第1話 屈託のない笑顔の裏 隠していた

 常夜灯で薄く照らされた白い部屋。物は多くなく、綺麗に整頓されているが、生活感は感じられる。部屋の隅に置かれた小さな棚の上には、化粧品やアクセサリー、鏡が並べられていて、ラグの上にある毛足の長い薄ピンクのクッションが、ここは女の子の部屋なんだと俺に意識させる。


「……いいよ、こっち来て」


 ベッドの右端に横になった彼女が、シルクのように艶やかな布団を持ち上げて、俺を甘い魔の世界へと誘導する。


「一緒に寝よ?」


 大きく唾を飲み込む。嚥下音が聞こえてしまうのではないかというほど静まり返った部屋に、小さな置き時計の針の音が重く響く。抵抗すればするほど引きつけてくる彼女の隣のブラックホールに、俺は為す術もなく吸い込まれていった。



「ふぁ、ねっむ」


 あくびをしながら、風で運ばれてきた枯れ葉を踏みしめ、講義終わりの大学の構内を肩をすくめて歩く。

 12月を迎えた京都は、とうとう1桁の気温を出してくるようになった。これから氷点下近くの世界へとまっしぐらだろう。盆地の日本代表選手京都が肩をぶんぶん回して……いや、肩を回すって温めるイメージあるしこの表現は違うか。まあとにかく本気を出してくるというわけだ。こうも寒いと朝起きるのも辛くなるわけで、こうしてあくびが出てしまうのも仕方のないことだろう。


「もうそろ大学生活も半分になるのか」


 澄み切った寒空を見上げながらポツリと呟いてみる。

 俺、有馬仲葉ありまなかばは京都の私立大学に通う2回生だ。お世辞にもイケイケウェイウェイの大学生のような派手な学生生活とは言えないが、それなりに楽しい2年を過ごしている。

 そんな生活があと半分しかできないとなると寂しくもなるもんだ。おっと、いけないいけない。感傷に浸っている場合ではないんだった。早く行かないとあいつらにどやされる。この間の集まりでも遅刻を理由に全員分のジュースを奢らされたんだったな。


 アコースティックギターの入ったケースを担ぎながら、少し早歩きで大学近くにある自宅マンションの屋上へ向かった。どこにでもある三階建ての普通の学生マンション。その屋上に到着すると、どこから持ってきたかもわからないパイプ椅子に腰をかけ、円になって楽器やパソコンを操っている4人の学生たちがいた。


「あ!やっときた遅刻魔!」


 ショートカットの金髪をふわりと靡かせながら、キーボードを弾いていた女の子がその手を止めて、右手で俺を勢いよく指差す。

 彼女の名前は別府理子べっぷりこ。俺と同じ大学の2回生だ。というか、ここにいる全員同じ大学の2回生なんだけど。まあそれはいいとして、彼女は5歳からピアノを習っていたらしく、その腕前は相当なものだ。


「遅刻魔言うな、バカ理子。授業が長引いたんだから仕方ないだろ、俺は悪くない。だから、お前が今から告げようとしている横暴な罰とやらも聞いてやる筋合いはない」


「長々と御託をご苦労。とりあえず全員分の飲み物ね!私カルピス」


「聞こえません」


 耳を両手で押さえながら、アー、と声を出して、理子の言葉を聞こえないようにしていると、その耳元に梅雨の空気のような湿っぽく生暖かい吐息が吹きかかる。まじでやめろ、思わず変な声出しちまったじゃねえか。


「そんな睨むなよ仲葉、理子ちゃんの言うこと聞かないお前が悪いんだからな」


 軽快に笑いながら俺の肩をバシバシと叩くこの男は白浜遊斗しらはまゆうとだ。185cmを超える高身長でしかもイケメン。ちくしょう、いけ好かんやつだ。


「だからって、俺の繊細な耳にお前の強烈な毒息を吹きかけんなよ。イケメンが感染る」


「何?褒めてんの?でも褒めても罰は免れないからね!僕はコーラ」


「遊斗テメェこの野郎。てか、お前軽音サークルの方はいいのか?全然行ってないんじゃねえの?そろそろクリスマスライブだって軽音サークルの他のやつが浮き足立ってたけど」


「いいの、僕は別にバンドとか組んでないから。それに行ってるよちゃんと。腕が鈍らないように毎朝ドラム叩きに行ってるだけだけどね。僕はここでみんなと演奏してるのが楽しいんだ」


 そう言ってくるりと身を翻すと、イケメンのっぽが鼻歌を歌いながら、カホンに座り、その四角い木の箱を叩き始めた。大きな体を屈めて、土を掻き出すように力強く、男らしくビートを刻むその姿は男の俺でも惚れてしまいそうだ。何よりこいつのリズム感は真似できる代物ではない。色々なバンドに誘われているらしいが、それも納得だ。ほんと、こんなサークルでもなんでもない趣味の集まりにばかり参加しているのがもったいないくらい。やはりいけ好かない。


「仲葉、コンビニ行くのついてくよ。俺もお金下ろしたかったから」


「飲み物買いに行くの前提で話を進めんな和一かずいち。俺はまだ了承してない」


「いつもみたいにどうせ買いに行くことになるんだからさ。無駄な抵抗はするもんじゃないぞ」


「幼馴染すら俺の味方はしてくれないのか……」


「幼馴染だからこそ厳しくいかないとね」


 ウッドベースを抱えたまま、悪戯っぽく笑うこの男は修善寺和一しゅぜんじかずいち。小学生の頃からの幼馴染で、小中高大と全て同じ学校の腐れ縁。もともとこの集まりも和一と俺の暇潰しのセッションが始まりなのだ。


