【quartz番外編】ありがとうって、言わないぜ 5

 小屋を飛び出ると、真っ暗な外の世界がふたりと一頭を包んだ。夜のとばりが下りた街は静かで、家々のカーテン越しに、ぼんやりと灯りが見えるだけ。歩く猫の姿は見えなかった。


「妙に、ひっそりしてる」

 後ろ足で跳ね上がったリザードの反動が、さらに何か言おうとしていたリックの言葉を詰まらせた。ゲホゴホ咳き込んだリックに、

「静かにしろ、奴らに聞こえる」

 ジッポが早口にそう言った。

「誰がいるっていうんだ」

「……見えないか、赤い光」

 前だけを見つめながら、ジッポがぼそりと言った。リックはほとんどつぶっていたような目を、少しばかり開いた。


 暗闇に、ぽつりぽつりと小さな赤い光が見えた。

 それはずっと見ていようとすると、見ていた場所から不意に消えていて、違うところに移っている。と同時、嫌な物音と、何か獣の鳴き声のようなものがリックの耳に入ってくる。


「あれは、何?」

吸血鬼ヴァンパイアだ」

 ジッポは即答した。

「吸血鬼……」

 リックはその言葉をぽつりと口にしたが、身に迫る危機を感じなかった。毛並みをサッと逆立てているジッポのように、恐怖や不安を感じないのだ。

「それはどんなやつなの。……ジッポ、道が違うよ、このまま行ったら」

「エミリーのところへ行く」

 間髪入れずジッポはそう言った。


 いくつかの家の前を通り抜け、ふたりは白壁のエミリーの家へと辿り着いた。家の周囲を取り囲む、木の板で作られた柵が、一部大きく倒されている。

 壊された窓から、天井にぶら下がった、消えかけのランプがゆらゆらと揺れているのが見えた。半開きのカーテンが、外から風を受けて揺らめいている。


「エミリー」

 囁くようにジッポがそう言った。その声音がどこか嘆いているように、リックには聞こえた。外から見ているだけでも、すでに中に進入された形跡が見える。

「俺、中に入る」

 そう言ったジッポを、リックは「ダメだよ」と止めに入った。


 その時だ。家の戸口が開き、中から蹌踉よろめきながら必死の様子でエミリーが出てきたのだ。

「エミリー!」

 思いのあまりジッポが叫んだ。

「ダメよ、どうしてここにいるのよ」

 エミリーは家の前で立ち止まる――その時、音もなく、大きな灰色の猫が家の中から現れた。全身は闇の中に紛れているが、その眼だけは、異様なほど赤く光っている。

 灰色の猫はエミリーの背後に回ると、その手でエミリーの首筋をなぞった。


「何をしやがる!」

 ジッポがリザードから飛び降りて、灰色の猫に掴みかかった。けれどまるで虫を払うかのようにあしらわれ、ジッポは地面へ突き飛ばされる。

「ジッポ!」

 リックはリザードの上から叫んだ。

 リザードがこちらを睨みつけてきた灰色の猫に怯え、今にもその場から逃げ出そうと身体を振るわせる――リックは慌てて、手綱を握りその場に留まらせた。

 

「ジッポ! ……あぁ、私を放して」

 エミリーは顔を近づけてきた灰色の猫から離れようとするが、両手でがっちりと押さえつけられ身動きがとれない。

「エミリーを放せ」

 ジッポは地面から起きあがると、矢をつがえた。矢に緑色の竜が宿る。灰色の猫は、依然、エミリーに顔を近づけている。まるでワインの香りを愉しむかのように目を細めている。

「放せって言ってるだろう!」

 怒りの形相で、ジッポが矢から手を放した。どこかから巻き起こった風と竜を纏って、矢は突き進む——灰色の猫の肩に突き刺さった。


 エミリーは押さえつけられていた手から解放され、ジッポの方へ駆け寄った。

「ただの猫の分際で、この私に叶うと思っているのか」

 灰色の猫——吸血鬼が身の毛のよだつような口調でそう言った。

 

