(3)

 クラブからバーに場所を変えることになった。

 美香と瑠璃元姪の戯れ合いが落ち着いたのと、騒々しいクラブより大人な雰囲気のバーに移して、今一度飲み直すこととなった。

 飲み直すと言ったって、ネギくんを除いてアルコールが回り出しているのにさらにアルコールを注入するのはドーピングに似た背徳感を覚えなくもない。

 クラブから程近いところにわたしの行きつけの会員制のバーがある。半地下になっていて、扉の前で会員証を翳す。承認され、ロックが解錠される音がする。扉は自動で開き、面妖な空気感を漂わせる内部へ侵入する様はスパイ映画の一場面にそっくりだ。美香と瑠璃元姪はオーバーリアクションをして足を踏み入れる。

 ネギくんと飲む時は決まってここのバーとなっているからか、慣れたもので真顔でいるのが滑稽に映る。

 薄暗闇のロビーのすぐそばに階下に向かう階段がある。バーはこの階段を下りた先に存在する。著名人をたまに見掛けるくらいには有名のようだ。

 職場の先輩に誘われてこのバーを知った。落ち着いた雰囲気でクラシックが掛かっているのもいい。カウンター席以外に個室もある。著名人は個室を利用するので大抵は満席だ。一度だけ個室を利用したことがある。売れない俳優にナンパされて、先輩と飲んだだけなのだが、その俳優は自分に好意があると勘違いして、先輩を口説くも敢えなく玉砕。先輩は既婚者だしお嬢さんがいる。それに加え、旦那さんが年商百億の会社の社長をしているのでいくら顔が良かろうとスペックで負けているというか、色々負けている。

 その俳優はのちに大麻所持で逮捕された。恋人きっかけでドラッグに手を出したと報道されたが一日過ぎれば誰も憶えていない。続報も無ければ保釈されたことも一切報道されなかった。名前も顔も売れていない役者はそういうもののようだ。だからってわたしも彼がどうなったかは知らないし検索しても記事すら書かれていない。完全にあの人は今状態になっている。

 最近になって芸能活動を再開した話を先輩伝に聞いた。

 店内に這入る。きょうも盛況らしく、カウンター席はおろかテーブル席も人でごった返していた。

 マスターと目が合う。

「個室空いてるよ」

「誰も来てないんですか?」わたしは訊く。

「予約入ってたんだけど、キャンセルになったんだ」マスターは困った顔をする。

「何かあったんですか?」

「逮捕されたんだよ」マスターは言う。「二年前にナンパされただろう」

「あー、あの俳優さん」やらかしたのか、また。そう簡単にドラッグと縁を切るのは難しいのだな。「名前、なんでしたっけ?」

貝原佑かいばらたすく」マスターは言う。「この店でバイトしながら、再起掛けようと頑張っていたんだけどね。そうそう悪い付き合いを断ち切ることは出来ないんだね。バイトもクビにした、個室使っていいよ」

「使う気は起きないですね」わたしは肩を竦める。「もしかしたらその部屋でドラッグパーティが開催されていたかもしれないんですよね?」

「そうなるね」マスターは笑う。「この店から逮捕者が出るのは今にはじまったことではないから、いまさらだよ」

「まあそうですけど、個室失くしたらいいんじゃないですか?」わたしは提案する。摘発される前に芽は摘んでおいたほうが良いような気がするが、そういうわけには行かないのだろう、マスターは何も言わなかった。

「今度また来ます」マスターに告げて、わたしたちは店を辞去する。

 息苦しいわけでもなかったのに、外に出ただけで呼吸がしやすくなった気がした。それだけ息が詰まる環境にいたんだろうけど、今までどうしていたんだっけ?

 三人に悪いが現地解散したほうが後味が良い気がするが、瑠璃元姪が帰りたくなさそうな顔をするので、渋谷から中目黒に移動することになった。中目黒に瑠璃元姪の友人が経営する居酒屋があるそうなので彼女に頼んで連絡してもらい、席を確保してもらった。


 こぢんまりとした空間を想像していた。居酒屋というより雰囲気はダイニングバーに近い。ゆっくりと過ごせそうだ。店長の懇意で奥のボックス席を用意してもらった。持つべきものは知り合い。

