(7)

 帰りが遅くなったことを綱矢に問い詰められた。

 噓を言うか、包み隠さず話すか逡巡した。噓を言ったところで誰も得はしないので素直に話すことにした。

 素直さを売りにしているわけではないけど、捻くれているわけでもない。

 綱矢は安心したようだ。

「おとこ遊び再開したんじゃないかと思った」何に安心したのかと思いきや、わたしが昔みたいに遊び呆けていると勘違いされたことに落胆する。そんなに信用がないのかしら、わたし。

 わたしを疑う前に貴方はどうなんですか?

 浮気をしているらしいじゃないですかと反抗に出ようか迷ったけれど、今ではないと判断して溜飲を下げた。

 綱矢が油断している時を狙う。このおとこは必ず隙を見せる。今の綱矢は浮気が露見していないと踏んでいるはず。それまでは泳がせておきつつ、否定が烏滸がましいと思わせる揃った証拠を提示する。わたしが欲しいのは自白と事実のみ。

「いまさらおとこと遊ぶはずないでしょ」呑気なもので綱矢はわたしの言葉を鵜呑みにした。扱いやすくなったというより、わたしが扱いやすいように五年の歳月を掛けて調教した、が、相応しい。おとこは調教次第でどうとでもなる、愚かな生物であることを身をもって知っている。上手く付き合いたいと思っている世の女性陣にアドバイスを授けるのであれば、そうね、イニシアチブを与えないこと。これだけで自分の思うとおりに運ばせられる。

 年齢関係なくね。

 但し、どれだけ手綱を握っていようと自ら外して浮気をすることもある。綱矢みたいにね。そうなっては仕方ないと諦観の意思を示すか、改めて手綱を握るか。後者は相当な覚悟がいると思って。

 わたしはどうなのかって?

 綱矢次第と言ったところかな。


 決定的な証拠を握るために美香に協力を仰いだ。ソーシャルメディアに関しては彼女に一任したほうが早い。浮気疑惑の発端は彼女だ。追跡能力が高いのはどう見てもわたしではなく美香だ。

 美香は先輩の仰せのままにと言った。

 エリザベス女王になった気分だ。

 わたしがするべきことはと言うと綱矢の観察。些細な変化を見逃さない。服装の好みであったり、香水、アクセサリー、音楽。浮気しているのであればこういうところに変化が見られる。隠すのが上手なおとこもいるが、襤褸は出やすい。付き合っている深度に寄与するので、すぐに指摘するのは良くない。

 人間は指摘されるとその部分を改善するからだ。それが浮気であればなおさら。

 意外や意外。綱矢は襤褸を出さなかった。わたしが気付いていない箇所があるのかもしれないと思い、隈無く観察したのだが、異状は認められなかった。

 美香からもこれと言って怪しい投稿はないと連絡が入った。

 試しに綱矢のソーシャルメディアをチェックしてみた。確かに怪しげな呟きは確認されない。旅行しただけで関係は築いていない? それだけで浮気を否定するのは尚早な気がする。

 勘違いですで終わることに越したことはない。本音を言えばそうであって欲しい。現実は甘くないのも知っている。五年ともなれば綻びが出はじめる年数。乗り越えられるか否かで今後の関係性が決まってくる。カップルとして成立するのは三年まで。それ以降は関係性を踏まえ、話し合いが必要になる。その話し合いを蔑ろにした場合、思ってもみない時期に誰が仕掛けたか判らないトラップに嵌り、亀裂が入ったり、悪化したり、果てには悪循環に陥る。

 そうならないためにも平素からのコミュニケートを重んじなければならない。軽視すれば往々の末路がその先に控えていることを肝に銘じてもらいたい。


 週末、綱矢は学生時代の友達と旅行に出掛けると前日に聞かされた。

 何も知らされていないわたしは綱矢を問い詰めてしまった。

「仕方ないだろっ。話が纏まったの昨日の夜だったんだから」とは綱矢の言い分。「信じてないな。じゃあ見てみろよ」

 投げやりにグループチャットの画面を見せてくる。

 綱矢の言うとおり、直前になって決まったようだ。疑って申し訳ない気持ちと交通整理ちゃんとしろという気持ちが綯い交ぜになる。

「言ってたとおりね」

「疾しいことがないって判ったろ」

「疑ってないよ」

「ソーシャルメディアを覗いてるだろ」綱矢は言った。「浮気でも疑ってるのか?」

「疑ってないよ」疑っている。しかしどうしてソーシャルメディアを見ていると知っているのだろう。覗いている人が可視化される機能など装備されていただろうか。わたしが疎いの知っていて、吹っ掛けていないだろうか。個人サイトの足跡ではないのだから、不特定多数の人間が覗いているのをカウント出来るはずがない。あるいはそういうアプリが存在するのだろうか。そうであれば油断していたのはわたしになる。

