第一話 焼き潰された聖痕

 その夜はやけに静かだった。生き物全てが息を潜めて、ひとつの音にじっと耳を傾けている。

 女の、悲鳴に近い呻き声が断続的に森の中に響いていた。


 やがて女の声が止む。代わりに、赤子の産声が辺りに木霊した。


「頑張ったわね、姉さん! 女の子よ!」


 妹が、取り上げた赤子を布にくるんで姉に抱かせる。真っ青に血の気が引いた顔で、女は柔らかく微笑んだ。


「鼻があの人にそっくり」


 彼女はチェストの上、写真立ての中から見守る男に目をやる。


「名前はもう決まっているの?」

「ええ、あの人が決めてくれたの。マーガレットっていう名前……で……」


 女はそこでふと、顔を歪めた。産後の痛みからではない。

 子供の額に、黒い痣が浮かんでいたからだ。

 妹はそれを見て、「きっとそのうち薄くなるわよ」と声をかける。だが、女は小さくかぶりを振った。


「この形と似たものを小さいとき見たことがある。あなたがまだ五つにもなっていない頃よ。覚えてる? 原因不明の高熱で、あなた死にかけたの。医者に薬を出してもらったけれど一向に良くならなくて。でもそんなとき、ある女性がたった一瞬で治してくださったの」

「もしかして、それって」

「ええ。聖女様よ。彼女の額にも、宝石のような色をした聖痕が刻まれていたわ」

「それじゃあこの子も!?」


 妹は目を輝かせて赤子の額を見つめるが、母親は訝しむ表情を深める。


「これまで何度か聖女様を見る機会はあったけれど、こんな禍々しい色の聖痕は見たことがない……」


 見ていると吸い込まれてしまいそうな不安を覚えるほどの黒い痣。それが神の寵愛を受けた証であるとはどうしても思えなかった。


「まさか、嘘よね……?」


 不吉な予感。それを煽るように、風が強く窓を叩く。驚いた赤子も大きな声で泣き出し、不穏な空気が部屋を満たす。


「この子が……いや、ダメよ。そんな……」


 小刻みに首を横に振りながら、女は子を抱きしめる。


「この子まで失ったら、私は……」


 涙を浮かべ、彼女は再び写真立てに映る男に目を向ける。二度と会うことの出来ない夫が自分に笑いかけていた。


「ね、姉さん、どうするの? 子供が生まれたことはすぐ聖魔協会に知られてしまうわ。隠し通せるわけない! それに忌み子を匿っていることがバレたら、私たちもタダじゃ済まされないのよ!」


