第8話 「病理」

【1】


 蒸気とともにポットから音が鳴り、湯が沸いたことを知らせる。

 茶葉を浸し、色がついたところで二つのカップに移し入れる。

 それから紅茶に口をつける。


「……あったかい」


 泣き腫らした後だからか、目元がじりじり痛い。


「そんな目元を腫らしたクラウ、初めて見たかも」


 そう言ってソレラが笑った。


「それでさ……クラウが魔女だから、生きる時間が違う、って話だけどさ」

「うん……」

「これからも、あなたが大きくなるまで一緒にいたら……

 その後、あなたのいない人生が来るのが怖い。

 そして、いつかあなたの記憶が薄れてしまって、消えかかってしまうとしたら……それはもっと怖い。

 きっと、自分を許せなくなる」


 そばにいることで、感情がこのままどんどん肥大化していくと、その苦しみは比例して大きくなっていくだろう。それが嫌なのだ。


「わたしも怖い。先に死んじゃうのも怖いし、あなたを一人残しちゃうのも嫌だ。」


 けどね、とソレラは付け加える。


「それって、どんな人間にも訪れることだと思うの。

 そして多分、そういうことを乗り越えなきゃいけない……」

「だから……色んなものを支えにして、生きていく……」

「生きる理由って、やっぱり、一つだけじゃないと思う。

 大小はあるかもしれないけれど……

 一番大切なものがなくなったとしても、次の大切を見つけちゃダメなんて決まりは、どこにもないんだよ。


 ……忘れろなんて言わない。

 わたし、そんなに聞き分けの良い子じゃないから。

 けど、代わりに沢山の生きる理由を見つけていいんだよ。

 わたしが居なくなった後も」


 それはあなたを裏切る行為ではないか、なんて余計なことを考えてしまう。

 けれどきっと違うのだ。

 思い出を抱えることは大事だけど、全ての思い出を抱え続けることはあるべき姿ではない。


「会えなくなったからって、大切が消えるわけじゃないんだね」

「うん、寂しいかもしれないけどね。

 でも、思い出はきっと、生きる糧になるはずだよ。

 そうじゃないと生きられないし、そういうふうにして生きているんだと思う、人って……」


 感情は全てそのままの濃度で残さなくても良い。

 時には忘れてしまうことも仕方がない。

 

