負け犬の遠吠え

千明律

限りなく善良な悪魔が嘯いている……

 小学校だったか。

 児童文学の隣に紛れた厨二臭い四字熟語に目を惹かれて、お前は太宰治の『人間失格』を手に取った。

 子供の価値観に『恥の多い生涯を送ってきました』は衝撃的だった。

 衝撃的すぎて、物語の本筋に迫る前に本棚にしまったな。

 その日からお前は背伸びして、大人の思考を繕った。


 読書感想文じゃ課題図書を全スルーして、埃を被った陰気臭い本を読んだな。

 『努力賞』を貰えて増長したお前は、使えもしない語彙を増やしていった。

 支離滅裂な横文字を羅列するビジネスマンよろしくな。

 まぁ、後に本物に打ちのめされるわけだ。

 子供なら子供らしく素直で扱い易くて律儀な良い子を繕えば済む話なのに、お前はそれをしなかった。本当の大人なら、出来る筈だ。

 結果、現実と創作の分別もつかない子供が胸糞悪い創作世界に浸ろうとする。

 でも、カッコよかったんだろう?

 

 そういやお前、サッカーもやってたな。

 小学校に上がったと同時にクラブチームに入れられて、お遊びの玉蹴りから戦略性を伴ったスポーツに変わった。

 生存戦略だ、ネット上に膾炙している解説動画を漁って浅知恵を身につける。

 お前はたしかに試合中、良い位置にいる。なのにパスが貰えない。

 声を出さないし、脚元に収まらないからな。

 それを仲間のせいにした。上手な俺様を僻んでる、と。

 お前は幸いガタイが良かった。身体をぶつけて弾き飛ばすのは容易だった。

 そのフィジカルを買われたお前は前線に張り付いて、エースを見つけてパスを出す機構の一部に組み込まれた。

 チームは強かった。お前じゃない、本物がいたからな。

 サッカーは相手より多く点を取るスポーツだ。

 エースにボールを預けてさえいれば、スコアボードの数字が増えていく。

 お前は守備にも攻撃にも参加せず、突っ立って仲間の活躍を見てるだけ。

 貰えたのはストライカーって称号と一回きりのごっつぁんゴールだけ。

 貢献度は0に等しい。


 そんなこんなで高校生になったお前は堕落し、見事に馬鹿になった。

 正しく言えば、馬鹿加減が露呈した。元々お前は大馬鹿だった。

 お前が見下してた馬鹿どもは、純粋に無知だっただけだ。

 奴らは新しきを知って、お前は下から抜かれていく一方だ。


 まぁ、今はまだマシかもな。


 分かってる。「俺だって本気出せば」って言うんだろ?

 じゃあ溜まりに溜まったその負債は何だ?

 最終日に追い込みを掛けるか?

 大問一の問一から投げ出したお前が?

 傲慢だな。お前はとんでもなく自己愛とプライドが強い。

 自分が何よりも、金よりも女よりも可愛い。

 ニコチンよりも、首絞めセックスよりも。


 こんな言葉があるな。

 十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人。

 お前は神童から才子へ格下げされ、あと数年で只の人になる。

 せっかくだ、今のお前の現状にクローズアップしてみるか。


 ボランチがボールを持ったな。寄せが早い。後ろを向く。

 センターバックへのパスコースは切られてる。徹底しているな。

 頼れるはお前だけだ。ほら、ボールが来たぞ。


 あー、お前トラップが浮いたな。

 奪われて、決められて、はい戦犯。

 焦燥感に追い立てられる度にミスが連発する。誰も助けてくれない。

 紛れもない、お前の問題だからだ。

 お前の能力不足は誰もカバーできない。

 同様にお前も周りのせいにできない。

 できることと言えば、お前にパスを回さないことだけ。


 お前は一つ失敗をすると芋づる式に過去の黒歴史を引っ張ってくる。

 いつもそうだ。

 自分で自分の首を絞める脳の構造になってるんだ。異常性癖。

 そんなメカニズムが出来てしまってるのはお前がマゾヒストだからだ。

 だって、この孤独感は、疎外感は、お前が求めていたものだろう?


 「漫画なんか読まずに活字を読みなさい」

 お前は小学生への常套句に心酔し、自分は優等生だと信じて疑わない。

 拍手と表彰状さえあれば休み時間を読書で潰すことも厭わない。

 友人が懸命にボールを追う中、お前はエアコンの効いた部屋で黙々と活字を追っている。

 読書じゃない何かに、かけがえのない時間を台無しにしていたんだよ。

 梗概だけを把握して本を貸し借りすることに後ろめたささえ感じない。

 そう、万全を期して挑んだはずが、あっさりと負けた。


 図書委員会の貸出冊数ランキング。

 一位はまさに本の虫で、年間三桁冊はゆうに超えていた。

 三位に名を連ねたお前は、自分の名前をこそこそ消そうとしたよな。

 表彰台の崖っぷち。渇望してた紙切れは頂けたな、偉いじゃないか。

 先生から言われたのは、たしか「順位が全てじゃない」だったか?

 「読書に励む、勤勉な子です」って?

 その日からお前は本を読まなくなったけどな。


 トップからサイドバックに転向して、痛感したのはコートの広さだよな。

 かつてのお前は後ろだけを見ていた。狭い世界でのサッカー。

 対して仲間達は前線のお前にボールを供給しようと躍起になった。

 必死に凌いで凌いで、ボールを死に物狂いで運んだその先に。

 ポストプレーを試みるお前に、ボールを預けたらトラップミス。

 「あぁっ」つって情けない声は、確実にお前への怒りを募らせた。


 奴らの気持ちが分かってきた頃か?