 ジッポはエミリーを抱き寄せて、相手を睨みつけた。リックは怯えるリザードの首筋を撫でながら、自分の気持ちも落ち着けようとした。


 少しばかり声高に、灰色の吸血鬼は続ける。

「貴様らはもう逃げることはできぬ。この街の猫はもう、ほとんど生きてはいない。我率いる吸血鬼が全てを食い尽くすのは時間の問題。……貴様らも、おとなしく、運命さだめに従ってはどうだ」


「何言ってるんだ!」

 思わずリックは叫んだ。しかし次の言葉を紡ごうとした時、周囲に冷気を感じた。

 あたりを見回すと、暗闇に赤い光がぽつぽつと浮かんでいた。それは次第に数を増し、リック達を取り囲むようにして集まってきている――それとは別に、遠くの方にも赤々と揺らぐ何かが見える。


「馬鹿な猫が、火を放ったようだ」

 灰色の吸血鬼が口元に微笑を作った。胸くそ悪い、この場にそぐわないその顔に、リックの心に恐怖よりも怒りが蓄積されていく。

「放っておいても、この街はすでに破滅の道に進んでいるのだ。お前達の逃げ道も、絶たれてゆくだろう。……我々から逃げることはできぬのだ」


「ジッポ、早くリザードに乗るんだ!」

 リックは叫んだ。ジッポはエミリーを抱えたまま、リザードに近づく。

「さぁ、エミリー、乗るんだ」

 そう言って、ジッポは灰色の猫に警戒の視線を向けながら、エミリーをリザードに乗せた。

「……ジッポ、お前も早く」

 リックはジッポに手を差し出した。

「いや、俺はいい。ふたりで逃げるんだ」

「何言ってるのよ」

 ジッポの言葉に、エミリーが悲鳴のようにそう言った。

「3匹もリザードに乗ってられるか、俺の事は気にするな」

「そんなわけにはいかない」

 リックは手綱をエミリーの手に握らせると、滑り落ちるようにしてリザードから降りた。


「何してるんだリック」

「お前とエミリーで逃げればいいじゃないか。……俺は、俺のことはいい」

 死ぬことに恐怖を感じていながらも、不思議なほどすらすらとそんな言葉が口から出た。

 そんなリックを見、「そんなこと、できるわけねぇだろ」ジッポは手を握りしめて、怒りの表情を露わにした。


 突如、灰色の吸血鬼の笑い声が聞こえた。

「ははははは……どう足掻こうが、無駄なことだ。そう言い合わなくてもいい、私が平等な裁決を下してやる。平等な死を、それで全ては丸く収まる」


「リック」

 呼ばれて振り返ると、エミリーがにっこりとして、「手を出してちょうだい」と言った。

 リックはエミリーの様子に、呆然としながらも右手を差し出した――その手に、エミリーはリザードの手綱を握らせる。

 ふんわりと裾の広がったスカートをリックの目の前で舞わせ、エミリーはリザードから降りた。

 そして、「どこへ行くんだ!」叫ぶジッポの声に振り返らず、エミリーは灰色の吸血鬼に向かって歩き出す。


「私のことは好きにすればいい、でも、彼らは助けてあげて頂戴。でもふたりは助けてあげて……ね、いいでしょ」


「エミリー、そんな言葉が通用する相手じゃない!」

 事態が飲み込めないリックは、目を見開いて声を裏返らせて叫ぶジッポの心境がわからなかった。妙に穏やかなエミリーの顔は、リックを場違いな、穏やかな気持ちにさせた。

「リック、お前も何か言え!」

 ジッポが乱暴に殴ってきた――リックはハッと我に返る。


「いいだろう、この娘の言うことを呑んでやる」

 灰色の吸血鬼はそう言って、エミリーを自分に引き寄せた。

「お前達、道を空けてやれ」

 暗闇の赤い光が、スッと背後から脇へと移動した。ジッポは何か言いたげに、エミリーを見つめ続ける。

「早くリザードに乗って」

 小さく囁くようにそう言ったエミリーの目に、ジッポはやるせなさそうに「リック、リザードに乗るんだ」と言って、リックがリザードに乗るのを手伝った。

 しかしその後に続いて、ジッポはリザードに乗ろうとしない。


「早く乗るのよジッポ」

「エミリーを置いていけるか!」

 そう言って自分に近づこうとしたジッポにエミリーは「止まって」と目を見据えて言った。

 エミリーは灰色の吸血鬼の顔を、自分の首筋へと手で寄せた——エミリーの意図を組んだ吸血鬼が、顔に不適な笑みを浮かべる。ジッポの方を見つめながら、灰色の吸血鬼はエミリーの首筋に噛みついた――エミリーは小さな悲鳴を上げる。


