第7話 アストラル孤児院

 下層に広がるスラム街・ミドガルズでは鳥がさえずる代わりに、粗末な鉄屑で作られた教会の鐘がカンカンと鳴る。この鐘は孤児院に併設されている教会から聞こえてくる音で、朝の六時、昼の十二時、夜の十八時の合計三回、決まった時間に時を知らせてくれる重要な役割を担っている。


 教会の鐘の音で目が覚めた俺は大きな欠伸をしてから、自分の匂いの付いた毛布を頭からすっぽり被った。両耳を塞いで小さく唸り、目尻から滲んだ涙を毛布に擦り付ける。


「えぇ……もう朝ぁ? 相変わらず、鐘の音が煩いなぁ……」


 キンキンと喧しい教会の鐘の音で目覚めたものの、俺は毛布に包まったまま起きようとはしなかった。いつも夜中にこっそり帰宅するのだが、昨日は帰宅時間が特に遅くなってしまい、睡眠時間はたったの三時間。朝に強い俺でも眠くて眠くて仕方がなかった。


「ロイドは……なんだ、もう起きてんのか……」


 頭を少しだけ出して左を見ると、毛布が綺麗に畳まれた状態になっていた。ボーッとしながらロイドのベッドを眺めていると、俺はある事に気付く。シーツとピローケースが剥ぎ取られているのを見て、今週は俺達の部屋が洗濯当番だったことを思い出したのだ。


「うっわ、最悪……。これはアイナとエダに怒られるな。ロイドの奴、起きるんだったら一緒に起こしてくれたらいいのに――うん? なんだ、この感触は?」


 毛布の中でゆっくりと寝返りを打つと、手に何かが当たる感触がした。ワキワキと手を動かしてみる。この柔らかな感触は、今までコツコツと集めてきたエロ本の類ではなさそうだったので、俺はおかしいなと首を捻る。


(何だこれ? アイナが悪戯で仕込んだ水風船か? それとも、エダが気に入ってるボール? うーん、それにしては柔らかすぎるしなぁ……)


 アイナとエダはここで暮らす五歳の女の子達だ。この孤児院で一番年上の俺に遊んでもらおうと気を引く節がある為、悪戯をしたのかと思ったのだが、今回は少し違うような気がした。


 どうして、毛布の中でこんな感触がするのだろう――疑問に思った俺は暫くの間、手をわきわきと動かしてみる。すると、「ふぅん……」と何かに耐えるような吐息が、わりと近くで聞こえてきたので、驚いた俺はすぐに身体を起こした。


「な、なんで毛布がこんなに盛り上がってるんだ!?」


 恐怖で声が出なかった。俺が今まで被っていた毛布には明らかに、もう一人分の大きな膨らみがあったからだ。いつからこの大きな膨らみと一緒に寝ていたのか考えてみるも全く思い出せず、毛布の中の膨らみを凝視するばかり。


「あっ! もしかして、ソフィアか?」


 毛布の中にいるのが誰なのか察した俺は、自分の手の平を震えながら見つめる。さっき手で触れた時の柔らかな感触を思い出し、俺は無言で両拳を天井に向かって突き上げていた。


(もっこりの正体はソフィアに違いねぇ! 昨日はロイドと一緒に寝たと思ってたのに、寂しくなって俺のベッドに潜り込んで来やがったんだな!? ということは、人生で初めて女の子の胸を触っちまったってことかぁぁ!!)


 俺は歓喜に打ち震えた。俺は毛布の中にいるであろうソフィアを見つめ、ゴクリと生唾を飲み込む。


 今、この大部屋には俺とソフィアしかいない。ロイドを含めた同部屋の皆に、だらしない顔になってるのを見られていなくて良かったと心底思っていた。


「ソフィアの奴、意外と胸があったな。見た感じ柔らかそうだなーとは思ってたけど、ここまでの柔らかさとは。おーい、ソフィア。朝だぞー、そろそろ起きろよー」


 毛布の盛り上がりに手を伸ばそうとしたが、俺はすぐに手を引っ込めた。俺は鼻息を荒くしたまま、自分のプルプルと震える手と毛布の盛り上がりを交互に見つめる。


 俺は心の中で葛藤していた。できれば、あの感触を確かめたい。けれど、そんなことをすれば、ソフィアに軽蔑の眼差しで見られてしまう。しかし、もう一度だけ。もう一度だけなら――。


(いや、ダメだダメだ! そんなことをすれば、孤児院の皆から爪弾きにされちまうっ! けど……けどけどけど! あの弾力をもう一度確かめてみたい! くぅぅっ、どうする俺!?)


 どうすれば良いか迷っている最中、俺の耳元で『もう一度、触ってみな』という悪魔の囁きが聞こえたような気がした。


 俺はベッドの膨らみを見つめる。自分の鼻の下が一気に伸びた瞬間だった。


(そうだ、男のベッドで一緒に寝ようとするソフィアが悪い! 勿論、最初のはワザとじゃないし、ラッキースケベだったけど! 今回は手が滑ったことにして、もう一回だけ触ってやるぞ!)