「しゃーない、買ってきますよ。えっと、和一は一緒に買いに行くからいいとして、理子がカルピスで、遊斗がコーラか。おーい、大志たいし!大志は何がいい?」


「んあ?俺?俺は……そうだな、野菜ジュースで」


 パソコンを胡座の上で開いたまま、イヤホンの片耳を取って、面倒臭そうに口を開いたこの長髪パーマは城之崎大志きのさきたいし。いかにも音楽家な見た目をしているが、まさかまさかのマジモンの音楽家だ。ボーカロイドに歌わせた自分の曲を『ehrgeiz《エーハゲイツ》』という名義でYouTubeにあげており、登録者は32万人。1番再生されている曲『塵芥ちりあくた』は再生回数1700万回を越すという人気ボカロPだ。生の音を重要視しているが、楽器はあまり弾けないらしく、俺たちがレコーディングに参加している。


「あー、くそっ」


 大志が長い髪をかき上げながらパソコンの画面に映った音楽制作ソフトを睨みつける。


「どうした?曲作り行き詰まってる感じ?」


 この間まではだいぶ順調そうな感じだったのに。というか、大志は割と仕事が早いタイプだからこうして悩んでる姿を見るのも珍しい。


「まあな。サビ前の曲調が切り替わるタイミングに、鯉が滝を登る感じのダイナミックで神秘的なニュアンスを入れたいんだけど、どの楽器をどう入れるかで詰まってる」


「神秘的ねぇ。バイオリンとかは?」


「それはもう入れてある。なんかこう……水飛沫感が欲しい」


 言いながら、大志は手のひらを軽快に開閉して水飛沫を表すようなジェスチャーをした。普段は物静かなくせに、たまに見せるこういう子どもっぽさが愛らしい。


「じゃあそんな悩める音楽家様のために、私たちが一曲プレゼントしましょうか!」


 理子が手を3回ほど叩き、俺たちに着席を促す。今から君たちの飲み物買いに行こうとしてたんだけど?どうでもよくなったの?


「一曲弾いたらちゃんとジュース買ってきてね仲葉!」


 ちくしょう、やっぱりそこは免れないのか。

 まあでも、俺もとりあえず何か弾いてから行きたい気分だったからちょうど良いか。


 担いでいたギターケースを下ろし、中からアコースティックギターを取り出してチューニングをする。


「それじゃあ何弾く?」


「まあKing Gnuは確定だよね、僕たちは」


 遊斗の発言に俺たちは揃って頷いた。何を隠そう、この集まりはKing Gnu好きが集まって定期的にセッションするものなのだ。King Gnuの曲を弾くのは決定事項。


「じゃあ『傘』とかはどう?」


「いや、作曲家に贈る曲として最適なのがあるじゃない!『Prayer X』という曲が!」


「うわ、それがあったか」


 『Prayer X』のミュージックビデオは楽曲作りに思い悩む男の姿を描いている。今の大志にはピッタリだろう。そんなことも思いつかないなんて、理子にKing Gnu愛が負けたようでめちゃめちゃ悔しい。


「それじゃ『ANN0』のスタジオライブバージョンでやろうか。理子は井口さん役ね。和一と遊斗も準備いいか?」


「うん」


「もちろんだよ」


 俺たち4人は目を見合わせ互いに頷き合った。大志もパソコンを閉じて演奏を聞く体勢に入っている。


 サークルでもなんでもない。ただ自然発生的にKing Gnu好きが集まってできただけのこの空間が、今では俺の大学生活になくてはならないものになっている。これから先、大学を卒業して社会人になり、仕事に忙殺されそうになったとしても、こいつらとは一生一緒に楽器を弾いているように思う。


「それじゃ……いくぞ!」


 意気込んで、Amコードに手をかけた。そのときだった。


「ふあぁぁ……」


 今世紀最大級の大あくびを披露してしまった。

 嫌だ、恥ずかしい!こんな醜態を人様に晒してしまうなんて!しかも、これから弾くぞっていう空気を直前に整えたばかりだから余計にバツが悪い。


「悪い悪い!我慢できなかった」


 頭をかきながらおちゃらけた感じで笑ってみる。理子のことだからガキみたいな語彙で俺のことを馬鹿にしてくるだろうな。遊斗は理子に乗っかってくるだろうし。和一と大志はそんな様子を見て呆れたように笑うに違いない。


 しかしどうしたことか。笑って細くなった目を開いてみると、想像していた光景とは全く違っていた。


「……もしかして、まだ治ってないの?」


 理子がいつもの無垢な笑顔を曇らせ、心配そうに俺を見る。


「あぁ……うん、まあな」


「病院、行った方がいいって聞くよ?」


 いつもは俺を小馬鹿にしてくる遊斗も、そんな素振りは一切見せず、眉尻を下げていた。


「いやいや!そんな病院に行くほどのもんじゃ……」


「でも手遅れになってからじゃ遅いぞ。仲葉、半年前からずっとじゃん!」


 普段は優しい和一が、少し語気を強めて言う。大志もそんな和一の言葉に黙って頷いていた。


 友人にも恵まれ、好きなことを好きな人たちと思う存分堪能する。そんな誰にも憐れまれることのない幸せなキャンパスライフを送っている俺、有馬仲葉には、ひとつ大きな問題があった。

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