第3話 息を潜めろ
うちの大学の図書館は大きい。それはそれは大きい。無駄にアカデミックでパルテノン神殿のような外観をしたこの図書館は、在学生が唯一大学を誇りに持つことができる我が大学のアイデンティティーである。1階には有名コーヒーチェーン店が入っており、その縦縞模様の入った特徴的なロゴはまさにコバエの電撃殺虫機のごとし!名のあるものに目がないミーハー気質な我が大学の学生たちを絶えず寄せ付けているのである。
「……おーい。ダメか、完全に寝てるなこれ」
そんな大学図書館にあるラーニングルームで、テーブルの対面にうつ伏せている女性に小さく声をかける。ここは唯一会話をしても良いエリアなのだが、とはいえ図書館。大きな声を出すのも申しわけがない。そういうわけで人を起こすにはいささか小さすぎる声を彼女にかけたのだ。決して彼女の寝顔を見ていたいからというわけではないことは言っておこう。
「それにしても、本当よく寝るな、草津さん」
さあさあ諸君、聞いて驚くなかれ。対面で寝ている女性の正体はなんと草津さんでありました。先ほどのゼミで行ったくじ引きの結果、俺は草津さんと同じ班になったのである。和一との腐れ縁を断ち切ったのだ。これは大ニュース。地元の奴らに知らせれば井戸端の井戸端会議で話題に上がることだろう。
それで、今は1ヶ月後の模擬裁判に向けた打ち合わせのために図書館に来ているのだ。
机に顎を乗せて同じ目線で草津さんを観察してみる。長いまつ毛が寝息でかすかに揺れている。吐息と共にたまに漏れる声がなんとも可愛らしい。こんな可愛い子の寝姿をこんな近くで見れる機会はなかなかない。神様ありがとう。
しかしなんというか、いくらなんでも寝すぎではなかろうか。夜更かししてるにせよ、もう2回生になって1限も少なくなってきたのだから、朝遅くまで寝ていられるわけだし。睡眠時間が足りないなんてことはあまりないと思うんだけど。まさか法曹を目指してて寝る間も惜しんで勉強してたり?それとも家が貧乏で学費を稼ぐためにずっとバイトしてたり?いずれにせよ、睡眠時間が足りなくなるくらい何かをしているのだろう。
ぼーっと寝顔を観察しながらそんなことを考えていると、丸くなった猫のような草津さんがモゾモゾと動き始めた。まずい起きそう。
「んっ、んー、ん?あれ、また私寝ちゃって……」
気だるそうに目を擦りながら顔を上げた草津さんと目が合う。
「ひゃぁ!あ、有馬くん!見てたの!?ご、ごめんね。寝ちゃってたみたい」
「こ、こっちこそごめん!その、あんまり気持ちよさそうに寝てたからつい」
2人してうつ伏せの状態から思いきり仰反る。椅子が暴れる音と俺たちの驚く声がラーニングルーム内に響き、視線を一気に集めた。
「うぅ……ほんとごめんなさい。寝るつもりはなかったんだけど」
草津さんは両手で顔を覆うと大きくため息をついた。耳が紅潮している。恥ずかしさと申し訳なさを孕んだ熱い吐息が、机に沈み、むっと充満している。
1日にこう何度も居眠りを指摘されれば、それはそれは恥ずかしいし、申し訳なくもなるだろう。なんだか気の毒にも思えてきてしまう。眠気なんてのは強い意志があっても抑えられるものではない。居眠りをしたことがない人など果たしているのであろうか、いや絶対にいない!であるから、この世に草津さんを責める権利のある人はいないし、嘲笑する権利のある人もいないのだ。眠れて羨ましいなんて思ってしまってすまない草津さん。草津さんにとってこれは相当な悩みなのであろうな。
「全然気にしなくていいよ!眠気抑えるのなんて人間には無理な話ですわ」
手を顔の前でひらひらと振り、これでもかと優しさをたたえた笑顔を向ける。俺の笑顔の安心感は理子のお墨付きだ。
「ううん……どう考えたって失礼だよ。話し合いの場で居眠りとか、自分で自分が信じられない」
草津さんは額に手を当てると俯き、再度大きなため息をついた。割と本気で悩んでいるらしい。
「夜遅くまで何かしてるの?そろそろレポート試験の提出時期だし、それやってるとか?」
「うーん……そういうわけではないんだよね」
「あ、別に夜更かししてるわけじゃないのね」
「いや夜更かしといえば夜更かしなのかもしれないんだけど……」
なんとも歯切れの悪い回答が返ってくる。あまり触れてほしくない話題なのだろうか。
聞かれたくないことを聞かれることの苦しさは俺もよく知っている。ここは話題を打ちとめて次の話に進むことにしよう。
「そっかそっか、色々あるんだ。それはそうと模擬裁判の資料集めしないとね。そろそろやりますか」
「あ、うん、そうだね。やろうやろう」
そうと決まった俺たちは荷物を持って席を立った。
草津さんの表情には心なしか安堵が見えていた。
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