【quartz番外編】ありがとうって、言わないぜ 2
ジッポが去り、リックもその場を後にした。
家路に向かう途中、ぼんやりとしていたせいか、坂で転んでまた鼻血を出してしまった。手に持っていた汚らしいジッポの布きれで鼻を拭くと、今度は足元に気をつけながら歩いた。
家の前まで来ると、父親がパイプをふかしているのが見えた。
「ただいま」
夕日を背に、父親はいつものようにお手製の木の椅子に座り、
「まぁそこに座れよ息子、夕食はまだだよ」
「今日の夕ご飯は何なの?」
そう言いながら、リックは父親の隣に並んで置かれた、背もたれのない丸椅子に腰掛けた。
「さぁ何だったかな、当ててみな」
「うーん」
リックは鼻をひくひくと動かしてみた。よく
「
煙が無くなると、あたりに食欲をそそる甘くてスパイシーな香りが漂った。口から思わずよだれが出てしまうような――これは、きっと野鳥を使ったあの料理だ。
ほんのりミルクのにおいと、香ばしいパイ生地が焼ける香りもする。
「俺の好きな甘辛焼き鳥だ。それとホワイトソースのパイ包み!」
そう言ったリックの横で、グラスに何か注がれる音がした。
「そして俺は、
父親はグラスを傾けながら、ゆるりとお酒を楽しみ始めた。
「ふたりとも、夕ご飯ができたわよ」
家の扉が開いて、リックと同じ青い瞳の雌猫が顔を出した。
「母さん、今日“しっぽへんだよ”ってヤツに会ったんだ。新しく街に来た猫みたい」
「ヘッジスさんね。そう言えば、あなたより少し年上の子どもがいるって話していたわ」
「ねぇ母さん、今日は俺の好きな焼き鳥でしょ」
「そうよ。パパが
「やったぁ! 早く食べたい!」
リックは飛び跳ねながら、家の中へと入っていった。
夕食時、リックは母親からジッポの家族について聞かされた。ジッポは父親とふたり家族で、街を点々として暮らしているそうだ。
この街の近くに魔物が出るようになったので、退治屋として〈グリント・スコーン〉の街に来たらしい。
「明日、ジッポと森のそばで会う約束をしているんだ」
「気を付けてちょうだいよ。暗くなる前に、必ず帰ってきなさいね」
ベッドに入り込んだリックにブランケットをかけると、「おやすみなさい」と言って、母親は額に優しいキスをした。
翌朝。窓から注ぐ
朝食にベーコンエッグを挟んだパンを頬張ると、外に出て、家の隣にある作業小屋に向かった。
中を
「おはよう、おじさん。今日はふたりで何を作るの?」
「おはようリック。テーブルだ、それと背もたれつきの椅子。昨日頼まれたんでね」
おじさんはそう言って、頬を指さすと「ここにパンくずがついてるぞ」と笑った。
リックは頬をゴシゴシこすって、そのついでに手を良く動かして顔を洗った。
「川の水で洗った方がさっぱりしないか? 朝からどこへ行くんだ、我が息子」
父親は、ちょっとした用で出かける時も、小綺麗にするのが好きだ。朝から川の水をつかって、全身丁寧に毛繕いしたのだろう。隣のおじさんは寝癖を残した毛並みだというのに、今日もそんな具合で、少しばかり格好良く見えていた。
胸ポケットには、青地に白い水玉模様のハンカチを入れている。
「教えてやったろう、身だしなみは男前を作るってな。ゴードン家の家訓だぞ、リック」
「はぁい」
毎朝されるこのやりとりを適当にあしらうと、リックは小屋の壁に掛けてあった弓と矢筒を背負った。
「行ってきます」
ふたりに手を振って小屋を後にすると、リックは昨日ジッポと約束した、森のそばまで駆け出した。
時折、背負い慣れない荷物のせいで
時間が早かったのか、ジッポはまだ来ていなかった。リックはその場に座り込んで待っていようかと思ったが、耳に川のせせらぎが聞こえて、
「川で顔でも洗っておくか」
と呟くと、森を少し入ったところにある小川へと向かった。
-森の中の小川-