 泣き喚く赤子に、妹は近くにあった果物ナイフを手に取る。


「処刑されるくらいなら、今ここでっ――」

「……焼きごてを、持ってきてちょうだい」


 刃を向けられていることを気にもとめず、女は淡々と言った。


「姉さん? ……何を考えているの?」

「焼いて、聖痕を潰すの」

「――っ! そ、そんな、赤ちゃんにむごいことを」


 たったいま子供を殺そうとした自分を棚に上げ、彼女は戦慄する。


「そう、むごいことよ。それでも、何も悪くないこの子に全てを押し付け平和にあぐらをかいていた私たちが、勝手にこの子を殺める権利なんてない。私は全力でこの子を守る」


 見たこともない姉の鬼気迫る表情に、妹は気づけば工房に向かって走っていた。家具を作って生計を立てている職業柄、焼きごてはすぐ分かる場所あった。


 女の子だ。火傷の痕を見て悲しむに違いない。ならばせめて、せめて。


 彼女は工具箱に手を突っ込み、いくつかの焼きごてを取り出した。そのなかで、魔法使いに仕立ててもらったという精巧なレリーフのものを選ぶ。

 幸運を呼び込むとされる、古いまじないの込められた彫刻だ。大昔、それこそ羊の夜以前の時代から受け継がれてきたものである。

 ブリキのバケツに水を汲んで、彼女は姉と姪の待つ寝室に戻った。


 暖炉の火で鉄を炙る。その間、姉は子守唄を歌って赤子をあやしていた。ベッドには、すぐ冷やすための氷に軟膏、包帯が置かれている。


 暖炉から焼きごてを引き上げた妹は、真っ赤に熱せられた鉄を見て涙を浮かべた。


「ね、姉さん、やっぱり無理よ……私には出来ない」


 震え声で伝える。


「手元が狂ったら取り返しがつかないわ。ふ、震えが止まらないの」


 小さな額のすぐ下には、まだ開いていない目がある。


「あなたしかいないの。お願いよ。私たちを助けて」

「……っ」


 妹の呼吸が荒くなる。片方の手で腕を押さえつけ、なんとか震えを止めようと努める。


 そしてようやく、彼女は意を決した。


「い、いくわよ」

「ええ」


 慎重に、慎重に。真っ赤な鉄を近づける。まだ皮膚に到達する前に熱を感じ取った赤子が泣いた。嫌だと腕を動かそうとするも、母親に固定されて身動きが取れない。


 ジュッと肉の焼ける音が鼓膜に届いた。黒い聖痕が、瞬く間に赤く腫れ上がる。額いっぱいに、まじないが蚯蚓脹れとなって浮かび上がった。


女は泣き叫ぶ我が子の額をすぐさま冷やし、軟膏を塗って包帯を巻いた。


「姉さん、これからどうするの? 協会に出生届けを出さないと、この子は人として生きていけないわよ」


 ――聖魔協会。

 聖女と魔法使いで構成された統治機関であるそこは、国境を越えて世界を牛耳っている。

 子供が産まれたら出生届を出すことは、義務ではない。しかし、聖魔協会の名簿に乗らない人間はもはや人にあらず。彼らは協会の威光が届かない者たちを容赦なく排斥する。……羊の夜が再び訪れないように。

 魔王を恐れるあまりに、世界は秩序と監視に支配されることを望んだのだ。

 聖魔協会に出生届を出さなければ、その者の未来は二択。

 死ぬか、家畜同然の奴隷として生きるかだ。


 女は自分にしがみつく赤ん坊を見つめて、長いこと見つめて、それから妹に目をやる。


「届けは出さない。私たちは二人だけで生きる」

「……二人だけ?」


 妹は眉根を寄せた。自分が勘定に入っていない。


「私も一緒にいるわ。だって姉さん、まだ子供を産んだばかりなのよ? そんな体じゃ、子育てなんて出来やしないわ」


 姉妹は、お互いがたった一人の家族だった。両親はもともと高齢で、父が眠るように逝ったあと、母もそれを追いかけるようにしてこの世を去った。

 さらに、婿に入った男は不慮の事故で、半年前に妊婦の妻を残して逝ってしまった。


 妹は姉が大好きだった。年の離れた姉妹だったせいもあるが、美しい姉が微笑みかけてくれるだけで、自分はなによりも幸せだと思えるくらいには、愛していた。

 姉もそれを理解していたはずなのに。


「……私は、歩けるようになったら魔物の森へ行くわ。この子と一緒に」

「――!?」

「人として生きていけないのなら、人の住む場所から遠ざかるだけ」

「自殺行為よ!! 魔物は、人を食い殺すのよ!?」


 妹は髪を振り乱して叫んだ。


「どうしてそこまで……」


 彼女はそこまで言って、口を閉じた。


(全部あの男のせいだ。早くに死んで姉さんを悲しませた挙句、唯一残したのは忌み子だなんて。どこまで姉さんを苦しませれば気が済むの)


 妹は義兄が嫌いだった。姉を奪った男が許せなかった。


「……どうしても二人だけで行くというのなら、私は今からこの足で聖魔協会に報告する。忌み子が生まれたと」

「!? そんなことさせない!」

「だったら!」


 妹は声を荒らげた。


「私も連れて行って。正直その子はどうだっていいけど、姉さんが生きているのか死んでいるのか、ずっと心配しながら生きるなんて御免だわ」

「……ありがとう」


 女は妹を巻き込みたくないがために強がりを言ったが、内心ほっとしていた。


「さぁ、姉さんはとにかく体を休めて。赤ちゃんは私が面倒をみるから」


 半ば奪うようにして、彼女は赤子を抱き上げる。


(忌々しいくらい、あの男にそっくり。……あ、でも)


