6話/序説


 ベルベット、そんな訳はなかった。これはベルベットではない。

 ベッド、そんな訳も無かった。これはベッドではない。


 彼女を押し倒したのは安い化学繊維でツルツルとした、色味も少し褪せた真紅クリムゾン、吸音効果もそう期待できないソファの上であり、さっきの体勢のままだったので互いの足が居場所を邪魔してしまっていた。僕はゆっくりと片膝を上げ、もう一方はそのままにしておいた。


「先輩。わたし勘違いしてた」

 唐突に頭に誰かが立て籠もる、僕が彼女の腕に手をかける前、何となくだが少し長めに体温を感じてから、唇を離した途端に押し倒してしまうという暴挙に出る前、彼女は確かにそう言った。深く意味を考えることは無い言葉、好意を伝えるだけの言葉。『勘違い』だった?勘違いとは、行き違いという事だろうか?


 自分の脳ミソを、考えるための皺から只のオーガズマトンorgasmatronに改革するための努力はしていた。シナプスが送る電気信号をそのまま装置に委ねるだけだ、だけれど脳は残った余剰スペースだけで恐ろしい現実を覗いていた、ほんの小さな窓だったのに。

 彼女の身体を覆う、そして当然のことだが、物理学の勉強を始めなければならない。僕は男であり、それだけの待て余した力を注いだ。作用と反作用の法則はつまり、完璧な球体から削り出した彼女にも適用される。だからこの反発が起こることを僕は知っている、一方では計算から外れるのを嫌った。こう言ってやるべきだったのだ。

 ああ心配しないで。蛙が跳ねても、それは僕らがおどかした訳じゃない。


 渦を見ている、水の渦。水以外であって欲しくない。ひとまず取り戻すべきだ、落としたものを拾うだけで完了。そしてすぐさま僕の脳は現実の窓の外を見た。美術館のように白い陶器が並んだ部屋、慣習的にはトイレと呼び習わす。

 部屋に戻る、もちろん誰もいない。だがそれは部屋に入る前から分かっていた。部屋の照明が一段階下がっていたからだ。

 ところで、一つだけ氷枕を見つけることが出来るだろう。心が落ち着くには足りない、ただひんやりした一筋が身体を流れるだけ。落ちていたソレを裏返す、知った名前がそこにあった。


 さあ、何を食べて帰ろう?

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