「やめろ、エミリーから離れろ!」

「ジッポ、早く行って……早く」

 次第にエミリーの身体から力が抜けていく様子が目に見えてわかった。灰色の吸血鬼は全てを食い尽くすように、地面に倒れそうなエミリーの身体を支え、食らいついた首筋から離れない。


「……」

 エミリーは何かを伝えるように、声音を出さず口を動かした。ゆっくりと、目からしずくをしたたらせながら、エミリーは目を閉ざした。灰色の猫はその首筋から顔を離し、口元についた血を手で拭った。


 ジッポは呆然と立ちつくしていた。


 地面に倒れたエミリーをまたいで、灰色の吸血鬼はこちらに向かってきた。リックはそれに気づき、ジッポを引っ張って、リザードに乗るように促す。

 一度目元を拭った様子のジッポは、「逃げるぞ」そう呟き、リザードの手綱を握った。

 リザードはジッポが命令を下す前に、自ずから走り出した。


 リック達の後ろから、「奴らを追え」と言う、灰色の吸血鬼の声が聞こえた。




 リザードはもの凄い早さで駆けた。

 背後から、音もなく、背筋をぞくぞくとさせる冷気を纏った吸血鬼どもが迫っている。冷気と、家々を燃やす炎の熱さが、交互にふたりの猫に触れていった。


 リックは途中、自分の家らしきものを目にした。家の前で倒れている2つの姿を見たとき、リックの目から涙がこぼれ落ちた。

「母さん……親父……」

 ジッポにしがみついていた手に、一層力を込めた。流れ出す涙が止まらなくて、リックはジッポの背中に顔を埋めた。


 後ろから追いかけてくる赤い光は、一向に離れていかない。先ほどよりも近づいているように思え、リックは怖くなった。

「ジッポ、もっと早く」

「わかってる」

 ジッポはそうとだけ言った。


 今のリックは、吸血鬼に対する恐怖と憎しみでいっぱいだった。エミリーは目の前で殺された、そして両親も――でも今の自分は、ジッポにしがみついているだけしかできない。そんな自分が悔しかった。


「お、親父」

 ジッポが呟いた。その呟きに、リックは顔を上げる。前方に、リザードに乗ったジッポの父親がいた。こちらに向かって、手を挙げている。


「まだ街にいたのか」

 隣で併走しながら、ジッポの父親はそう言った。身体は傷だらけだったが、涙で視界を滲ませているリックに、「大丈夫だ」と微笑んでくれるほど、まだ気力は残っているようだった。

「このまま突っ走れ、後ろは俺に任せろ」

「……親父」

 不安げにジッポは父親の顔を見つめた。

「じゃあな」

 息子の肩を一度叩くと、ジッポの父親のリザードは後退していった。そうして後ろから迫る赤い光の方へと、消えていった。


「俺たちは、生き残る」

 ジッポが掠れ声で言った。リックは後ろで、声を出さず静かに泣いていた。目元の涙は何度拭っても拭いきれなかった。


 疾走するリザードは、燃える〈グリント・スコーン〉の街のゲートを抜け出た。暗い草原を、ふたりの猫を乗せ、リザードは力の限り走る。まだ灯りも見えやしない街へと向かって、ジッポはリザードを走らせ続けた。