 だが、それできっと大丈夫なのだ。

 ひとかけらの残滓だけでも残っていれば、決して失われることはないのだから。


「けど、私にできるかわからない……

 だって、やっぱり私は魔女だから、普通の人とは違うから。

 だから、これ以上誰かと繋がることなんて、できないかもしれないと思ってしまう……」


 そんな不安を、ソレラは笑って否定する。


「ううん、それでもきっと関われるよ」

「どうしてそう思うの」

「だって、今のクラウのまわりにいるのは、わたし一人じゃないから。

 アレシオさんとも繋がれたし、ミーアとだって、きっとわかりあえる」

「そう……私、アレシオさんと繋がれたのかな」

「うん、そうやって人と関わることができる。わたしとは別の大切も、いつか見つかるんだよ」


 思い返すと、はるか昔のあの日、私にはたった一人の友達だけが生きる理由だった。

 けれど、彼女とは二度と出会えなくなった。

 つまり、私は一度、生きる意味というものを失ってしまったのだ。


 けれど、遠い時が流れて、今再び生きる意味を見出している。

 そして、友人の記憶が消えたわけじゃない。


 会えるはずがない。

 彼女に謝れなかった後悔は永遠に消えない。


 けれど、私がいる限り、彼女は私の中で生き続けてる。

 生きるために忘れることもあって、けれど、決して忘れられないものもある。


「そうだね、そうやって、生きていくんだね……生きてきたんだね、私」

「そうだよ。人間の拠り所が、たった一つじゃないこと。

 それはとても悲しいけれど、同じ時を生きられないわたしたちが、それでも生きるためには大切なことだから。

 当たり前のことだったのかもしれないけれど、もう一度、それを決意しなきゃいけない。


 そうする決意ができたらさ……わたしたち、きっと大丈夫だと思う。

 魔女だとか、偽りの姉妹だとか、そんなこと関係ない。きっと、大丈夫」


 優しさの中に、強い意志を持って語りかける。


 いつからソレラはこんなに強い子だったのだろう。


 初めからそうだったのかもしれないと思った。

 そうだ、彼女は出会った時から、ボロボロの格好をして、それでも笑っていた。

 あんな境遇で、それでも私に笑顔を向けてくれた。

 それは私にはできなかったことだ。

 この子は初めから、とても強い子だった。


 でも、もっと強くなった。

 沢山の出会いが、彼女を成長させた。

 理不尽も優しさも全部抱えて、抱え続けて、彼女は強くなっていった。


 それに比べて、私はとても弱い人だ。

 姉なのに、何十倍、何百倍も長く生きているのに、とても弱い。

 それでも、今日くらいは。

 彼女と一緒に、必死に生きたことを、褒めても良いだろうか?


 その報酬として、あと少しだけ、ここに居ることを許しては貰えないだろうか?


「ごめんね、ソレラ。こんなダメなお姉ちゃんだけど……

 お姉ちゃんですら、なかったのかもしれないけど……

 それでも私は、あなたと一緒に居たい……」

「うん」

「嘘をつき続けて、罪悪感で押しつぶされそうになって、それでも、あなたと生きていきたいの……」

「うん」

「まだ、償いきれていないけれど……

 とても長い時間がかかるだろうけれど、それでも……

 嘘を抱えたまま、生きていて良いのかな……」


「うん、きっと大丈夫だよ。一緒に頑張ろうね、お姉ちゃん……」


 二人、手を合わせる。

 小さいころ、ソレラを褒めてあげたあの日のように。


「……ありがとう、私はもう、大丈夫。

 きっと、一人になっても、他の人と交わっても……その先も生きていける」


 ああ、神様。

 あなたのことが大嫌いでした。


 永遠の命なんて、何も成し得ない私にとっては無用の長物だ。

 そう思って、恨んでいました。


 けれど、この愛おしい妹と出会えたこと。

 たった一人の家族と出会えたこと。


 少なくともそれだけは、とても感謝しています。


 こんな仕打ちをしなくてもって、今も思うけれど。


 それでも、今日までの長い長い私の人生が、

 この瞬間のためにあったのなら。

 意味はあったのかなって、思います。


【2】


 彼女のために、今日まで嘘をつき続けてきたこと。

 それは罪だということはわかっています。

 そして、もっと上手くやれただろう、ということもわかっています。


 けれど、

 抱えてでも、生きていきたいのです。

 心から、そう思います。


【3】


 光が、窓から差し込んでいた。

 少し上を見上げる。

 決して良い天気ではないけれど、雲の切れ間から、わずかに光が漏れていた。


 空の先。

 ずっと向こう。

 どこまでも続く、神様の場所に向かって叫んだ。

 泣き疲れて枯れた声だった。

 それでも、精一杯を口にした。


「私は……っ! 生きていく!

 苦しい過去があっても、この幸せには終わりがあるとわかっていても!

 この出会いには別れがあるとわかっていても!

 もう、屈したりはしない!

 自分の運命を呪っても、自分の行動を悔いても、歩みを止めたりはしない!


 一生消えない罪も、二度と会えない人との記憶も、全部抱えて前に進む!


 そしていつか、私が死んで、あなたに会った時、こう言ってやる……!

 ずっと、正しい人生じゃなくても、間違いだらけでも!

