第9話 正体不明の男

 マイケが呼んでくれた医師はすぐに来た。医師は、連れてきた助手に傷を消毒して新しい包帯を巻くように指示した。


「これは酷い刀傷だね。でも最初の措置がよかったから、縫い直す必要はないよ」

「でも先生、熱が高くて苦しそうです」

「傷を治そうと身体が戦っているんです。悪いことじゃないですよ。でも3日経ってもまだ同じぐらいの熱が出ていたら、この熱冷ましを飲ませてあげて下さい。それまでは毎日傷を消毒して包帯を替えて濡れ布巾で額を冷やしてあげて下さい」

「それしかしなくても大丈夫なのですか?」

「ええ、これ以上は何もできないんです。後は本人の体力と気力次第ですね」


 医師は消毒薬と包帯、熱冷ましを置いて帰って行った。その後も、意識のない男性が心配でローズマリーは2階の自分の部屋に戻る気になれなかった。もしかしたら婚約者と彼の両親もどこかで知らない人にこんな風に助けられているんじゃないか。そう思いたかった。


「ううう……」

「あ?! 意識が戻った?! 私の声が聞こえますか?」


 男性の意識は戻ってはおらず、呻いただけだった。ローズマリーは、ぬるくなった額の濡れ布巾を交換して椅子を寝台の側に持ってきてそこに座った。


 3回目に濡れ布巾を交換した後の事をローズマリーはもはや覚えていなかった。旅の疲れがまだ取れていなかったようで、気が付いた時には寝台に頭から突っ伏しており、頭の下の掛布団が動いた感覚がして目が覚めた。


「あ?! 気が付かれましたか! よかった!」


 ローズマリーが起き上がって椅子に座り直すと、男性は起き上がろうとして呻いた。


「あの、ここは……ううっ!」

「急に起き上がらないで下さい。貴方は大怪我を負ってるんですから」

「え?! ど、どうしてまた?!」

「貴方は、この街に向かう道で大怪我を負って倒れていたんです。盗賊に襲われたのかと思いますけど、覚えていないですか?」

「ええと……おっしゃる通りで……思い出せません。全身が痛いし、熱が出ているから怪我をしたのは分かるんですが……」


 男性は頭痛もするらしく、額を手で押さえた。


「そうですか。無理に思い出さなくても、とりあえずしばらくはここで怪我の療養をされる方がいいですよ」

「でも見ず知らずの方にお世話になる訳にはいきません」

「私はローズマリー・エアデ。それでここは、領都の隣町にあるこの店フルス商会。商会の名前とは事情があって違いますが、今はこの商会の主人を務めています。これで貴方の名前を教えてもらったら、もう知り合いですよ」

「名前……?」

「どうされたんです?」

「名前が……自分の名前が分からないんです」

「え?! ご家族の名前とか住んでいる場所は分かりますか?」

「何も分かりません!……」


 男性は両手で頭を抱えてしまった。彼が履いていたトラウザーズのポケットをひっくり返して見ても何も出てこなかった。彼が倒れていた場所に荷物もあったのかもしれないが、もしかしてまだ残りの盗賊が近くにいると思うと、彼を荷馬車に乗せて早く立ち去らなくてはならず、周囲に彼の持ち物があるかどうか探す余裕がなかった。


「まあ、なんて事! お医者様に診ていただきましょう」

「いえ、結構です。今の私は何も持っていないようですので、診察料金をお支払いできません」

「そんなの気にしないで下さい」

「ま、待って下さい、お嬢さ……ううう」


 男性は、部屋を出て行こうとするローズマリーを引き留めようとしたが、突然頭を抱えて苦しみ始めた。呻き声を聞いてローズマリーは踵を返した。


「大丈夫ですか?! どうしましたか?!」

「ちょ、ちょっと……頭痛がしたんです。で、でももう大丈夫です……」

「とにかく、診療費の事は心配しないで下さい。従業員が出勤してくる前にお医者様を呼んできます。ゆっくり休んでいて下さい」

「でも……」


 男性はまだ何か言いたげだったが、ローズマリーは休憩室の扉を閉め、急いで2階に行って身支度をした。

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