 どれくらい時が経ったのだろう。もう後ろに〈グリント・スコーン〉の街は見えない。赤い光も見えなくなっていた。

「ここまでくれば、吸血鬼は来ない」

 ジッポが肩越しにリックを見やってそう言った。リックは無言で頷いた。


 前方から吹きつける風が、急に弱くなった気がした。

 リザードは疲れ始めていた。

 大地を蹴るたびに、上下するリザードの身体の動きが大きくなっているように思う。ゼエゼエと、荒い呼吸が聞こえる。


 乗っているふたりも疲れていた。身体を大きく揺さぶられ、油断すれば振り落とされかねない状態だ。

 そんな時だ、耳に獣の咆哮ほうこうが聞こえた。いくつも、周囲から聞こえてくる。

「冗談じゃない」

 ジッポが嘆いた。速度を落とし始めていたリザードを囲むように、犬の姿をした魔物が集まりだした。

「逃げ切れる?」

 問うたリックに、

「追い払おう」

 ジッポはそう言って、手綱を左手だけで持ち、右手を胸に当てた。


 緑色の竜がジッポの右手から現れた。ゴウゴウと風を轟かせ、一匹、また一匹の魔物を吹き飛ばす。怖じ気づいて何匹かが尻尾を巻いて逃げ出した。

 けれど、他の魔物に比べて身体の大きな一匹が、突如こちらに向かってくる――大口を開くと、魔物はジッポの左膝あたりに食らいついた。

「ジッポ!」

 魔物が頭を振る——今にもジッポの左足を食いちぎりそうだ。リックは恐怖に慌てふためいた。

「落ち着けリック。矢で魔物の頭を打ち抜いてくれっ」

 いななきながらリザードが足を止めた。魔物はジッポの左足に鋭利な爪を突き立てて、さらに食らいついてくる。

「このぉ!」

 リックは矢を番え、魔物の頭にやじりを向けた。そして放ち、魔物の脳天を貫いた——魔物は、ジッポの左足をくわえた格好でぶら下がったまま息絶えた。


「冗談じゃねぇ……あぁ、足が。古傷が開いちまった」

 ジッポは死んだ魔物の口をこじ開け、地面に転がした。

「大丈夫か、ジッポ」

「さぁ、どうだろう」

 ジッポは苦痛に顔を歪めていた。

「……とりあえず、難は逃れた。しばらく魔物は戻ってこない」

 そう言って、ジッポは傷の開いた左足に、着ていた服の裾を破いて縛った。

「街へ急ごう」

 ジッポは再びリザードを走らせた。




 ふたりはリザードに乗ったまま走り続けた。一度、昼頃に木陰を見つけて休んだ。

 リザードから降りると、どっと疲れがふたりを襲った。地面に寝転がった身体は、気力を振り絞らなければ起こせないほどだった。

 木陰で少しばかり体力は回復したが、空腹はどうにもならなかった。食事を取ろうにも、何も食べるものを持っていなかったのだ。

「街に着いたら食べられるさ」

 そう言って、ジッポはリックを奮い立たせ、ただひたすら、街へ向かってリザードを走らせた。

 

 再び夜が訪れた頃、突如リザードが前のめりに倒れた。

 それはあまりに突然の事だった。走っていた最中に起こったため、乗っていたふたりは身を守る体勢を取れなかった。

 

 リザードは顔を地面に激しく打ち、手綱を持っていたジッポは横転したリザードの身体の下敷きになった。リックはリザードの尻尾の上に転がり落ち、強く背中を打った。


「うぅ……」

 痛む背中を撫でつけながら、リックはゆっくりと起きあがった。


 夜空にはどんよりとした厚い雲が覆っていた。束の間、雲間から丸い月が顔を出した。あたりを明るい月明かりが照らし出す。

 月明かりが、倒れたリザードの姿を徐々に浮き彫り出させていく――リックの目に、リザードの腹の下でうめいているジッポの姿が映った。

「ジッポ!」

 リックはその側に駆け寄った。そして無我夢中でリザードの腹を持ち上げ、ジッポをそこから引きずり出した。


「ツイてなさすぎだぜ、俺たち」

 ジッポはリックに支えられながら、力無く笑った。

「……リザード、死んじゃった」

 地面に倒れたリザードは、少しばかり身体を痙攣させてはいたが、目は見開かれ、口から泡を吐いていた。そのうち痙攣はおさまっていき、リザードは動かなくなった。


「俺たち、どうしよう」

 死んだリザードを見つめて、リックは小さくそう言った。

「さぁ、どうする。このままこうしているのも、いいけどなぁ」

 同じくリザードを見つめながら、ジッポは続ける。

「飢え死にって、一番苦しい死に方らしいぜ」

「……冗談には聞こえない」

 リックがそう言うと、「あぁ、冗談じゃない」ジッポは妙に明るい笑い声を出した。




「歩こう」

 リックはジッポの腕を肩に掛けて立ち上がった。

 