「本当に疑っていないな?」随分と慎重に聞いてくる。ここで問い詰めるべきか? いや、今ではない。それだけは判る。

「疑っていない」わたしは言った。「急に予定が決まったのを聞かされたから戸惑っただけ」

「もっと早く言えるはずだったんだけど、ひとりが出張と被るかもしれないと言い出すから、少し時間をくれと言われたんだ」綱矢はスクロールしてその時に交わした会話を見せてくれる。確かにひとりが日程と被るからかもしれないからギリギリになるかもしれないと送信している。噓ではなかったようだ。

 しかし綱矢の一連の行動に違和感を覚えるのは何もわたしだけではないだろう。

 今までどのような会話をしているか画面を見せてくれたことはない。それまでにしなかった行動をいきなりし出すのは、黄色信号と判断して良さげだが果たしてどうだろう。疑われないためにそうしていると言われてしまえばそれまでだが、疑われるようなことを最初からしなければいいわけでと自分の行動を棚を上げる。

「それなら仕様がないね」わたしは判った振りをする。綱矢は笑顔で画面を切り替える。その一瞬に知らない名前がいちばん上にピンで固定されているのが見えた。

 チラッと見えただけだから確実と言えないけれど、モモコ。


 モモコ。


 浮気相手の名前だろうか。


 美香に連絡をした。

 返信はすぐに来た。

 ビンゴだった。

 綱矢の浮気相手の名前はモモコで間違いないようだった。ソーシャルメディアのアカウント名がカタカナでモモコだった。裏付けが取れた。あとは本人に問い詰めるだけ。材料は揃いつつある。残すは何時実行するかだ。

 最適なタイミングで最良のタイミングで証拠を提示する。そして問い詰める。

 綱矢がゲロってくれるか判ったものではないけれど、言い訳しようものなら、言い訳が恥ずかしくなるほどとことんまで追い詰めるまで。巷で言うところの論破という奴だ。

 使いたくない単語だ。

 だって、ダサくない?

 忖度も同様に使い辛い。世間で悪目立ちしてしまった言葉を使うのに気が引けてしまう。こうやって言葉は廃って行くのだろうなとあらぬ想像をしてしまう。

 美香から電話が掛かって来た。

「もしもしどうしたの」

「先輩お時間いいですか」

「いいからこうして貴女の電話に出ているんだけど」可笑しなことを言う後輩だ。

「外に出て来られますか」神妙に言う美香に疑念を抱く。心なし、声がいつもより低く感じる。電話越しだからではなく。「会って話したほうが良いような気がして」

「モモコのことで」

「察しが早くて助かります。いつもの喫茶店でいいですか?」美香は言う。

「もういるのね」わたしは言う。彼女がそういう場合はもう店内にいる証左だ。

「理解力が早くて本当に助かります」美香は言う。「瑠璃元さんもいます」

 どうして藤見が……?

「遊んでるの?」

「そんなわけないじゃないですか」美香は反論する。「店の前で阿呆面で平和そうな顔をしている彼女と遭遇してしまったんです。会いたくありませんでしたけど、声を掛けないのも失礼に当たるじゃないですか。ですから、話し掛けたんです。そうしたら、嬉しそうな顔で近付いて来て、今に到ります」

 こと細かに説明してくれるのは有り難いけど、何だかんだで美香も藤見に出会えて嬉しかったようだ。ステレオタイプと化してしまった所謂ツンデレという奴で現代風に言えば逆張りになるのかしら? 古来より使われている天邪鬼が正当か?

