混ざり合って聞こえてきたのだ。


「うげっ、気持ち悪! なんなんだよ、これ!?」


 俺が戸惑っているのを見て、マリウス先生は苦笑いした。


「慣れてないとそうなるよね。体質だから改善する事は難しいし、今は辛いかもしれないけど、時間をかけて慣れるしかないよ。けど、僕達〝特異体質者〟の力は、いろんな場面で役に立つし、自由に使えるようになれば、何かと優位に立てるからね。これも修行だと思って頑張れ」


 俺は唇を尖らせながら、「えー、全然慣れる気がしないんだけど……」と愚痴を漏らしていると、「何言ってんのさ。良いお手本になる人が近くにいるじゃないか」とマリウス先生はウィンクをしてきた。



「そっか! これからは父さんに聞けば良いのか!」

「そういう事。これからは時間を作って、シンラ君に会いに行ってあげてよ。僕といる時間の方が長いと、嫉妬してネチネチ小言を言われるんだからさ。シンラ君のご機嫌取りは頼んだよ、イグニス君」


 わざとらしく肩をすくめたのを見て、俺はプッと吹き出し、「うん、わかった!」と返事をすると、マリウス先生は何故か俺の頬に手を添えてきた。


「マリウス先生……?」


 淡い緑色の目が少し潤んだように見えたので、俺は静かにマリウス先生を見つめる。すると、俺に気を遣ったのか、無理やり口角を上げたように見えた。


「それにしても……本当に大きくなったよね、イグニス君。大きくなった君の姿を〝サクラちゃん〟にも見てもらいたかったな」


 少し寂しそうに笑うマリウス先生を初めて見たので、俺はどうしたら良いのか分からず、頬に添えられた手をギュッと握った。「……サクラちゃんって、誰?」と聞くと、マリウス先生は眉を下げながら笑った。


「イグニス君のお母さんの名前だよ。そして、シンラ君と僕が大好きな人でもあるんだ」

「俺の……母さんの名前?」


 初めて聞く母の名前に、俺は目をパァッと輝かせた。


「サクラちゃんの話は僕からじゃなくて、シンラ君から直接聞くと良いよ。僕が知らないサクラちゃんも知ってるだろうし、自分のお父さんから聞くのが一番良いだろうしね。……さて、いい加減僕は仕事に戻らないと。子供達と外で遊んでるシスター達に、仕事をサボってるって思われちゃうからさ」


 いつものように笑ってくれたマリウス先生を見て、俺は胸を撫で下ろした。しかし、ここに来た目的を今になって思い出し、「あ、ちょっと待って!」と、手をガッチリと握って離さないようにする。


「俺、マリウス先生にお願いがあって来たんだ!」

「お願い事? 内容によるけど、何かな?」

「ええっと、その……」


 土壇場で照れ臭くなってしまい、緊張してなかなか意思を伝え出せずにいたが、俺は覚悟を決め、マリウス先生の目を真っ直ぐに見つめた。


「と……父さんと同じ苗字にする事ってできないかな!?」

「シンラ君と一緒の苗字に? 急にどうしたんだい?」


 目を丸くしたマリウス先生を見て、ますます心臓の音がうるさくなってしまった。俺は緊張しすぎて手にかいた汗を拭かず、そのままギュッと握り締める。


「俺、孤児だから苗字がないし、これから上層に行くなら、ソフィアみたいに苗字まで登録する必要があるのかと思ったんだ。だ……だめかな?」


 見るからに、シュン……としてしまった俺を見て、マリウス先生は親心をくすぐられたのか、すぐに俺の頭をポンポンと撫でて、ニッコリと笑ったのだった。


「わかった。僕からケンタロウさんに言っておいてあげるよ」

「ほ、本当!? 俺、これからシンラって名乗ってもいいの!?」

「当たり前だろ。君はシンラ・ヒビキの一人息子だからね。これからはシンラ・イグニスって名乗るといいよ」


 あっさりとマリウス先生の了承を得た俺は嬉しくなって、「ありがとう、マリウス先生! 次、父さんに会った時、同じ苗字にした事を報告するから!」と手を振って図書館を後にしたのだった。

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