 ふたりは暗闇の中、とぼとぼと歩き出した。

 ジッポは歩くのがとても苦しいようだった。

 一歩、また一歩、歩を進めるたびに、「うぅ……うう゛ぅ」と声を漏らしている。片腕は、時折、腹や魔物に噛みつかれた傷口を撫でていた。


 リックは自分より大きなジッポを支えながら歩き続けた。額にじんわりと、汗か浮かぶ。

「俺を置いていってもいいぜ」

 ジッポが言った。

「嫌だ」

 リックは即答した。


「俺の事嫌いな癖に」

「あぁ、ジッポ・ヘッジスなんかダイッキライだ。俺が置いていけないのわかってて、そんな事聞くんだから」

「……お前のそういうとこ、好きだぜ」

「馬鹿ヤロウ」

 そう言いつつ、リックは心の底からそう思ってはいなかった。こんな時になって、初めてジッポという猫が好きに思えてきたのだ――思わず、少し顔が緩んだ。

 ジッポがこちらを向いた。

「何ニヤニヤしてんだ、気持ちの悪いヤツ」

「……やっぱり、ダイッキライ」

 リックがそう言って睨め付けると、「ちょっとは元気残ってるじゃねぇか」とジッポは笑った。




 空がほんのりと明るくなりだしていた。

「何だか眠たくなってきた」

 ふたりを睡魔が襲い始めていた。


 歩きながらうつらうつらし始めたリックに向かって、ジッポが呟いた。

「街、ちっとも見えないな。……おい、しっかり歩けよリック、俺をちゃんと運びやがれ」

「ジッポ、俺の事も察しろよ。自分よりでかいヤツを支えながら歩く俺の気持ちをさ。疲れて歩くだけでもしんどいってのに」

「じゃあ俺を置いていけばいいだろ」

 ジッポのその言葉に、リックは重たかった瞼をこじ開けた。

「俺がいたら死ぬかも知れない。でもお前だけだと助かるぜ、きっと」

 続いてジッポの口から出た言葉に、リックは怒りを感じ、その場に立ち止まった。


「ジッポ、お前っ」

 リックはジッポを突き飛ばした。

「……い、痛ぇっ、何すんだよ」

「俺に感謝しろよ! 何で、何で一緒に街へ行こうと懸命に懸命に――頑張ってる俺にそんな事言うんだよ」

 両手を握りしめて、リックは喚いた。知らぬ間に、目には涙が浮かんでいた。そんなリックを見つめて、

「なに格好つけてるんだ。本当は俺の事置いていきたくてたまらないんだろう」

 ジッポはそう言って「そうすりゃあいいじゃんか」と目を逸らして呟いた。


「そうしたくてたまらねぇよ! だから俺に何か言うことはないかって、言ってるんじゃないかっ。ジッポの分からず屋! 女ったらし! 変なしっぽ!」

 リックは散々喚き、その場に座り込んだ。そしてわぁわぁ大泣きして、何度も地面に拳を打ちつけた。


「……悪かったよ、リック」

 地面を叩きつけていた拳を、ジッポが止めた。

 リックは目から鼻からいろんなものを滴らせた顔でジッポを仰ぎ見た。

「汚ねぇ顔、不細工、ちっとも男前に見えねぇぜ」

 そう言って、ジッポは懐から汚い布きれを取り出した。以前リックが鼻血を出した時にかしてくれたものと、同じ布きれだ。

「何が悲しくて、お前の鼻を拭いてやらにゃあなんねぇんだ」

「ジッポが泣かせたんだ、当然だ……ブヒュウー」

 ジッポにたっぷり鼻水を拭かせてやった。


 一段落したところで、ふたりは立ち上がった。

「なぁ、リック、お前にこれ、やるよ」

 そう言って、ジッポが自分の右腕をリックに向けた。左手でそっと右腕にある竜石の傷を撫でると、「今の俺は戦えない、魔物が来たらお前がこれで戦うんだ」とジッポは言った。

