第2話 ハイになったふりしたって心模様は
「……ちくしょう、今日もかよ」
闇に包まれたワンルーム。静寂が濃霧のように充満する一室に外の雨音が響き渡る。
いつもは心地よくすら感じる音が、今は、どうしようもなく大きく、恐ろしく、煩わしい雑音に聞こえる。絶え間なく続く鈍い水の槍が、横たわった体全体に鋭く突き刺さるようで、俺は冷めた布団を頭まで覆い被せた。
「なんでだよ……なんで目、覚めちゃうんだよ……」
束の間の安全地帯の中で、体を丸めて歯を食いしばる。こんな気分の悪いことが随分と前から続いている。もう吐きそうだ。
俺が抱えている大きな問題。楽しい大学生活を脅かしかねない大きな問題。人生をも棒に振りかねない大きな問題であるそれは多くの日本人が悩まされている問題でもある。
不眠症。その中でも俺は中途覚醒というタイプの不眠症に悩まされている。
寝付ける分には寝付けるのだがその後夜中に何度も目が覚めてしまう。俺の場合は目が覚めた後、割とすぐに再入眠できるのだが、できない人もいるようだ。トータルの睡眠時間は足りていたとしても、熟睡感をあまり得ることができない。何より、外がまだ暗いうちに2度も3度も起きてしまうというのはとても腹立たしく、そして恐ろしい。自分の体が正常から逸脱しているということを、昼の喧騒とは程遠い、いわば社会から切り離されているともいうべき孤独の夜に独り、ただ独りで痛感するのだ。そのストレスは尋常ではなく、俺の心を少しずつ蝕んでいく。
「3時……か。じゃあ次は5時ごろだろうな」
スマホの時刻表示を確認する。俺の場合大体2時間おきに覚醒するから、次は5時くらいにまた起きることになるだろう。まあ最近は2時に起きることが多かったから、それより1時間多く眠れただけ良かったと思うことにしよう。それに今日のゼミは3限からだから、眠る時間はたっぷりとある。あまり気にしないようにして、ゆっくりと眠りにつこう。気にしない、気にしない。
そう心で呟きながら、気味悪く跳ねる心臓を落ち着け、俺は再度眠りについた。
◆
ゼミに向かうため、昼休みで活気づいた構内を、イヤホンを装着したまま1人で歩く。ちなみに今日の通学のお供は「vinyl」。気分を上げるのにはやはりこれがいい。サビに入ると、自然と体が前傾になってしまい、多少人の目が気になるが、そこはご愛嬌。
音楽に合わせて軽やかに歩いていると、右ポケットが小刻みに震えた。画面を覗くとLINEの通知が来ていた。理子からだ。
【理子:おっすー】
【理子:昨日は寝れた?】
メッセージとともに、眠っている鳥のようなキャラクターのスタンプ。
昨日の一件もあり心配してくれているようだ。普段はガキっぽいが、なんとも仲間思いな優しいやつである。
「まあまあ寝れたよ。3回くらい起きたけどっと……」
少々ボケた感じで返信をする。あまり深刻にはしたくない。理子が心配するのは自分の単位のことだけで良いのだ。
すると、間髪入れずにまた返信が来た。
【理子:寝れてないんかい】
さすが理子だ。欲しかったツッコミをしっかりと供給してくれる。やはりボケとツッコミがある漫才のような会話が1番楽しいものだ。
そんなことを思いながらトーク画面を見て微笑んでいると、追加でLINEが来る。
【理子:私にできることがあったら言ってね】
理子の優しさが胸を揺らす。
嬉しさと罪悪感が混ざったような感覚。
理子のような優しい人には、俺のことなんか気にせず、自分のことを考えて楽しく生きてほしい。理子の楽しい大学生活に俺の不眠症という異物を混入させたくはない。
【仲葉:じゃあ毎晩子守唄でも歌ってもらおうかな】
舌をぺろっと出したスタンプとともに送信する。あくまで軽く、大した悩みではないように。
【理子:うるさ笑】
よし、思惑通りだ。
スマホをポケットに仕舞い、教室へと向かう。イヤホンから流れる曲はもうすでに変わっていた。
大学のシンボルでもある時計台の校舎に入り、ゼミの教室の扉を開く。
「仲葉!こっちこっち!」
スマホを片手に、ハンチング帽を被った和一が手を招く。
腐れ縁というものはなんとしぶといものなのだろう。別に一緒のゼミに入ろうと和一と口裏を合わせていたわけではない。そもそも俺たちは、新しい人脈を作ろうともせず、何をするにも1人で決断できないで、一緒の高校から上がってきた者同士でずっと臭い地元ノリに興じている、そんな井の中の蛙大学生のようなダサいことはしない。ちなみに、これは別に、さっき1人で学食にいるところをそれらしき集団に笑われたからその恨み節を吐き出しているというわけではないことは留意しておいてもらいたい。自分のやりたいことは自分で決断してとことんやるというのが俺たちの共通のポリシーなのだ。だからゼミを決めるときも和一とは一切相談せず各々で勝手に興味のあるゼミを決めた。
のであるが、蓋を開けてみたら2人とも同じ民法のゼミを選んでいたという結末だ。腐れ縁とは恐ろしきかな。
「隈は……別にできてないね」
和一が骨董品の鑑定をするかのように俺の顔、特に目元をじっくりと観察した。
「生憎、隈はあまりできない体質でな」
「そっかそっか」
そう言うと、和一はそれ以上追求せずに、King Gnuが出演していた昨日の音楽番組の話をし始めた。長い付き合いなだけあって俺の性格をよくわかってくれている。腐れ縁とはありがたきかな。
そうして和一と昨日の楽曲のここが良かった、あそこが痺れた、ギターソロで濡れた、アイドルが可愛かったなんてことを話しているうちに、知識を詰め込んだ分だけ増えてきた白髪を、これ栄誉なりとそのままにした猫背の教授が入室してきた。