川の水は、生い茂った木々の合間から注ぐ朝の光に、てらてらと輝いていた。
リックは弓と矢筒をちかくの茂みに置くと、川の中にそっと足を入れた。水深は膝下くらいまでしかなく、水の流れは緩やかだ。
「きっと君は——に成長するだろうな」
突然、妙な声音がリックの耳に聞こえた。
「そうかしら。あなただって——ふふ。素敵」
今度は声の高い雌猫の声だ。
リックはそのどちらの声にも聞き覚えがあるように感じた。川の中を静かに歩きながら、声のする方へ近づいてみる。
すると、
「君の綺麗な毛並みが、無事で良かった」
そう言って、親しげに雌猫を撫でているジッポを見つけた。相手が誰なのかは、木が邪魔をしてこちらからはよく見えない。
「――あなたって、見かけに寄らず優しいのね」
ジッポの手に頬擦りする雌猫の顔が、肩越しにちらりと見えた。
「あぁあーっ! 街で一番
思わずリックは大声で叫んだ。ふたりがその声に振り返る。エミリーは頬にジッポの手を当てたまま、「あらリックじゃない。朝から小川で水浴び?」と微笑んだ。
「あ、あ、朝っぱらからこんなところで何してやがるジッポ!」
「何って……見て分からないか?」
あくまで
「
「そんなに怖い顔をしないでリック。私、リックも素敵だと思うわ。でも、ジッポにはなんて言うか……リックには無い、素敵なところがあるの」
エミリーはジッポの顔を熱っぽく見つめながら、話し続ける。
「彼、外見は悪そうで、怖くて近寄りがたそうだけど、とっても優しいのよ。それに
そう言うと、エミリーは「あら私ったら」と恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
満更でもなさそうなエミリーの様子に、リックはイライラしながら叫んだ。
「エミリーちゃん、そいつに
「何でお前の耳元に囁かなきゃなんねぇんだよ」
ジッポは呆れた顔をして、つまらなさそうに近くの木から葉っぱを
そのうち、ジッポはリックの叫び声に飽きてきたのか、胸の前で腕組みしながら言った。
「なぁ、じゃあこうしようぜリック。俺たちはここで弓勝負をしようとしてたんだ。……勝った方がエミリーちゃんの恋猫になる。どうだ、俺とやるか?」
「ああ、いいじゃないか。やってやる」
リックは両手を腰に当てて、ジッポを
「決まりだ。先に森の中で獲物を捕まえた方の勝ちだからな」
ふたりの猫はお互い視線をぶつけ合った。
「ふたりの男が私のために戦うのね。私って、罪な女だわ……」
エミリーは胸の前で両手を合わせ、空を見上げて目を輝かせていた。
勝負の結果は、すぐに決まった。言わずもがな、
「俺の勝ちだ」
ジッポに軍配が上がった。若くて大きな兎が、その肩に背負われている。
「嘘だ、ジッポお前ずるしただろう!」
「往生際が悪いぞリック・ゴードン。
「リックはとても頑張っていたわ。ただ、ジッポの方が優れていたのよ」
エミリーは哀れそうにリックを見つめた。
「あぁ、エミリーちゃん……」
リックは己の不甲斐なさに打ち
エミリーが帰っていった後、ジッポとリックは、弓の手入れや矢作りをした。
「すまんなぁ、リック」
さもすまなさそうな顔をして、ジッポが言った。
「心にも無い癖に」
リックはぷうっと膨れっ面をして、こちらを見ているジッポに背を向けた。
「悪かったよ、ずるした事」
その言葉にリックは手を止める。
「へ!? 今何て言ったっ」
「だから、ずるい事して悪かったって言ったんだよ。俺とお前じゃあレベルが違いすぎた。わかっててお前と勝負したんだ。だからずるかったって言ってるんだよ」
「……何だよそれ」
ジッポの嫌みに一つため息をついた。そんなリックに、ジッポはお尻を引きずりながら近づいてくる。
「来るなよ、何だよもう」
いじっていた弓を持ったまま、リックはまた背を向ける。背後から、ジッポがこちらに話しかけてくる。