 あたりに緑色の風が巻き起こった。

 その風は、優しくふたりの猫を包み込んでいく。リックは身体中にあった擦り傷が消えていくのに気づいた。

「これも緑色の竜石の技だ」

 ジッポはそう言って、右腕に視線を流し呟いた。


「お前のあるじは、ジッポ・ヘッジスからリック・ゴードンへ移る」


 ジッポの右腕から、不思議な光が現れた。まぶしくて、何も見えなかった。それは突然の事で、そしてあっという間におさまった。


「案外、あっさりとお前に移っちまった」

 ジッポはそう言って、リックの右腕に視線を落とした。リックも自分の右腕を見た。そこには、先ほどまでジッポの腕にあった緑色をした竜石の傷がある。


「お前には、竜石が認める何かがあるのかもな。適当に言ってみたんだけど、お前に移ってるし」

「何だよそれ……」

「でもま、これでお前は竜石使いだ」

 ジッポの言葉を聞きながら、リックは右手を見つめた。そこには同じくこちらを見つめる、緑色の竜の姿があった。




 再び、ふたりは歩き出した。

「うやむやになってるけど、ジッポ、俺に何か言葉くらい掛けてくれてもいいだろう」

「何か言って欲しいのか?」

 重たくのし掛かっているジッポの腕の位置を少しずらしながら、

「ありがとう、とかさ」

 リックは正面を向いたまま言った。


「今は言ってやらない。無事に辿り着いたら、いくらでも言ってやるよ」

「約束だぞ」

「……覚えてたらな」

 そう言ったジッポに、「根性曲がり」と言って、リックは眉間にシワを寄せた。




 幾度かそんなやりとりを繰り返しながら、歩いた。

 お互い元気を装っていても、疲労は目に見えていた。

 言う言葉は元気な頃と変わりはないが、抑揚なく、ぼそぼそと掠れた声で言い合っているのだ。

 無意味にみえるこのやりとりは、ただ力を消耗しているだけではなかった。少なからず、リックはジッポから生きる気力を貰っていた。




「少し、休もうぜ」

 鳥の鳴き声が辺りから聞こえ始めた頃、ジッポがそう言った。朝露で湿った草の中に、半ば倒れるようにふたりは寝転がった。

「疲れた……」

 リックは重たい瞼を閉じた。


 しばらくして、ジッポが立ち上がる気配を感じた。

「どこに行くんだ」

 そう問うたリックに、

「用を足しに……立ちション」

 ジッポはゆっくりと足を引きずりながら歩き出した。

「……そうか」

「そうだ」

 ジッポは意味もない返事を返した。リックはそんなジッポの後ろ姿をぼんやりと見つめながら、閉じていく瞼に逆らえず目を閉じた。




 まぶしい日の光で、リックは目を覚ました気がする。ずいぶんと眠ってしまっていて、目を開くと辺りはすっかり日の光に満ちていた。

 リックは辺りを見回した。

 足もとに茂る草ぐさが、風を受けて揺れていた――リックの毛並みも風に撫でつけられていく。

「ジッポ」

 ぽつりと口から出た言葉に、いつの間にか消えていた存在に気がついた。


「ジッポ!」

 先ほどより声を大きくして言い、リックは立ち上がった。

 風の音が、まるで返事をするように、ざわわぁと吹いた。

「どこだよ、ジッポ!」

 リックは駆けだしていた。

 ジッポの名前を呼びながら、足もとの草につまずきながらも走った。

 


