【quartz番外編】ありがとうって、言わないぜ 1
二本の足で歩く猫たちが暮らす世界。
この世界は白い竜“イージス”によって守られているのだと、信じられている。
今も昔も、変わらずに。
たとえ、叶えられなかった願い事があったとしても。
気まぐれな猫が多いように、
明るい笑顔の下にはいつだって、忘れたくても、忘れられない過去がある。
今、ちょうど角を曲がって、灰色の石畳の上を、腕をふりふり歩いてくる猫もそうだ。
顔の左上だけ茶色をしていて、あとは白っぽい毛並み。ピアスのついた左耳を、今ゴシゴシと
一見、彼を見た猫たちは、いつも笑顔でふざけさえする彼の中に、辛い過去があるなんて思わない。
でも、タルトの街に住む猫たちは良く知っている。彼が昔、今の彼からは想像できないような姿で、この街にやってきた時の事を。
「腹減ったぜ」
お腹をさすりながら、彼、リック・ゴードンは酒場へと入っていった。
-ディーンの酒場-
キュウウと扉が音を立てた。
入り口付近に座っていたお客の一匹が、リックに気がついて片手を挙げる。リックもそれに応えて、軽く挨拶を返した。
「いらっしゃい、あらリック」
使用済みの食器を片づけていた女の子が声を掛けてきた。この店の看板娘、ミリルだ。
「レッドティー頼むよ、それと“ねずみのからあげ”お願いね」
そう言うと、リックはカウンター席へと歩いた。
夕暮れ時のディーンの酒場は、半分ほど席が埋まってはいたが静かだった。
今日のお客たちは、どうもぼそぼそと話し合い、ちびちび酒を飲むのが好きな者が多いようだ。
背負っていた弓と矢筒を置きながら、リックは椅子に座った。ちょうど座った時、ミリルが厨房の奥から現れた。
リックの前に、レッドティー入りのグラスが置かれる。
「ありがとう」
右手でグラスを取ると、氷の入ったレッドティーを一口飲んだ。そんなリックを、ミリルはカウンター越しに、黒い瞳で見つめている。
「……ん?」
グラスを置いて、リックも見つめ返した。
「夕方にここへ来るなんて、珍しいわね」
「いつ見ても、ミリルちゃんは可愛いなぁ」
先ほどまでの締まった顔はどこへやら、リックは「でへへ」とにやけた顔だ。
ミリルはというと「そうかしら」と言って笑っていた。
「何だか夕方のミリルちゃんって、色っぽく見えちゃうな。俺より年下だってのに」
ふたりの間に、割って入るように太い腕が現れたかと思うと、コトンとお皿が置かれた。
「ご注文のねずみの唐揚げだ」
振り返ると、エプロン姿の雄猫が立っていた。この酒場の主猫、ミリルの父親だ。
彼はこの店の外観と同じ、泡だった波をイメージしたフリル付きのエプロンを違和感なく着こなしている。
口調は厳しいが、その顔は柔和な性格を
「へへへ。ミリルちゃんに会うついでに、世界で一番旨い“ねずみのからあげ”を食べられるこの店は最高だぜ
リックは
それに思わず顔が
レッドティーを飲みながら、リックはしばらくの間、ミリルと話をした。
最近武器屋のおじさんに、可愛らしい奥さんができたという話だ。
「――いらっしゃいませ」
話の途中、店に新しい客がひとり入ってきた。
リックから二席離れた場所に、その客は腰掛ける。
「とびきり強い酒を頼む」
リックはレッドティーを飲むふりをしながら、横目でその客を観察した。
何だかわけありそうなお客である。
その雄猫は、耳にジャラジャラと音が鳴るほどのピアスをつけていた。注文の品を待てないのか、落ち着き無くコツコツとテーブルを叩いている。
テーブルを叩くその指にも、耳のピアス同様、青や緑色の石が
黄色い毛並みに、赤みがかった茶縞の入った毛色は、リックの記憶にある誰かに似ている気がする。
「あっ」
急にその猫が声を出し、リックは思わずピクリと
「おい、注文の酒まだきてないぞ!」
思わずそう言ったリックに、
「君が代わりに飲んでくれ」
雄猫は服からイージス札を一枚、1000キャットをテーブルに置くと――店を飛び出していってしまった。
「あら、リックここにいたお客さんは?」
注文の酒を持ったミリルが、首を傾げている。
「それ、俺にくれ」
その言葉にミリルが何か言いかけた時、お店の扉開いて、新しいお客が入ってきた。ミリルはお酒をのせたお盆をカウンターの端に置いた。
「ごめんなさい、少し待ってて」
ミリルの後ろ姿を見届けると、リックはお盆にのせられたあの猫の酒を手に取った。
薄茶をしたそのお酒は、リックの記憶の中にある、誰かのヘーゼル色の瞳と同じ色。それをグイッと飲み干したい衝動にかられて、口に含んでみた。
「うぅ、美味しくない」
そう言いながらも、もう一口飲んでみる。もわんとした、まどろっこしい味が口から鼻に広がっていく。
「……まるでアイツみたいだな」
