断片


 「あの日のことを覚えていますか」眠気まなこでうつらうつらと首を揺らしていた俺は、彼女の微かな呟きで目を覚ました。顔を上げてぼやけた目の焦点を合わせる。彼女のホリゾンブルーの瞳は一瞬だけ伏せられて、睫毛の影が落ちる。「なんだって?」「いえ。やっぱり何でもありません」「おい話を逸らすなよ。そう言われると余計に気になるだろ」何かが気に障ったのか、彼女は答えもせずに、そのまま無言で背を向けて台所へ行ってしまった。何を考えているのか、全く訳が分からない。頭を掻きながら白く疎らなカーテン越しに窓の景色を眺める。日が差していて部屋は明るい。時計を見ればまだ昼前だった。随分眠っていたように思えたのに、気のせいだったのか。先程まで肘を置いていたクッションを腕に抱え、眠気を治めようと頭を填めていると、台所から紅茶の香りが漂ってきた。しばらく待っていると、ライラは銀のトレイに茶器一式と茶菓子を並べてやって来た。友人の菓子屋で買ったと話していたヘーゼルナッツのクッキーが3枚、小皿に乗せられている。ウィスタリアと書かれたジャムの缶と小瓶に挿されたライラック。モーブ色の縁が付いたカップが一つだけ乗っている。数が足りないのに気がついて「俺の分はないのか」と尋ねると、ライラはきょとんとして「ありませんよ。だってオルカ様は今日出掛ける用事があると仰っていたじゃありませんか」と言いながらテーブルにトレイを置いた。彼女はポケットから取り出した砂時計をひっくり返し、小瓶の隣に並べる。さらさらと流れていく砂を見ながら、俺は自分が宣言したというその用事とやらを懸命に思い返していた。何故なら全く覚えが無いのである。俺の記憶が正しければ、今日は完全なる休日の筈だ。研究室は昨日のうちに休みの看板を提げて来た。ラダニアの手紙の返事は済ませてあるし、王宮から届いた出張の連絡も、別の魔法使いに任せて却下した筈だった。しかし、

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