 生い茂った草と、それを揺らす風。

 辺りにあるのは、それだけ。

 リックへ言葉を返してくれる存在は、どこにもなかった。



 照りつける日差しの中、リックはもうほとんど声を潰してジッポを呼んだ。

 転んで膝から血を流しているのも、遠くにうっすらと街が見えていることさえも気づかずに――リックはジッポを探した。


「何だよ、何なんだよ」

 もう声にもならない嘆きを零しながら、リックはその場に倒れ込んだ。

 動く気になれなかった。

 疲れが溜まった身体は、また立ち上がろうとするリックの気持ちを抑えつけた。

「もう、お前を探せねぇよ」

 次第に身体中の力が抜けて、リックの意識は遠退いていった。




『ごめんだけど、約束、守れないわ』




 重たく感じる瞼を閉じていく最中さなか朧気おぼろげな視界に、はにかんだ顔のジッポが見えた。

 リックは、「嘘つき」と何度も呟きながら――瞼を閉ざしていった。


 




***


「リック、リック」

 優しい声が聞こえる。そして、身体を揺すぶられる感覚がする——それは次第にリックを現実の世界へと引き戻していった。


 目を見開くと、そこにミリルの顔があった。

「起こしちゃった」

 ミリルは困った表情をして見せて、「放って置いたら、リック死んじゃいそうな気がしたの」とこちらを心配そうに見つめた。

「……ありがとう」

 リックはそう言って、身体を起こした。


「悪い夢を見ていたのね」

 そう言ったミリルに、「夢じゃない、昔のことを思い出してただけ」とリックは左耳のピアスを触った。

「ジッポは死んだってのに。あいつは俺の夢の中では、今もあの時のまま、嫌なやつなんだ」



 ――俺が運び込まれてから、2日後に、ジッポはそう街から離れていない場所で見つかった。

 けれどそれは、俺の知っているジッポとは、全く違う姿をしたジッポだった。



「あいつ、嘘つきなんだ」

 リックがそう呟くと、「嘘つきって、寝言で何度も言っていたわ」とミリルは言った。

「俺の努力を無駄にしやがった。折角、一緒に助かろうって、俺頑張ったのによ。……なんだよ、格好つけなんだあいつ。俺、あいつのそういうところ、ダイッキライだった。俺だけ置いていきやがって、俺、独りきりじゃないか」

 ミリルに笑いかけながら、リックは目から大粒の滴をいくつも流していた。

「リック……あなたは独りじゃないわ」

 リックの背中を撫でながら、ミリルは優しく微笑んだ。

 そうして、リックの額にキスをして、目元の涙を拭ってくれた。


「ゴッホン」

 妙な咳払いが聞こえて、リックとミリルは部屋の戸口の方を振り返った。


「お取り込み中何なんだが、お客さんだ、リック」

 ミリルの父親が戸口に持たれていた。続けざまに「ミリル、店の方が忙しくなったんで来てくれないか」と言った。


「元気を出してね」

 そう言って、ミリルは部屋を出ていった。


「……いいところだったのに、よ」

 小さく吐き捨てたリックの言葉に、

「俺の娘をたぶらかした代償はわかっているだろうな。あいつを嫁がせてやらんと言ったら、俺がただじゃおかないぞ」

 ミリルの父親は鼻息荒くそう言った。

「分かってるって」

 そう答えたリックを、さも疑わしげに見やりながら、

「お客の前に、そんな泣きっ面早くどうにかしろ」

 とミリルの父親は指で示唆した。

「目から鼻水が出ただけだぃ」

 リックはブランケットで目元を擦りながら、「客通していいぜ」と言った。


 開けっ放しの戸口の内側を、その猫はコンコンとノックして入ってきた。

「入るよ」

 現れたその猫に、リックは思わず、

「ジッポ」

 と小さく呟いていた。けれどその相手は、ジッポによく似た、酒場で出会った雄猫だった。

 毛並みの色や、ピアスだらけの耳や装飾品のたぐいは、ジッポに酷似していたが、こうしてよくよく見てみると、ちっともジッポに似ていない気がした。

 目の色も、ジッポのヘーゼル色ではなく、この雄猫は黄色だ。


「悪かった。私が奢った酒で、君をひどい目に遭わせてしまったようで」

 そう言いながら、その雄猫はリックのいるベッドに近づいてきた。

「いいや、俺が悪いんだ、あんたは悪くないよ。……あんたが昔の友達に、とっても似ていたから、つい、ムキになって」

 言って、リックは酒をぐいっと飲む仕草をした。それに少し笑いながら、雄猫は被っていた帽子をベッド脇のテーブルに置き、「椅子に座らせてもらうよ」そう言って、丸い椅子に腰掛けた。