「有難う」礼を述べると彼女は別にいいですよと満更でもなさそうな顔をする。

「お役に立てて良かったです」藤見は言った。「料理は事前にコースを頼んでおきましたので、お気にせずに、夜を徹しましょう」

「何時ですか。体内時計が狂ってる気がします」美香は嘆く。彼女はタイムスケジュールどおりに行動しないとすぐに狂ってしまう。意外にも繊細で元に戻すに一週間要する。

「零時前みたいですよ」手元の時計を見てネギくんは言う。あれ、この前は腕時計ではなくスマートウォッチを巻いていた。気分で変えているのだろうか。

「有難う御座います」美香はお礼の言葉を口にする。「変な面子ですね、こう見ますと」

「男性、根岸くんひとりだもんね」わたしは言う。「ハーレム状態だ」

「揶揄わないでくださいよ」ネギくんは微笑む。「皆さん、時間大丈夫ですか」

「大丈夫です。明日はお休みですので」美香は胸を張る。「先輩はお仕事ですが」

「え、そうなんですか?」ネギくんはわたしを見る。「じゃあ帰ったほうがいいんじゃ」

「仕事と言っても明日はリモートワークだから」本当のところは早く帰って、十分な睡眠を摂りたいが、彼氏の浮気が発覚したのもあり、そんな気分ではない。十時から海外のクライアントとの打ち合わせが組み込まれているのだが、どうでもいいわけではないけど、気乗りしないのが本音だ。

「リモートワーク導入されているんですね」藤見は言った。「私たちも半年前までリモートでしたけど」

「大変だったんじゃない?」

「そうでもないけど、マスクはまだ手放せないですね」ネギくんは言う。

「先生もいたんですか。そうならもっと別の料理をお出ししたのに」店長自ら料理を運んできてくれた。後ろからバイトのおんなの子が言ったじゃないですか、先生が来てますよと言う。店長は彼女を無視してテーブルに並べていく。

「先生呼びは止めて欲しいと何度も言っているじゃないですか」ネギくんは肩を竦める。

「呼びやすくていいじゃないですか。それになんでしたっけ、そのあれですよ、二重の意味が掛かってるみたいな言葉ありましたよね?」

「ダブルミーニングです、店長」バイトが言う。

葵菜きいなちゃんさ、俺のこと嫌いだよね?」店長は訊く。

「そんなわけないじゃないですか。お客様が厭がっているのにしつこくする奴はどうかしているなんて思わないですって」

「思ってるね? 思ってるよね⁉︎ それ」

「そんなのどうでもいいですから、お客様の邪魔です」彼女は営業スマイルを浮かべて、ごゆっくりと言って店長を引き摺って行った。

「知り合いと言っていたけど、どんな繋がりなの?」わたしは尋ねる。

「兄の友人です」藤見は話す。「子どもの頃から可愛がってもらってて。その縁で今もこうして仲良くして戴いているんです」

「お兄さんいたんだ」

「お兄さんもデザイナーしていますよね」

「昔ね。今は世界各地を渡り歩いてる、自称バックパッカー」

「デザイナーはしていないの?」

「そうです。のらりくらり生きるのが俺には合っているんだーとか抜かしてましたけど、デザインの仕事が厭になったんです。スタッフと折が合わなくなったのもあるみたいですけど、いちばんの理由は創造性が落ちてしまったことです」藤見はお皿に料理を取っていく。均等に盛り付けている。几帳面な性格をしているのだろうか。「本人はいいように言っていましたけど、要するに才能の底が見えたんです」

「そういうものなの?」ネギくんに尋ねる。畑はちがえど、クリエイティブの面に於いては一緒だろうと思って尋ねたのだけど彼の反応は芳しいものではなかった。

「個人差かな」煮え切らないことを言う。「お兄さんの才能の天井が見えたんじゃなくて、創作意欲が落ちただけじゃないかな?」

「それ、おなじじゃないですか?」美香は指摘する。「底が見えるのとやる気を無くすのとでは」

「一緒ではないよ。付き合う前と付き合ったあとのテンション差と言えば、理解しやすいかな?」ネギくんは説明する。「目的と結果は異なるというだけなんだけど」

「付き合う前は本当に付き合えるか判らないから駆け引きなどをしてその方向へ持っていこうと相応の努力をするけど、付き合えた後はそれまでの努力をしなくなって、愛想尽かされるみたいな具合ですか?」藤見は話す。

「確かに付き合う前は試行回数を重ねてなんとか振り向いてもらおうと頑張りますね。いざ、付き合い出すと気の抜けたコーラになってしまいます」美香は言う。「気持ちを長続きさせるのは難しいものがあります」

 お互いの気持ちがすれちがったまま進行していくと、浮気をされたり、会う回数は極端に減り出し、自然消滅するなんてあたりまえにある。付き合う前は腹の探り合いで、本性を出したりしない。相手に好印象を与えるために本来の自分と真逆の人格で相手取るのだから当然なのだが、案外気付かない。結果が判明してから助走もなしに勢いだけで本性を見せてしまうと困惑してしまう。