「はい。それじゃあね、時間になったから始めようと思うんだけどね。ほんじゃまずはね、出席を取ろうかね。えーっと……有馬くん」
「はい」
返事をした後、教授は俺の方を一瞥し、頭を掻きながら、独特の間でのっそりのっそりと点呼を続ける。猫背も相まって大変頼りのないように見えるのだが、これで民法学の権威だというのだから、世の中、見てくれだけで判断してしまってはいけませんな。
「えー、鬼怒川さんまで行ったね。ほいだら次は、草津さん……ありゃ?草津さん?」
民法学の権威が阿呆な声を上げる。教室をキョロキョロと見渡す感じがミーアキャットにしか見えない。
「草津さん?ありゃ、休みかいな。……っておるがな。おーい草津さん。もうゼミ始まってるからね。起きなきゃね」
そう言うと、教授は机に突っ伏している人物の隣に座っている子に、彼女を起こすよう促した。
「……ん?あ、あ!すみません!」
「いいよいいよ。よっぽど疲れてるんだね。目は覚めたかね?」
「はい……本当に申し訳ありません……」
そう言うと彼女は顔を赤く染め上げて俯いた。
「眠り姫。今日もご健在だな」
和一が楽しそうに俺に耳打ちする。かく言う俺も微笑ましく彼女の方を見る。
彼女の名前は
さらにそれを指摘されるとひどく恥ずかしそうな態度をとるため、容姿とのギャップにハートを射抜かれた者が男女問わず後を絶たない。そんな彼女は密かに「眠り姫」という愛称をつけられており、ゼミ内のアイドル的な存在である。
「あんな真面目なお嬢さんって感じの見た目なのに、講義中ずっと居眠りしてるっていうのが可愛いよね」
「ほんとそれな」
例外なく俺と和一も草津さんに御執心である。もちろん、間違っても恋愛的なものではない。ただただ癒しの対象として、このストレスフルな現代を生き抜く糧としているのだ。
太秦は広隆寺にある弥勒菩薩像に対して人間実存の最高の姿なんて批評をした哲学者がいたようだが、俺に言わせてみれば、両腕を枕に、右側の頭を下にして机に伏した草津さんの、その身体中の力が全て
ただ、それだけではない。草津さんに対して俺は尊敬の念を持っている。
どんな場所でも自分の好きなように眠ることができる。それも、大層気持ちの良さそうな様子で。そんなこと俺にはできない。眠るとなれば乾いた紙粘土の如く体が硬直し、毎度毎度一抹の不安が脳をよぎる。幸か不幸か、睡眠時間は確保できてしまっているため、昼寝すらできない。こんな眠ることに対して恐怖を覚えてしまっている俺には、幸せそうに眠る彼女が大変輝かしく、そして羨ましく見えた。
––––––いいな、草津さんはあんなに眠れて。ちくしょう
なんて、ゼミのマドンナに夜の木屋町ほどに醜い妬みすら抱いてしまうほどに。
「はい。それじゃあね、出席も取れたということでね。ちょっと本題に入っていこうと思うんだけどね」
教授が黒い名簿を机に2.3回タップする。
「このゼミはね、3回生になったら他大学と裁判形式で討論大会をするっていうのは君たちもちろん知っているよね。それでね、その練習といっちゃなんだけどね、2回生の間は2.3人で1組のグループに分かれてね、ゼミ内で原告グループ対被告グループの模擬裁判形式の討論をやっていこうと思うんだよね」
そう言うと、教授は家の蔵の奥に眠っていた家宝を取り出すかのように嬉々として教卓の下から何やら四角い箱を取り出した。
「と言うわけでね。昨日作ってみたんだけどね。このくじを使ってね、グループ分けをしていくね。箱の中にはアルファベットが書いてある紙が入ってるからね。同じアルファベットの紙を引いた人同士でグループになってね」
いい歳こいたおっちゃんが、息の形が見えるのではないかというほど鼻息を荒くしている。
「先生なんか子どもみたーい!」
教室の後方に座っている女学生が教授の様子を見て笑った。
「ん?あはは、そうだよ。実は私はまだまだ子どもなんだよね。というかね、大人と子どもの違いなんてのは行動に対して責任が取れるかどうかしかないんだよね。だからね、責任が取れるなら、子どもらしくいたいときは子どもらしくいるのがいいと思うんだよね」
なにそれー、と女学生が小馬鹿にしたようにまた笑う。
なんとなく、教授の言ったことが頭の中で小さく響いたような気がした。
「それじゃあね。早速くじを引いていってもらおうかな。五十音順で行こうかね。じゃあ有馬くんから、引いて引いて」
教授が上面に丸い穴の空いた正方形の段ボールを上下に振る。俺に早くくじを引くよう促すためと、くじをシャッフルさせるための2つの意味を含んだ高等テクニックだ。あのくじを昨日の夜にせっせと作成していたのだと思うと大変にいじらしい。早く引いてやって、どこぞのファンキーな国の観覧車のように尻尾をぶるるんと振り回しているこの老犬を喜ばせてやることにしよう。
「一緒のグループになれるといいね」
和一が背もたれに背中を深く預けながら、俺を見て言った。
「どうだかな。なんか小・中・高・大・ゼミ同じでこれも同じとかなると流石に引く。ちょっときもい。恐ろしさすら感じる」
「寂しいこと言うねぇ」
伸びをしながら、和一は実に愉快そうに笑った。
俺は席を立ち、老犬が両手で抱えているちゃちな空気砲に手を入れたのだった。
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