 妹は、そっと小さな耳に触れた


(耳の形は姉さんに似てる)


 たったそれだけで、彼女はどうしようもなく、その赤ん坊が愛おしかった。





 魔物の森に入るだけなら、なにも難しいことはない。魔法使いが張った強固な結界は、人の住む領域から『向こう側』へ通り抜ける分にはなにも起こらないのだ。

 ただし逆はない。魔物の森に立ち入ることは文字通り、人としての権利を手放すことを意味している。

 戻ろうとしても、結界が阻んで二度と人の住む場所に戻ることは出来ないのだ。


 しかし、結界を通り抜け魔物の森へ行く者は意外にも少なくはない。

 多くは人生に疲れた自殺願望者だが、なかには魔法使いが、魔物の森にしか群生していない薬草を採りに行くこともある。彼らは特別、結界を行き来することが可能なのだ。ただ森の奥深くまで行く者はそうそういない。瘴気は人体に悪影響を及ぼす。魔物への転化が特別に有名な症状だ。その多くは肉体の変質に耐えきれず命を落とす。


 三人はできるだけ瘴気の薄い場所で新しい生活を始めていた。

 マーガレットが生まれてから、実に三年が経つ。


 魔物の森は、想像していたよりずっと美しい場所であった。瘴気と聞けば病などを想像するが、それは人に限った話。

 森を進むにつれ自然は豊かになり、色も濃く生き生きとしているようだった。


「姉さん、マーガレットがまた果物を見つけてくれたの。美味しい?」


 丸太を積み重ねて作られたその家は、小さいながらも三人で住むには十分に機能していた。それは彼女たちが一から作り上げたものではなく、おそらく魔法使いが寝泊まりをするのに作ったものであろう場所を拝借している。

 その一角、日当たりの良い場所に置かれたベッドの上には、衰弱しきった女が横たわっていた。


「ええ。……マーガレットはどこ?」


 小さな匙で掬われたペースト状の果物を何とか飲み込んでから、尋ねる。


「あの子なら、外で魔物と遊んでいるわよ」


 妹は丸窓から外の景色に目をやる。そこには数匹の、子犬程の大きさをした魔物と戯れる幼女の姿があった。


 マーガレットは魔王の力を宿しているからか、人の言葉より先に魔物の言葉を解した。魔物たちも彼女によく懐き、時おりじゃれにやってくるのだ。

 母から受け継がれた金色の髪が陽光を受け輝く。前髪からのぞく額には、痛々しい火傷の痕がくっきりと残されていた。


「よかっ、た……。私がいなくなっても、あの子は……きっと、この森で……」


 呼吸をするのもやっと。懸命に言葉を紡ぐ姉は、以前とは別人のようにやせ細っている。


 瘴気は出産を経て体力の落ちた彼女を容易く蝕んだ。魔物の森に来てから日に日に衰弱していく女をただただ見守ることしか出来ない自分に、妹は強く拳を握りしめる。


「何言ってるの姉さん! 大丈夫! マーガレットと一緒に生きるんでしょう?」


 無理やりに笑顔を作って、彼女は立ち上がった。


「どこへいくの?」

「少し先に行ったところに、魔法薬の材料になる植物を見つけたの。この家の前の主が残していったレシピに書いてあった。煎じて飲めば、きっと姉さんの具合もよくなるはずよ」

「先って……危険よ。私のことはもういいの」

「……待っていて」


 引き止める女を振り返らず、彼女は壁に掛けられた武器を手に、ログハウスから出ていった。




 その晩、妹は帰ってこなかった。

 代わりに、全身血だらけになった歪な魔物が一体、ログハウスの入口で絶命していた。

 魔物の血溜まりには、白い花が一輪沈んでいた。

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