 自分を見せるのは段階を踏まないとならない。友人関係だってそうだ。

 初対面でいきなりフランクに接して来る人に警戒心を覚えてしまうのと同義。

 晴れて恋人同士となったからって、殻を破って良いわけではない。何事にも節度は存在する。

「関係性が変わってくれば話は別のように、才能とひと括りにしてしまうのは簡単だけど、その言葉が時に相手を苦しめる」ネギくんはらしくなく語る。

「先輩は格好いいです」藤見はネギくんをまじまじと見詰める。心底から彼のことが好きなのが伝わってきて微笑ましい。けど、根岸十六夜の事情を知っている身としては素直に彼女の恋愛を応援するのは難しい。どれだけ彼に愛を注いだところで矢印は一生貴女に向くことはないのだから。

「この際ですから先生に訊いてみたらいいじゃないですか」美香は妙案を思いついたみたい顔をする。「この空間にはあたしたち四人しかいないのですから、言うなら今のうちだと思いますよ」

 瞳を爛々と輝かせて彼女は言う。

 余計なことを言いたいところだけれど御免ね、美香。この先生はわたしの事情を知っているのよ。

「浮気のことですよね?」簡単に言ってのけるな、このおとこ。お酒を酌み交わす仲とは言え、もう少し躊躇いを持てよ。それが出来るんだったらネギくんは藤見さんの矢印に気付いているでしょうし、わたしに事情を語ったりもしない。

「話したんですか?」美香はわたしを見る。好きな人を話したんだみたいな顔をしないで欲しい。友達に一度も好きな人の話をしたことないけれど。「何時ですか?」

「ふたりが茶番劇を繰り広げていた時ですね」ネギくんは水を飲む。クラブで消費したアルコールはもう霧散しているでしょう。いつもだったら飲み直すと言い出して度数の強いお酒を飲むのにきょうはどういった風の吹き回しだろう。

 平素より女性陣が多いからセーブしているのかしら?

 緊急を要する事態が起こった時のために。もしそう考えているなら実に心強いが普段からそうしてもらえるとわたしとしては有難い。

「秘め事をふたりの間で交わし合っていたんですか? 氷柱下さんの言うとおり、体の関係ありますよね」美香は怪訝な視線をわたしたちに向ける。

「絶対そうですよ! そうじゃないと私たちが遊んでいる合間に話したりしません」水を得た魚のように彼女は一気呵成に言う。味方を得た途端大きく出るのは人間の性かもしれない。「コソコソ話してたんですわ」

「厭らしいですわねぇ」美香と藤見は短い時間の同盟を結ぶ。どちらが先に破棄するか見物だ。

「何の話だ?」店長がまたもや料理を運んでくる。それに付き合わされる葵菜。バイトは入店した際に複数人いることは確認済み。店長のお気に入りなのだろうか。そうだとしたら、少し引くな。

「何でもないですよー」藤見は口吻を突き出す。「そんなに運んで来なくていいってー。葵菜さんを働かせ過ぎだよ。いくら奥さんだからって、使いっ走りみたいにするのはどうかと思うなー」

「奥さんなの?」

「そうです」葵菜は頷く。「変でしょうか?」

「変ではないけど、そうは見えなかったからさ。店長とバイトの関係だとばかり」

「飾磨さん、それは失言ですよ。そのふたり歴とした夫婦です。まあ確かに年齢は少しばかり離れていますけれど」藤見は言う。

 少しばかり? 彼女の発言に引っ掛かりを覚える。

「年齢差幾つなんですか?」わたしは尋ねる。

「十五離れているんです」葵菜は頬を赤らめて言う。赤くして言うことか?

「ね、離れてるでしょ」藤見は言う。ウィンクのおまけ付きと来たもんだ。得意げになると調子付く性質か。「何なら葵菜さん私より年下ですからね。びっくりだよ」

「大学生だからな」店長は食べ終えた皿を片付けながら新しい皿を順次並べて行く。この店、ワゴンはないのか。ファミレスに行くと配膳ロボットが席まで届けてくれたりするから便利になったなあとセンチメンタルな気分になるが、こうして人間が動いているのを見ると文字どおり人間味があっていいなとも思う。

 便利さを取るか人情を取るか難しい部分だが遠くない将来、配膳はおろか調理でさえもロボットに取って代わられるのだろう。

「バイトに手を出すなんてねえ、ふしだらにもほどがなーい?」藤見は言う。

「うるせえよ。兄貴に言っとけ、早く結婚しろってな」言い捨てて店長は葵菜さんと席を離れる。藤見は背中越しにあの人は結婚しないよというか出来ないよーと言って、戯けた表情で舌を出す。

「びっくりしたなぁ」

「私も最初は驚きましたけど、慣れましたよ」藤見は言う。「それより飾磨さんの浮気話を聞かせてくださいよ。先輩に話したんだから話せないはずないですよね」

「わかったよ」体内にアルコールを注いでからわたしは話した。ここでひとつだけ訂正しなければならない事柄がある。

 確かにわたしはネギくんに浮気された話をした。

 しかし肝腎の浮気話をしてなどいないということ。

 

 

 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る