「君が倒れた後、女の子が追いかけてきてね。『リックが倒れちゃったのよ、あなたのせいだわ!』と道の真ん中で怒られてしまって――」

 雄猫の口調は、とっても柔らかで、ジッポのきつい冗談交じりの話し方とはちっとも違っていた。

 話に耳を傾けながら、リックはふと、部屋の戸口に目をやった。そこには小さな猫の姿があった。

「あ、あれはね、私の息子だよ」

 リックの視線が自分の後ろに注がれているのに気づき、雄猫は話を止めた。

 そして「息子を忘れて酒場に入ってしまってね、いやぁ私もうっかり者だ」と、恥じ入った様子で雄猫は耳を撫でつけた。


「父ちゃん、行こうよ。もうそいつ元気だよ。

早くしないと、久々の父ちゃんとのお出かけ時間無くなっちゃう」

 そう言った小さな猫は、雄猫よりも毛色が濃く、縞の模様が違っていた。

 その上、その目は薄茶色をしている。

 きっと母親似なのだろう。


「……今日、久しぶりに休暇が取れたんでね、息子と出かける約束をしてたんですよ。

こうみえて、仕事がだから、休みが取れなくてね」

 雄猫の外見は、猫達の平穏な生活を守る姿とはほど遠かったが、息子を見つめる優しい眼差しが、何かを物語っているように思えた。


「俺はもう大丈夫だぜ」

 リックがそう言うと、小さな猫が部屋に入ってきた。

 そうして父親の腕を引っ張って、

「ほら、早く行くよ父ちゃん」

 椅子から立ち上がらせると、小さな猫は父親の腕を引っ張ったまま、戸口の方へ勢いよく駆けだした。

「大変ご迷惑をおかけしました」

 そう言って、雄猫は苦笑を浮かべて部屋を出ていった。



「……」

 静かになった部屋をぼんやりとリックは見渡した。

 視線をベッド脇のテーブルへやった時、そこにあの雄猫が持っている帽子が置かれたままであるのに気がついた。

「あ、忘れ物だ!?」

 慌ててリックはベッドから飛び起きた。

 帽子を引っ掴むと、ドタドタと部屋を飛び出した。




 酒場の裏戸口から出たリックは、前方に、こちらを振り返る雄猫の姿を見た。

 リックが手に帽子を持っている事に気づき、自分の頭を触りながら「あっ」と雄猫は声を上げた。

「僕が行く」

 小さな猫が、リックのところへと駆けてきた。


「……ほら、父ちゃんの忘れ物だぞ」

 言って、リックはその子に帽子を手渡した。

 その子はそれをサッと受け取ると、何も言わず3歩ほど先まで歩いた――そこでこちらに、振り返る。

 小さな猫は、口端を引き上げた笑顔でこう言ってきた。


「ありがとよ、リック」


 リックはキョトンとしてしまった。

 その顔が、その声が、笑顔がジッポに見えたのだ。

 でも次の瞬間には「ありがとう、兄ちゃん」そう言う、ちっともジッポに似ていない小さな子猫がそこにいた。



「ジッポ」

 リックはぽつりと呟いていた。

 手を振りながら、小さくなっていく親子を見つめながら。

 





 ――なぁジッポ。

 お前は死んじまったのかもしれないけどよ、俺の中に、お前は今でもいるんだよな。

 左耳のピアス、右腕の竜石の傷、俺の思い出に記憶――

 本当は、俺がお前に言うべきだったのかもしれないな。

 感謝の言葉、最後にお前と約束した言葉を。


 でも、俺は悔しいから。

 いつか、どこかでまた会う時まで。

 『ありがとう』って、言わないぜ。



     fin.






※※※※※


ここまで読んで頂きありがとうございました。

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(読者が少ないので宣伝😭頂けると感謝です)


 一息つきましたら、あとがきと今後の猫話について書きます。


※※※※※

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