一通りの接客を終えてミリルが戻ってきたのは、リックがねずみの唐揚げを全て平らげて、お酒をゆっくりと半分ほど飲んだ後だった。
「続けざまにお客さんが来ちゃって、ごめんねリック」
「……うん」
いつもと違う静かな声音に、ミリルは
「どうしたのリック。具合が、悪いの?」
そう言いながらリックの手元にあるものに目をとめて、小さな悲鳴をあげた。
「まさかそのお酒、飲んじゃったの……? とても強いお酒なのよ!」
リックの耳に、ミリルの声がギィーンと響いた。大丈夫、と言おうとしたが、上手く舌が回らない。
目の前がまるで波のように揺れ、可愛いミリルの顔が
立ちあがろうとしたが、リックは椅子に座ったまま、仰向けにひっくり返った。
「頭が、痛い……」
リックは頭を押さえながら、重たく感じる
***
「おい、おい大丈夫か」
誰かがリックの体を揺すっている。
「やめてくれ、頭が、頭が痛いんだ」
リックはそう言って、ゆっくりと目を開けた。
耳や毛並みを優しく
「おい!」
リックは目の前にあったその雄猫の顔を、手で思いっきり除け飛ばした。
「冗談じゃないぞ、可愛い女の子ならまだしも。男の顔して俺に近づくんじゃねぇ! あぁ、びっくりした……目覚めが悪いったらありゃしない」
リックは首を横にぶんぶん振って相手を見やった。
「こっちこそ冗談じゃない。初対面の相手に向かって、しかも助けた恩猫だぞ」
そう言って、その猫は立ち上がった。
歳は15、6だろうか、きっとリックより年上だろう。
その猫は不機嫌そうに目を細めて言った。
「俺の名前は“ジッポ・ヘッジス”。お前の名前、なんて言うんだよ」
「しっぽへんです? ……聞いたことねぇな」
「ジッポ・ヘッジスだ! ヘッジス! 頭打ってどうかしたか? ったく、それよりお前の名前は何なんだよ」
そう言いながら、ジッポは
「俺はリック・ゴードン。この街〈グリント・スコーン〉いちイイ男だ、覚えておけ」
「鼻血出しながら言う言葉じゃないと思うぜ、リック」
「鼻血だって!?」
驚いて鼻の下を
それを受け取ったリックは、顔を
「これ、汚くねぇか」
「まぁね、俺の愛用品だもの」
リックはぶつふつ言いつつも、服を探ったがハンカチがなかったので、渋々ジッポの投げた布きれを使う事にした。
ジッポはリックに近づくと、その場に腰を下ろした。
リックは鼻を指で摘みながら言った。
「見ねぇかぉだよな、じんぃりが?」
「あぁ、今日ここに来たんだ。ちっぽけでつまらなさそうな街だけど、女の子は可愛いし、まぁいっかなぁって」
ジッポはそう言うと、背負っていた物を地面に置いた。
弓と矢筒だ。
「弓、使えるか?」
ジッポが聞く。何だか挑戦的な目で、リックを見つめていた。
リックは先ほどからのジッポの態度が、無性に気にくわなかった。どうにかこいつを負かしてやりたい気分が、腹の底からこみ上げる。
「ああ使えるぜ」
三日前に親父に教わったばかりなのに、さも上手いかのような口振りで答えた。
「リック、歳は幾つだ」
「じゅ、12」
突然歳を聞かれて、リックはどもってしまった。
「俺もだ」
「うそっ!?」
「……嘘、本当は15歳」
ジッポはきゃっきゃと笑った。まるで猿みたいな笑い声だ。笑うと、ジッポは先ほどまでとは違った子供っぽい表情になった。
おとなぶっていただけだと知って、不思議とリックはジッポに対しての嫌悪感が少しなくなった。本当は見かけだけで、子供っぽいやつなのかもしれない。
「明日、またここで会おうぜ」
ジッポはそう言うと立ち上がった。
いつからここにいたのかわからないが、気がつけばもう夕暮れ時だった。
「家帰ったら、頭冷やせよ。お前急に木の上から落ちてきたんだから。……ゴロゴロと坂道を転がっているのを、俺が止めてやったんだぜ」
ジッポはヘーゼル色の目でリックを見下ろした。
狩りに適した軽装の服。全体的に黄色い毛色だが、赤茶の縞が入った毛並み。
両耳には幾つもピアスがついていて、良い猫と形容するのにはほど遠い容姿をしていた。その時になって、リックはジッポの姿をまじまじと見た気がする。
隣に座っていた時は圧迫感なんてものは無かったのに、こうしてみると、自分より年上の猫が
「あ、これ」
そう言って、急に恐れた様子になったリックは、鼻をぬすくっていた布きれをジッポに突き渡した。
「あぁそうだったな。でもいいや、明日洗って返してくれよ」
ジッポは受け取らず、布きれを持ったままのリックの手を押し戻した。
そして、口を開こうとしたリックを制するように言う。
「お礼は明日でいいぜ……じゃあな、また明日だ」
二本指を額にあて、敬礼のようなものをリックに寄越すと、ジッポは風のようにその場を去っていった。
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