「仲良さそうで安心した」

「気持ち悪いこと言わないでください。それより早く来てください」

「判りました」


 時間が惜しかったので車で移動することにした。

 お店の近くで停めてもらう。

 店内に這入ると美香がこっちですと手を振る。すると、藤見がナポリタンを頬張っている間抜けな姿を見せてくれる。愛らしいなと感じるのは彼女の為せる愛嬌故だ。

「早かったですね。車、使いましたね」

「いいでしょ、別に」

「急かしたの私ですから。大目に見ましょう」上から目線が鼻につくが先輩としてそれこそ大目に見るとしよう。

「呼び出した理由は何?」

「続報があります」

「続報? 事件でも取り扱ってるの?」ファスティングでもしていたのか、大盛りのナポリタンを美味しそうに頬張っている。正直、何を言っているか判らなかった。

「貴女は好きなだけ食べてていいわよ。食べたいのあれば好きに注文していいから」美香はメニュー表を藤見の眼前に置く。藤見は瞳を輝かせてメニュー表と敗者のいないにらめっこをはじめる。

「わたしに隠れてふたりで会っているでしょ」

「どうしてですか」美香はわたしを見る。視線が泳がないように我慢している感じに見えるけど、やや穿ちすぎかな。「扱いが上手くなっているからですか?」

「察しがいいじゃない。そのとおりよ」わたしは遠巻きにメニュー表を見る。視力が良いことに感謝したのはじめてかもしれない。

「注文しますか?」わたしの視線に気付いた美香は藤見からメニュー表を取り上げて、テーブル中央に置く。藤見はおしゃぶりを取り上げられた赤ん坊みたいにもの惜しむ顔をする。

「コーヒー飲みたいなと思って」

「コーヒーだけですか? コーヒーだけならいつも頼んでるんですから、空で注文してるじゃないですか、いつも」瘡蓋を剥がされるくらいに痛いところを突かれる。

「いきなり頭の良さを出してくるの狡いと思うんだよね」白旗を上げさせられる身になって欲しい。意地が悪いというか、ギャップを悪い意味で利用するのは本当に性質が悪い。「一瞬だけ見せてもらえる?」

「仕方ないですね。本当は厭ですけれど」厭なんだ。それはそれで傷付く。渋々、メニュー表を見せてくれる。感謝を伝えると素っ気ない態度を取られた。食い意地張ってるように見えるよ? 一秒も時間を惜しんでいられない。この店でいちばん美味しいと思っている、ハンバーグセットを注文する。

 藤見にメニュー表を返すと満面を笑みをうかべる。

「続報、お聞かせ願えるかしら?」視線を美香に移す。

「そのために呼びました」美香は頷く。「モモコの素性が判明しました」

「早いわね」わたしは感想を言う。

「朝飯前です。彼女は歌舞伎町で夜の蝶をしています。看板ではないようですけど、人気はそれなりにあるようです。源氏名は千代倉千代女で、ちよちよとお客さんから呼ばれています。アフターは頑として断るようです。常連さんから彼氏の有無を毎回聞かれることに鬱陶しく感じているようで、執拗に誘われるとキレるそうです」

「貴女のその情報収集能力は瞠るものがあるけど、今の職業に適していないように感じる」

「職に就くとはそういうものです。ネットに転がってるものを結び付けるだけですから、大した労苦ではありません。ですがこれがもし職業になってしまった場合、私は一ヶ月もせずに辞めると思います」美香は言った。「なかには趣味の延長で仕事にするかたもいますが、考えられません。仕方なく仕事をするのが人間だと思っています。仕事はしたくないものじゃないですか。未来のあるものではないですし、仕事しないと生きていけないから就業するだけで、心底から仕事に未来を感じている人は異常者ですよ」

 美香の視線はわたしではなく藤見に向けられた。メニュー表を眺めながらニヤついている彼女は美香の視線に気付いていない。気付いたとしても動じないだろう。

「すいません」美香は謝る。

「謝られても困るけどね」わたしは言う。「仕事観を聞けたのは良かったかな」

「若輩者の価値観など砂みたいなものですよ」美香は言う。「モモコはそれ以上に砂です」

「無理矢理絡めなくても」わたしは言う。店員が注文を聞きに来た。何時呼んだんだ。藤見はメニュー表を指差しながら音速で読み上げる。自動音声に聞こえる。彼女は一言一句聞き取れているのだろうか。涼しい顔をしているけれど、内心焦っていそうだ。顔に出にくいタイプなのかもしれない。藤見が言い終えると店員は注文の確認をする。自信がないのか声が小さく聞き取り辛い。藤見の顔色を伺いながら発話しているから呂律も回っていない。

