恋と呼ぶのか
クリームを挟んだレーズンサンドや真ん中にジャムの乗ったクッキー。彼女は並べた焼き菓子達を次々と口に運ぶ。私は砂糖の沈んだ残り少ない紅茶をスプーンで掬いながら、溜息をつく。「けれどね、私には分からないの。こんな馬鹿げたことをして一体何になるというの」それを聞いたニコは「それを恋って言うんでしょう」と笑った。
オルカという人間は基本的に仏頂面で、かと思えば突然弾けたように笑い出したりする。時折まるで子供のように泣き出したりもする。貴方の感情の機微を完全に理解することはとても難しい。貴方は話す時、私の顔を滅多に見ない。時折ばちりと目が合う事があるけれど、すぐに逸らされてしまう。かと思えば、私の見ていない隙に、じっとこちらを凝視している時もある。貴方のその不思議な瞳が、私はとても好きだ。何を考えているのか計り知れない深い深い灰色の瞳。果てしなく長い時を生きてきた貴方は、その瞳で幾つの死と生を眺めてきたのだろうと、私は時折あなたの過去に想いを馳せる。
ベルベット伯爵を殺したその夜、貴方が眠れないと言うので、私は階段を昇っていき、蝋燭に火をつけて皿に乗せ、扉の傍の棚に置いた。窓を少しだけ開き、薄い月明かりを頼りに貴方の肌を、眼を、手を見る。貴方の肌は蝋の様に白い。瞼の下が涙で乾いている。それをそっと拭うと、彼ははっと目を開き、こちらを見た。「なあ、ライラ、助けてくれ。何か恐ろしい想像が止まらないんだ。眠ろうと思うのに、そいつらが頭を支配して、無性に不安になるんだ。今まで生きてきた全部の記憶が怖いんだ。みんなみんな、間違いみたいに思えるんだ。整合性も、思い遣りも、何もかも失っているんだ。俺は、術師としての資格を失ったのかもしれない。死が、死が近いのかも知れない、俺は。」どうやら彼は気が動転しているようだった。瞳孔が開き、じわりと汗を流している。私は柔らかい布でそれを拭い、台所から持ってきた温かい茶をカップに注ぎ一口飲む。まだ冷まさないといけないと考える。「そうだ、薬が無いといけないんだ。この間、依頼を受けて調合した不眠に効く薬があるから、それを持ってきてくれないか。確か、調合室の黒い棚に仕舞ってあるから」貴方はうわ言の様に言いながら、宙に向けて手を伸ばす。何かを掴もうとしている様に揺れるその手を、私はそっと掴んで柔らかい布団に沈める。「そんなものがなくても、貴方は眠ることが出来ますよ」「無理だ、ライラ。俺はきっと死ぬんだ。ほら、お前の祖父のアルバの幻影が見える。取り残されて今も無駄に足掻いている、情けない俺をきっと迎えに来たんだよ。分からないか。今に友を殺しに来ているんだ」「そうですね。では起き上がって、これを飲んでください」そう言われてよろよろと起き上がろうとする彼の肩を支えながら、半ば無理矢理ハーブティーを飲ませる。即効性の鎮静剤と薬草を混ぜてある為、すぐに大人しくなり呼吸も段々と整ってきた。先程までうわ言を喋り続けていた貴方は、もうすっかり黙り込んで、蝋燭の火を眺めている。細い蝋は上半分が溶け始めている。「…オルカ様、貴方がどうして今そんな感情に苛まれていらっしゃるのか、教えて差し上げます。昨日、患者さんに頼まれた幻覚剤を自分の体で試されたからですね。床に沢山注射器が転がっているのを見ましたよ。そして今日、貴方はラダニア様と伯爵暗殺に関わっていらっしゃいましたね。久しぶりに血を沢山見たせいで、気が動転しているのでしょう。だから私は、貴方にはその仕事は不向きだと申し上げたんですよ。魔法学会に手を出すのは止めておいた方が良いと。ええ、きっとご自分でもお解りになっていたかと思いますが」貴方は私の声を黙って聞きながら頷くでもなく、こちらを一瞥して「……そうかもしれないな」と呟いた。目の焦点が段々定まってきたようだった。乱れた髪を手で梳いては辺りを見渡し、溜息をついた。「先程の御夕食も召し上がっていませんでしたね。食欲が無いのですか。甘い物なら、何か食べられそうですか」
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