 完全に魔が刺したとしか言いようがなかった。「おーい、ソフィア。朝だぞ〜」と声をかけ、ゆっくりと手を伸ばしていく。毛布の一番盛り上がっている箇所――恐らく、肩の部分――に手を添えて身体を揺さぶり、毛布を掴もうと手滑らせてしまったという無茶な演出を加えようとした。


「おっと、手が滑ってしまったぁぁぁぁ――あ……せ、先生?」


 毛布の中から見覚えのある美丈夫が顔を覗かせた。ぱっちり二重の淡い緑色の目。形の良いキリッとした太眉と、箒のようにボサボサになった金髪をハーフアップにして纏めている男性を見て、サーッと血の気が引いていくのを感じる。


「マ、マリウス先生……どうして、俺のベッドに?」


 この孤児院の代表を務めている、マリウス・ほむら・イクシードは毛布から這い出てきて、ベッドに横になったままニヤニヤと笑った。


「おはよう、イグニス君。もしかして、僕を誰かと勘違いしてた? まだ未成年のくせに一丁前に鼻の下なんか伸ばしちゃってさ〜。もしかして、誰かと勘違いしてエッチな想像でもしたのかい?」


 マリウス先生が揶揄うように俺を見つめてくる。それを見た途端、俺は全身の毛穴から汗が噴き出てきて、視線があちらこちらに泳ぎ始めた。


「えぇ……ちょっと待って。なんでマリウス先生が俺のベッドに? 俺、夢でも見てんのか?」


 俺は思考が追いつかなくなり、自分の頬を抓ってみる。しかし、ジンジンとした痛みしか感じず、これが夢ではないと知って絶望してしまった。


 マリウス先生は俺を揶揄うように更に口角を上げる。


「僕の質問が先でしょ? 君は誰と勘違いして、何を触ろうとしてたのかな? ほら、さっさと答えなよ」

「い、いやぁ、それは……」


 俺はギクッと肩を震わせた。なんでそれを知ってるんだという表情で見つめていると、マリウス先生は大きく噴き出し、ペラペラと饒舌に喋り始めた。


「イグニスく〜ん、君と僕は何年の付き合いだと思ってんの? 君達が夜遅くに女の子と一緒に帰ってきたことを、僕が知らないとでも思ったのかい? 詰めが甘いんだよ、君達はさぁ〜。やるなら、周りも味方につけてバレないようにしないとねぇ」


 マリウス先生はベッドから起き上がり、自分の服の裾を摘んではためかせると、色鮮やかなキャンディと金色の包み紙に包まれたチョコレート、手の平に納まるくらいのマシュマロ餅がポロッと落ちてきた。


 それを見た俺は、下層ではあまりお目にかかれないお菓子を使って、同部屋のアイナとエダを自分の仲間に引き入れたのかと瞬時に悟ってしまう。


 俺がぐうの音も出ないのを見て、マリウス先生はククッと笑った。


「あ、そうそう。イグニス君が女の子の胸だと勘違いして触ったのは、今日のおやつで出す予定だったマシュマロ餅ね。まぁ、思春期の真っ最中で女性に興味があるのは別にいいけど、まだ完全に大人になってないのに、お触りはまだ早いってことだ。ということで、は没収ね」


 マリウス先生の手に握られていたのは、『鉄屑の火葬場』で手に入れたエロ本達だった。恐らく、ロイドがベッドの下に隠していたエロ本の存在をチクったのだろう。しかも、先生が持っている雑誌の中には、俺の秘蔵コレクションも含まれていたので、俺は酸素を求める魚のようにハクハクと口を動かしていた。


(さ、最悪だっ! あのエロ本の中には、この宇宙船のアイドル・マリンちゃんが、自分の大きなおっぱいを手ブラで隠しながら撮影した写真が載せられていたというのに……くそ、くそくそくそぉぉっ!)


 俺は何年かぶりに泣いた。マリウス先生の目の前で、両拳を何度もベッドに叩きつけながら、めちゃくちゃ悔しがった。


「俺のマリンちゃんが……俺のマリンちゃんがぁぁぁぁっ! ちくしょうっ、朝っぱらから予想外なことばっかり起こりやがる! 俺、何か悪いことしたか!?」

「何言ってんの、イグニス君。今は朝じゃなくて、お昼だから」

「お、お昼? じゃあ、さっきの鐘の音は!?」

「昼の十二時だよ。もしかして、気付いてなかった?」


 呆れたようにマリウス先生が溜息を吐いたので、俺は慌てて壊れかけの壁掛け時計を見やる。短針は十二時を指し、長針は十分を少し過ぎた所を指していたので、俺は口をポカンと開けたまま時計を凝視した。