「無理矢理ではありませんよ」そう言って美香は携帯の画面を見せて来た。そこにはモモコの呟きらしき文章が縦に並んでいる。「証拠は“これ”しか提示出来ないのがあれですけれど、少なくとも物的証拠にはなるはずです」

「弁護士らしい発言ね」わたしは言う。

「弁護士ですから」美香は胸を張る。「離婚専門の」

「そうだったわね」画面に視線を落とす。モモコの呟きは徹底して客の悪口とおとこ関連のものしか無かった。判りやすいくらいにおんなおんなしている呟きが散見された。キャバ嬢を職に選んだのも「おんな」という武器を遺憾無く発揮するためとストレートに書いている。何なら、プロフィール欄に書いている。堂々とし過ぎて目眩を引き起こしそうだった。彼女は男性を見下しているのだ。おとこは莫迦で簡単に落とせると思っている。実際に綱矢は落とされているので証明してしまっている。

 自分を情けないと思わないけれど、昔のわたしを見ているようで吐き気はする程度には彼女に嫌悪感を抱いている。

 口では昔みたいに戻って欲しく無かったようだけれど、腹の底ではおとこ遊びに精を出していたわたしが好みだったのだろう。うんざりする。まっとうになってしまったことで愛想を尽かされるとは想像だにしていなかった。

「このアカウント、裏垢?」

「そうです。本垢は眩しいくらいに輝いています。陰と陽の使い分けが上手いのではなく、人格の使い分けが上手なかただと思います。裏垢には芸能人を引っ掛けてやったと自慢げに語っていますし、本垢には俳優とベッドを共にしたことを嬉々として語っています。承認欲求の塊なのは容姿からも感じ取れますが、いずれ痛い目に遭う感じがひしひしとします」美香は見解を述べた。「個人的な意見としては別れたほうが良いと思います。このおんなのことですから、彼氏さんをただの制欲処理と金蔓としか見ていない感じがします」

「綱矢との関係に就いては言及していないのよね?」

「そうですね。写真を載せた程度ですけど、リプ欄は悲惨なことになってました」美香は当該呟きをタップし、リプライ欄を表示する。

 おぞましい返信が百件近くあった。そのどれもが設定されていない初期のものだ。中身は常連客と彼女に恋している愚かな成人男性だろう。

「無加工ではないから“素顔”ではないでしょう? 水面に映る自分の顔にうっとりしてしまうじゃないけどさ、感覚としてはそうでしょ?」

「自分ではない別人という解釈の仕方をするのではあればそうですね」美香は言う。

 食器と食器がまぐわう音が斜め前から聞こえてくると思ったら、藤見が注文した料理をフードファイターばりに食べている。喫茶店ではまず遭遇しない場面なだけに何処かに小型カメラでも仕掛けられているのではないかと勘繰ってしまう。

「でしょう」

「モモコに関する情報は以上となります」

「え、これだけ?」気の抜けた声を出してしまった。

「ええ、これだけです。彼氏さんとの関係を仄めかす呟きは残念ながら見付かりませんでした」美香は肩を落とす。「浮気と断定するのは難しいです」

「これだけの情報を聞くためだけにわたしは呼び出されたの? 緊急を醸し出していたのに? ただモモコが厭なおんなを聞かされただけじゃない」

「私の早とちりかもしれません。彼氏さんが浮気していないと証明したかった」

「別れたほうがいいと言ったの美香でしょう。意見を変えるのちがう気がするけど」

「それは……」

「氷柱下さんが浮気相手だったりするんじゃない?」藤見がピザを食べながら言う。

 何を言い出すかと思えばいちばん有り得ない。

 美香と綱矢は面識がない。

「私ではありませんよ」美香は即座に否定する。「言い掛かりは止めてください」

「それじゃあどうして飾磨さんの彼氏さんだと判別出来たんですか?」藤見は訊く。「だって、彼氏さんと面識ないんですよね? ないのであれば、当然、顔は知りませんよね? にも拘らず、飾磨さんの彼氏さんとどうして判ったんですか?」

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