 それでも、生きててよかったとに言えるように、必死に生きていく!」


【4】


 やっと言えた。

 それでも生きてやる、ということを。

 ただ、それだけを。


「…………良かった」


 本当に良かった。

 心の中で何度も呟きながら、私はやっと、肩の力が抜けて……



「………………え?」


 それを口にした後、私の中に奇妙な感覚が訪れる。


 決して大きな違和感ではなかった。

 今までの自分であれば見逃していたような、小さな変化。

 けれど、今この時になって、それが自分にとっての答えであるという予感がした。


 思考がぐにゃりと歪んだような気がした。

 当然が、当然ではなかったと気付く感覚。

 そして、少しだけ前にした会話の記憶が呼び起こされる。


~~~~~~~~~~~~~~


「『魔女狩りは、物事を疑わなければならない。

 目に見えぬものを正すには、目に見えるものを疑う必要があるだろう』」


「もう一つは?」


「……『そして魔女は、自分自身を疑わなければならない。

 人が自分自身を簡単には知り得ないのと同じように、魔女も自身の病理を簡単に知り得ない』」

「……なんだか、意味を汲み取るのが難しいですね、こちらは」

「そうですね。それにこれは、魔女に向けての言葉ですから、どうして僕に伝えたのか」

「確かに。不思議です」


~~~~~~~~~~~~~~


【5】

「魔女も、自身の病理を知り得ない……」


 その言葉を反芻する。


 いったいいつから、私は自分の異常を知った気になっていたのだろう?


「…………ああ、つまり、彼が言っていたことって、もしかして」


 全てが繋がった感覚があった。


 自分が、人間に戻るために決断しなければならないこと。

 そして、あの人が考えていたこと。


「……ありがとう、ちゃんと、伝わりました」



【6】


 何かを予感したのか、ソレラは「クラウ」と私の名前を呼んだ。

 腰に手を回して包んだままの彼女の身体を、私はもう一度抱きしめる。


「あのね……」

「なに?」

「私、たぶん、あとちょっとだけやることがあるんだ」

「そっか」


 ソレラはただ頷く。


「待っててくれる?

 終わったら……二人でゆっくり、これからのことについて話そう」


 今なら分かる気がする。

 あの二人が自分に求めたものがなんだったのかを。


 彼らが、ただ自分たちの身を犠牲にすればよい、なんて事を考えるだろうか。

 事実を隠し、全てを穏やかに解決させ、姉妹の平穏を求めるだけだろうか。


 違う。

 そうだけど、そうではない。


 アレシオという青年の優しさは、そんな虚構の温情ではない。

 彼はいつだって、不器用だけど、誰かの心からの幸せを願っている。


 やはり彼は、初めから全てがわかっていたのだろうか?

 私のことを知っていて、どういう行動をとるのかわかっていて、それで……


 そんなことを推測していても仕方がない。

 考えるよりも先に、答え合わせをしに行こう。

 そして、私は贖罪をしなければならない。


「うん、待ってる。大丈夫だよ……」


 いつまでも待っているから、そう言ってソレラは手を緩め、私から離れる。


「あのね、わたしもね、今になって言うことじゃないかもしれないけど……

 ちょっと矛盾しちゃってるけど……」

「なに?」

「ああは言ったけど、『お姉ちゃん』って呼ぶの、少しだけ憧れだったんだ。

 照れ臭くて言えなかったけど……」

「……ふふ」


 頭を撫でる。

 もう、とソレラが照れくさそうにはにかむ。


「帰ったらさ……」

「ん?」

「ご飯、作っておくからさ、一緒に食べようね」

「あなた、料理は得意じゃなかったでしょう?」


 だからいつも私が作っていたのに。


「んーん、いつの話をしてるのかな?」

「……数年前?」


 ちっちっ、とソレラが指を横に振る。


「わたしだって、成長してるんだよ。今に見ててよ」


 自信ありげに微笑む。


「……そうだったね。数年前のあなたと今のあなたは、全然違うもんね」


 そうだった。

 たった数年の間にたくさん成長していくあなたを見て、私はそう思えたんだ。


 貰ってばかりだな、と思う。

 あなたは私に救われた、と言ってくれたけれど。

 やっぱり私は、あなたに救われている。ずっと、そして今日も。


 ううん、ソレラだけじゃない。

 たくさんの人に貰ってばかりだ。



 ありがとう。

 あなた達の言う『魔女狩り』を終わらせよう。

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