41 栞
十七時の鐘の音が鳴り終わるのを待って、パソコンの電源を落とす。カウンターを出てドアに向かい〈閉室〉の札を下げて戻ると、津田は記録用紙をファイルに綴じていた。
施錠の前に室内を回って利用者が残っていないかチェックする。結局、今日の来室者は三人だった。その三人も本を返してすぐに出て行ったので、図書室に残っている者はいないはずだ。巡回はいつもなら真木の担当だけれど、今日はその相棒がいない。奥の書架はカウンターから死角になる。念のために端まで見て行くが、もちろん誰もいなかった。
片付けを終え、そろそろ帰ろうかというところで「そういえば」と津田が何かを差し出した。
「忘れるところでした。これを渡しておきます」
「なんです?」
鞄を持ち上げながら片手で受け取る。明るい紅色のそれは、見覚えのあるものだった。
「しおりです。本の間にはさんでありました。忘れ物だと思いますので、しばらくカウンターで保管して、持ち主が取りにきたら返してあげてください」
「……これ、もしかして辞書にはさまれてました?」
「ええ、国語辞典に。背が少し出ていたので、開いてみたらそれがありました」
津田の話に耳を傾けつつ、しおりを裏返す。
「高谷くんの私物でしたか?」
「いえ、俺じゃなくて」
たぶん真木のものですと答えようとした声が、喉の奥に引っかかった。
「何か?」
裏返したしおりをじっと見つめる俺に、津田がわずかに首を傾げる。ほんの少し気遣うような声に、慌ててなんでもないと手を振って見せた。
「俺、もう少し片付けてから帰ります。ポスターももうちょっと進めておきたいし。鍵は閉めておくんで、先生は先に出てください」
早口に伝える俺を一瞥した後、津田は眼鏡を押し上げて立ち上がった。
「そうですか。では、後は頼みます」
静かになった図書室で、しおりに目を落とす。わずかに灰色がかった明るい紅色のそれは、やはり真木が持っていたものだ。やわらかな和紙でできているしおりの片面には、うすい鉛筆で小さく文字が書かれていた。端が少しはねたような癖のある字は、間違いなく真木の手だ。
しおりにはこう書いてあった。
783.7 → IM
148.8 / 594 → SM
740 → MS・TK・RS
700 → TH・MI
070 → AS・SM
010 → TT・SM
763.2 → X
数字と矢印、そしてアルファベット。暗号のようなこれは、おそらく真木が残したものだ。
しおりを持つ指先に力が入る。気付けば呼吸が浅くなっていた。ため息をついて、それから大きく深呼吸をする。
カウンターの引き出しから記録用紙を綴じたファイルを取り出し、開く。一番上の用紙には今日の日付があった。堅物な津田の性格には不釣り合いなほどの、やわらかな字が並ぶ。
二〇一四年九月八日(月)
入館者三名 貸出〇冊 返却五冊 返却箱二十一冊
レファレンス〇件 遺失物一件
備考・忘れ物はカウンターで保管しています。
一枚ずつめくりながら、真木が残したしおりの文字について考える。このしおりは、たぶん忘れ物じゃない。津田は『国語辞典』としかいわなかったが、それはきっと『新明解国語辞典』の第七版だ。特に根拠があるわけじゃないけれど、妙に確信があった。
あの日、杉本が美術倉庫荒らしの犯人を探して図書室に乗り込んできた日。先週金曜、烏山高校開校記念日の前日、九月五日。
あの時、真木がカウンターに置いていった『新明解国語辞典』は、退室前に俺が書架へ片付けた。この一年で返本の忘れ物チェックは習慣になっているから、しおりがはさまっていればその時に気付くはずだ。念のために確認してみるけれど、九月五日に忘れ物の記録はない。
二〇一四年九月五日(金)
入館者〇名 貸出〇冊 返却〇冊 返却箱七冊
レファレンス〇件 遺失物〇件
備考・図書委員会議と文化祭準備のため、放課後閉室。
見慣れた自分の字。少しななめに歪んだそれを見ながら、右手で髪をくしゃりとかき回す。
このしおりは、たぶん先週の土曜か、今日の昼休みにはさまれたものに違いない。
でも、いったい何のために?