「えー、マジかよ。俺、早起きだけが取り柄だったのに……」


 朝に強い俺が昼の十二時まで寝ていたことにショックを隠せなかったが、「ソフィア嬢に感謝しなさいよ」とマリウス先生が諭すように声をかけてきた。


「あの子が言ってたぞ。悪い人達に襲われそうになった所をイグニス君が助けてくれたってね。彼の代わりに私が罰を受けますからって、当番の代役を買って出てくれたんだ」

「えっ、ソフィアが?」


 俺は目を丸くし、パチパチと瞬きをする。


「彼女、上層の中でもかなりのお嬢様みたいだね。洗濯や掃除をやったことがなかったみたいだけど、真面目で要領が良いからロイドが教えたらすぐにできてたよ。面白かったのが、自己紹介のついでに上層から来たって言ったら、なんでも興味を示すチビ達にすぐに取り囲まれてさ。質問責めにあった時の、あの焦りようは年相応で可愛いと思ったね」


 短時間でソフィアのことを細かく観察していたとは思わず、「なんか、ストーカーチックで怖い」と冷やかすと、マリウス先生は冷ややかな目をしながら、ハハハ……と静かに笑った。

 

「無断で女の子の胸を触ろうとしたイグニス君にだけは言われたくないね。まぁ、蓋を開けてみれば女の子の胸じゃなくて、マシュマロ餅だったってわけだけど……ンフフッ、ゲホンゲホンッ!」


 マリウス先生は小さく噴き出し、必死に笑うのを堪えていた。


 この世から消えてなくなりたいくらい恥ずかしくなってしまったが、ここは開き直って、「今回は罰として何をしたら良いですか?」と聞く。


 この孤児院のルール・その一。誰かに迷惑をかけてしまったら、人の為に奉仕をしなければならないという決まりがあるのだ。


「君達の罰ならもう決まってるよ。イグニス君とロイド君には罰として一週間、闇市で炊き出しを行ってもらう。イグニス君の料理の腕前であれば、ケンタロウさんも喜んで材料を揃えてくれるだろうしね。材料費は君が〝鉄屑の火葬場〟で集めた物をジャックさんの所で売れば、なんとか賄えると思うし、そこんとこの計算は得意だろう? 他に何か質問は?」

「えっと……俺とロイドだけで闇市に行ってもいいの?」


 ケンタウロスおじさん――もとい、ケンタロウおじさんは闇市を取り仕切るマフィア組織の親分的存在だ。


 俺は幼い頃、自分の誤った知識と思い込みから、ケンタウロスおじさんの店で働く下っ端の尻を蹴飛ばしてしまったことがある。それがキッカケでケンタウロスおじさんと繋がりができたのだが、まさかマリウス先生の口から俺達だけで闇市へ行って良いと許可が降りるとは予想していなかったのだ。

 

「イグニス君は一週間後の八月三十一日に十六歳になるし、君は闇市で知り合いが多いからね。ソフィア嬢が襲われた件もある。特にケンタロウさんとジャックさんには紹介しといた方が良いと思うんだ」


 ソフィアは家事をしたことがない正真正銘のお嬢様だ。服装や髪艶を見ても、ただの一般人ではない事は一目瞭然。下層に住まう人間は、俺達のような善良な人間ばかりではないからこそ、生きていく為には人脈作りが欠かせない。下層で犯罪に巻き込まれない為にも、おじさん連中と知り合いになってさえいれば、チンピラ四人組のような柄の悪い連中に絡まれることはないのだ。


「わかったよ、先生。ソフィアをケンタウロスおじさんに紹介する。もちろん、ジャックおじさんにもね」

さんね。君も大人になるんだし、いつまでもその呼び方は駄目だと思うけどなぁ」


 マリウス先生は苦笑いしながらベッドから降り、グーッと背伸びをした。身体が固まっているのか肩を回して、ポキポキと関節を鳴らしている。俺もそろそろ用意しなければと思い、ベッドから降りた。


「いいのいいの! ケンタロウさんよりも、ケンタウロスおじさんの方が強そうでカッコ良いじゃん!」

「そういう問題かい?」

「ケンタウロスおじさんはそんな器の小さい人じゃないから大丈夫だって! それより、ソフィアとロイドは!?」


 俺は着ていた服をベッドに脱ぎ捨てて、棚の上に置いてあったTシャツとパンツに着替えながら聞く。「外でチビ達と遊んでるよ」と教えてくれたので、俺はササッと身なりを整え、脱いだ服を抱き抱えるようにして持った。


「ありがとう、マリウス先生! 今から行ってくる!」

「イグニス君、顔と歯を磨いてから行くんだよ」

「わかってるよ!」

「門限の二十時は必ず守るように。少しでも過ぎたら締め出しだからね」

「だーっ、そんなこと言われなくてもわかってるって! マリウス先生は本当に心配性だなぁ!」

「親が子供を心配するのは当たり前だからね。文句は言わせないよ」


 これが先生と俺の普段のやり取り。俺が後ろを振り返ると、マリウス先生はクスクスと笑いながら手を振ってきた。また揶揄われてると感じた俺は、わざとムスッとした表情で頬を膨らませる。互いに暫く睨み合った後、こうして笑い合うのが先生との日課だった。


「気を付けていくんだぞ。ぐれぐれも危ないことはするなよ」

「了解! それじゃあ、行ってきます!」


 マリウス先生に向かって小さく手を振った後、大部屋から出て、チビ達と遊んでいるであろう二人の元へ向かった。

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