「俺たち友達だろう?」
「俺はそう思っていないけど」
「何言ってんだ、俺みたいな
急にジッポの左腕が、リックの首に巻きついた。
「な、何しやがる。く、苦しいじゃねぇか」
もがくリックに、今度は右腕が伸びてきた。
「見て見ろ、これ」
ジッポはリックの首を締めている左腕に、一層力を込めた。それを振り解こうと、リックは両手で左腕を引っ掻こうとした——その
ジッポの右腕に、まるで裂けた傷のようなものがあった。その傷口には緑色の石が
「これ、竜石って言うんだぜ。竜石を持っていると不思議な力が使えるんだ。そういう俺みたいなやつの事を“竜石使い”って言うらしい。……俺がずるしたって言ったのは、この事を秘密にしてたからさ」
リックは息苦しさを忘れて、ジッポの右腕を見入った。毛並みに少し埋もれながらも、緑色の石は光を反射して、その存在を知らしめているようだった。
もっとよく見ようと、ジッポの右腕を持ち上げた。その時だ。リックは緑色の石の中に、こちらを見つめるものを見た。
「な、何だこれ」
緑石の中で、荒々しい竜が動き回っている。竜はぐるぐると旋回したかと思うと、急にリックの方へと大きな口を開けて迫ってきた。
「ぎゃあああーっ!」
リックは驚きのあまり絶叫して、そのまま後ろにひっくり返った。ゴンと鈍い音がした。
「お、おいリック」
ジッポは白目をむいているリックの頬を叩いた。
「……参ったな、気絶してる」
ピアスだらけの右耳の後ろを掻きながら「ちょっとリック坊やには刺激が強かったかしら」とジッポは困った顔で笑った。
「ぅうーん……あれっ?」
リックは目を覚ました。
目をこすりながら、正面に見えるものを凝視する――見慣れた自分の部屋の天井が見える。
「あらリック、起きたのね」
母親の声に、リックはベッドから起き上がった。
「ジッポ君がここまで運んで下さったのよ。優しい子ね、それに、行儀の良い男の子だったわ」
「……嘘だ、あんなやつ」
「会った時にちゃんとお礼を言うのよリック。飲み物ここに置いておくから」
母親はグラスに入ったスウィートティをテーブルに置いた。
「それにしてもリック。あなたいつ耳にピアスを空けたの? ジッポ君を真似したいのはわかるけど、まだあなたは子供なんだから」
「へっ?」
「夕ご飯できているから、食べたくなったらいらっしゃい」
そう言って、母親は部屋を出ていった。
リックは母親の残した言葉に、ふと疑問を感じた。
「耳に、ピアス? ……え、ええーっ!?」
ベッドから飛び出すと、リックは机の引き出しから鏡を引っ張り出した。
「あーっ! お、俺の左耳に穴が空いてるーっ!? 何で、何で……」
驚きのあまり、リックはしばらく沈黙した。左耳に、ジッポが耳につけていたのと同じようなピアスが輝いている。
リックは腹立たしくなって、ピアスを引っ張った。耳を取ってしまいたくってしょうがない。
「ジッポの、あほぉ」
左耳から少し、血が出ていた。
「こんなものっ」
リックは耳から乱暴にピアスを取り払った。
しばらくの間、リックは黙ったまま、ただ両手をギュッと握りしめていた。歯を食いしばって怒りを我慢していたようだったが、ふと何か思い立ったような顔つきになって、自分の部屋から出た。
「あらリック、もう食べる?」
野イチゴのジャムを作っていた母親が、鍋に火をかけながらこちらを見つめていた。
「母さん、ジッポの家って、森の近くにある空き家になってたところ?」
「ええそうよ、そう仰っていたわ」
それを聞くなり、リックは家を出ようと扉に手をかけた。
「息子よ、夕食は食べないのか?」
父親に「帰ったら食べる」とだけ言うと、リックは家を飛び出した。
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