記録用紙をめくりながら、先週金曜の真木との会話を思い出す。
祖母からの贈り物だというこのしおりを、真木は大事にしていた。鉛筆でうすく書いた文字は消しゴムでこすれば簡単に消えてしまいそうだが、だからといって落書きやメモ用紙代わりに使うわけがない。
思考の間も記録用紙をめくる手は止めず、ぱらぱらと時を遡る。用紙の日付が七月になった。
二〇一四年七月十四日(月)
入館者〇名 貸出〇冊 返却〇冊 返却箱十五冊
レファレンス〇件 遺失物〇件
備考・古本市への寄贈依頼あり。二百冊程。高谷と真木で対応します。
少し癖のある真木の字が並ぶ。急いで書いたのか、いつもより少し乱れていた。
烏山高校図書室の辞書の利用は少ない。ほとんどの生徒は電子辞書を持っているし、ちょっとした調べものなら携帯電話の検索で事足りる。津田が見つけなければ、あと数ヶ月はしおりの存在に気づく者はいなかったに違いない。
誰にも知られず辞書にはさまれた小さな紙片の小さな文字。自意識過剰と笑われるかもしれない。けれど、これはたぶん、真木から俺に宛てたメッセージだ。
二〇一四年五月二十六日(月)
入館者四名 貸出二冊 返却一冊 返却箱十八冊
レファレンス一件 遺失物〇件
備考・特になし。
記録用紙を遡りながら、これまでの真木の様子を思い返す。生真面目で働き者の図書委員。感情をあまり表に出さない、クールな女の子。ぶっきらぼうな口調で誤解されやすいけれど、根は優しく、頼りになる相棒。
その言葉に、表情に、行動に。真木のメッセージは隠れていたはずだ。毎週のように顔を合わせていたのに、俺は何も気づいていなかった。
――本当に?
ちくりとした棘が胸の奥を刺す。
――小さな違和感に蓋をして、気づかないふりをしていたんじゃないのか?
冷房の利いた図書室で、汗が首筋をつたう。かるく火傷をしたように、皮膚がひりひりと痛んだ。
しおりの暗号はたいした問題じゃない。そんなことより重要なのは、真木が何を望んでいるか。そして、俺自身がどうしたいかだ。
ファイルを閉じて、カウンターを出る。
やるべきことはわかっている。けれどその前に、確かめておきたいことがあった。
奥の書架へ進み、目指す棚へとまっすぐに向かう。棚番号〈分類5〉。本の背にさっと目を走らせ、目的の一冊を手に取る。その本――『花言葉図鑑』を開いて、いくつかのページを確認した。白い紙の上に、色とりどりの花が美しく開く。指先で文字を追いながら、俺はあの人のことを考えていた。
「笹山はいるか?」
ノックすることもなく、放送室に飛び込む。勢いよく開けたドアの向こうでは、矢口が驚いた顔でこちらを振り返った。
「高谷くん? どう――」
どうした、と動こうとした口を閉ざして、矢口が俺を見つめる。その目がすっと細くなった。
「待ってて」
短く答えた矢口が、部屋の奥に引っ込む。すぐに笹山が姿を見せた。
「どうしたの一体? 何事?」
息を切らしてドアの前に立つ俺を見て、笹山の声が大きくなった。その後ろから少し心配そうな矢口の顔が見える。
ちゃんと説明したいけれど、今の俺にそんな余裕はなかった。無礼を承知で早口に用件だけを伝える。
「真木に話があるんだ、連絡できないか?」
「真木ちゃんに? でも……」
「連絡先、知らないんだ。勝手に教えてもらうわけにはいかないから、俺の携帯の番号を伝えてくれないかな。真木と、直接話がしたい」
電話番号を書いたメモを差し出す。一瞬ためらった後、笹山はメモを受け取った。
「わかったわ。少し待って頂戴」
そういうとスカートのポケットから水色の携帯電話を取り出して、部屋の奥へ向かう。開けっ放しのドアにもたれて息をついていると、矢口がペットボトルの水を差し出した。有り難く受け取り、一気に飲み干す。
「悪いな」
「気にしなくていいよ。この前、携帯電話を貸してくれたお礼だ」
そんなことあったっけと首を傾げる俺に、矢口は苦笑した。
「高谷くんの連絡先を真木ちゃんに伝えたわ。すぐに電話があると思う」
笹山の声が部屋に響く。
「何があったか知らないけど、もし真木ちゃんを泣かせたら承知しないから」
「うん、ごめん。ありがとう」
頭を下げたと同時に、ポケットの携帯電話が震えた。登録されていない十一桁の番号がディスプレイに表示されている。廊下に出て、通話ボタンを押す。
「もしもし、真木?」
「はい」
機械の向こうで真木が答えた。
「突然ごめん、少しだけ時間をくれるか? 頼みたいことがあって」
「なに?」
受話器から聞こえる小さな声が鼓膜を揺らす。真木の声はこんなに細かっただろうか? いつもより気弱に響く声に、胸の奥がざわざわと騒いだ。
「あ、今日ってなにか用事があったんだっけ? 邪魔してごめん、迷惑ならかけ直すから」
「用事は終わったから問題ない。なに?」
淡々とした真木の声に、少し冷静になる。唇を軽く噛み、口を開く。
「あのさ」
深呼吸を、ひとつ。
「百瀬に、伝えて欲しいことがあるんだ」
電話の向こうで、真木が小さく息を呑む気配がした。
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