 サッカーはチームスポーツだ。信頼失くして成り立たない。

 信頼を無くした奴は、コート上に要らないんだよ。

 先輩の引退試合、前半途中でベンチに下げられたよな。

 「ラッキー、休める」ってヘラヘラ笑ったよな。

 勘違いしているようだが、まぁなんだ、ダサすぎる。


 もう一度言おう。十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人。

 歳を重ねるとお前は鮮度を落としていく。逆説的に退化していく。

 かつて神童だったお前が残していった芽を摘んだのは紛れもなくお前だ。

 さぁ、お前はどうする? この引退試合に、お前のせいで負けたら?

 お前は動けない。パスが来ないからなす術がない。

 いや、自分から動こうとしない。失敗が怖い。

 スピードで抜き去られ、スタミナで走り負け、頼みの綱のフィジカルも通用しない。勝利への執念さえない。

 「チームの一員として頑張りたいです」

 その一言に嘘偽りは無かった。

 周りがどう思っているかは除いて。

 今はそれを考える余裕も、想像力もない。


 無情にも3回のホイッスルが鳴り響く。ゲームオーバーだ。

 仲間たちは泣いている。三年間ありがとう、ありがとう。

 お前は泣けない。早く帰りたい気持ちで胸が一杯だった。

 どのような時間配分で、誰に頼って課題を消化するかしか頭に無い。

 誰と通話して、どんな動画でオナニーをするか、それしか考えられない。

 やばい、やばい。数学と、英語と、古文と、地理と――。

 お前は常に後手を選ぶ。先行が有利だとしても。


 お前は口癖のように言っていたな。何者かになりたい。

 特別な存在になりたい。褒められたい。自信が欲しい。

 答えはお前がよく知っている。

 「なりたくない」が答えだ、そうだろう?

 

 この瞬間、お前は死んだのさ。


 実存は本質に先立つ。サルトルの言葉だ。

 お前が産まれた瞬間、お前は何者にも成れる権利を得た。

 将来的に人の役に立つことを託された。

 金銭的余裕を与えてくれた父。お腹を痛めて産んでくれた母。

 善良な両親、その子供の名前は『優仁』――お前のことだ。

 お前は今、何者にもなりたくないと言った。

 自由の刑に飽きたんだ。

 可愛い自分のプライドを何度もへし折ってきた、『本物』の所為で、なんて。

 だってよ、お前自身は何も悪いことをしてないもんな?


 輝かしい未来に、『今のお前』を見て嘲る『未来のお前』が映る。

 豪邸を取り壊すように、『未来のお前』が廃れていく。

 燦然と輝くはずだったそれが、可能性という光を失っていく。

 十分にそれを理解しているお前が行動に起こせないのはなぜか。


 夢へと続く幾千ものルートに脚を掛けて霜柱のように踏み潰して、脆弱な薄氷の上を歩くスリルと磐石な地面の上でステップを踏む安心感、そのギャップに興奮しているお前がいたからだ。

 夢へと勇み足になる自分が怖い。競争社会に曝される自分が可哀想だから。

 そして、自分を追い詰め続けた。同情心を煽って、慰めて欲しいから。

 存在が瓦解していくのが嬉しかった。失敗した言い訳を作りたかったから。


 瀬戸際に立たされた自分はいつだって悲劇のヒーローだもんな。

 お前は『悲劇的な自分』だけがどうしても可愛い。


 後に自分がそうなるはずの惨たらしい成れ果て―― ヤニカス、強姦魔、大量殺人鬼。そんな未来の自分には指を咥えて見ているだけだ。

 回避できたはずの可能性さえ、『可哀想な俺』のアクセサリーになっている。


 お前の見据えるビジョンは全てが曖昧だ。

 なりたくないものだけが明白で、なりたいものがない。

 具体的な行動は起こしたくない。

 周りがスタートを切る中、お前だけ念入りに、念入りに準備運動をしている。

 自分より何段階も優れている人間に、周回遅れでも追いつけると思っている。


 笑える。呆れを通り越して、惨めでさえある。

 

 お前はマゾヒストだ。自由を捨てて、何かに縛られたい。

 理想を願うばかり、蕁麻疹が出るほどに妄想の中毒となっている。

 心優しい主人の愛玩動物にされたい。リードと首輪を繋がれたい。

 カラフルな餌を貪って、水で薄めたミルクを飲んで、抱き締められたい。

 他人からの愛をエンジンに、一人で生きていけると錯覚していたい。

 

 本当は弱いのに、すぐ人を妬む。噛み付く。

 そのくせに牙が脆いから、すぐ折れる。

 負けるのが嫌だから、自分を誇示する。虚勢を張る。

 狼みたいに吠える。

 いや、狼は過大評価だな。負け犬だ。所詮は負け犬の遠吠えだ。

 規律を守れない、己の行動を律せない。

 一匹狼の振りをした負け犬なのさ。

 一人で生き抜く頑強さも狡賢さもないのにな。


 人生はそいつの行動によって形成される。現在進行形で何を成すか。

 決めるのはお前だ。生かすも殺すもお前の責任、それが自由の刑だ。


 優仁。神童から才子へ堕落したお前が、只の人としてもう一度堕落する日を、俺は待っている。


 ――そうでないなら、足掻け。走り回れ。天に向かって吠えろ。

 

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