42 レシピ
窓の外には、黒い雲が重たく敷きつめられていた。たっぷりと水を含んだ分厚い絨毯が、少しずつ流れていく様を見上げながら、湿った空気を思い切り吸い込む。一時間もしないうちに、きっと雨が降るだろう。
窓を閉めようとガラスに手をかけたところで、図書室のドアがぎいと音を立てた。ドアの向こうに、ピンク色のリボンがふわりと揺れる。
窓に鍵をかけ、カーテンを閉じて、カウンターへ。
「来てくれてありがとう」
こちらが軽く手を振ると、相手もそれにならった。
「話ってなあに?」
ペタペタとスリッパの音を響かせながら、百瀬が首を傾げた。蕾が開くような笑顔に、こちらも笑顔でイスをすすめる。
「急に呼び出してごめん。百瀬に聞きたいことがあるんだ」
カウンターの前に腰を下ろした百瀬が、きょとんとした顔で瞬きした。どこから話せばいいのか少し迷って、前置きなしに本題に入る。
「先週の月曜、九月一日の始業式。旧校舎の北棟で、美術部が使っている倉庫が誰かに荒らされた。そのことで、百瀬に話がある」
「どうして私に?」
「百瀬と真木は知り合いだろ?」
答えになっていない返しに、百瀬は嫌な顔もせずに微笑んだ。
「うん、もちろん。同じ総合科だもの」
くすくすと百瀬が笑った。
「なあに? 私を呼ぶようにしおちゃんにお願いしたのは、たかやくんでしょう?」
「倉庫を荒らした犯人として、真木が疑われている」
はっとした顔で、百瀬は両手を口にあてた。
「しおちゃんが?」
頷いて、説明する。
「始業式には、生徒全員が出席していた。病欠は一年と三年に数人、二年生は休みなし。式典中に途中退席した者はいない。この時間、生徒の中で自由に動けたのは、新聞部の活動で式典の写真を撮っていた真木だけだった」
「でも、それだけでしおちゃんが疑われるのはひどいでしょう?」
「俺もそう思う。だけど、それだけじゃないんだ。式が始まる少し前、美術部の一年生が、真木と名乗る人物に倉庫の鍵を預けたらしい」
「……そう、なんだ」
百瀬の顔が曇る。長い睫毛が、不安そうにそっと伏せられた。天使は憂い顔も完璧だ。
小さく息をはいて、話を続ける。
「倉庫が荒らされたといったけど、持ち出されたり壊されたりした物はないと美術部員が証言している。荒らしたというより、実際は何かを探していたみたいだ。たぶん、紙みたいなうすいものを探していたんだと思う」
「どうしてわかるの?」
「倉庫の棚には美術部の作品が並べられていたけれど、彫刻や粘土細工はそのままだった。額装された絵やスケッチブックには手をつけているのに、キャンバスは触れたあとさえない」
杉本は「絵が狙われた」といっていたけれど、正確には「紙に描かれたようなうすい作品」が正解だと思う。スケッチブックの間にはさんでおけるような、うすい何か。
「そういえば、チョコレートありがとう」
急に話を変えると、百瀬は首を傾げてぱちりと瞬きした。
「あたり、美味しかったよ。どうやって持ち込んだの?」
「どうって?」
「百瀬のトリュフ、ひとつだけブランデーで香り付けしてたよね? 調理実習で使うのは珍しいなと思って。授業のレシピにはなさそうだし」
ああ、と百瀬が頷いた。両手の指先を合わせて、にこりとする。
「うん、そうなの。先生に内緒でこっそり」
「そっか。すごく美味しかったよ。まるでパティシエみたいだ」
「ふふ、ありがと」
やわらかな笑顔に、喉の奥が痛んだ。
甘いチョコレートにわずかに混ざったブランデーのように、苦みが少しずつ広がってゆく。
「うん、ほんとに、お店で売ってるみたいな味だった。ねえ、百瀬」
かるく唇を噛んで、ごめん、と心の中で呟く。
今まで気づかないふりをして、ごめん。
「あのチョコレートを作ったのは、百瀬じゃないよね」
ほんの一瞬の間をおいて、百瀬は微笑んだ。花が開くような美しい笑み。
ああ、やっぱり。天使は今日も完璧だ。
「なぜ?」
百瀬がことりと首を傾げた。
この「なぜ」は「なぜ、そんなことをいうのか」という非難なのか、それとも「なぜ、それに気づいたのか」という肯定なのか。
どちらの意かわからないままに、とりあえず口を開く。
「百瀬がチョコレートトリュフを作ったのは、夏休み前の調理実習、七月十四日の月曜日だ。この日、西棟にある調理室は冷蔵庫が使えなかった。前日の夜から壊れていたから」
夏休み前、西棟は電気設備に不具合が多かった。調理室の冷蔵庫も、たぶん、その影響だったんだろう。
「冷蔵庫が使えない状態で、チョコレートトリュフを作ることはできない。冷やして固めることもできないからね。つまり、百瀬のチョコレートトリュフは調理実習で作ったものじゃなくて、あらかじめ用意されていたものだ。違う?」
俺の言葉に、百瀬は「そっかあ」と呟いて目を伏せた。それから両手を組んで顎をのせ、上目遣いに視線を向ける。
「ごめんね、たかやくん。もしかして拗ねちゃった? 冷蔵庫が使えないから、手作りじゃないって思い込んじゃったかな?」
百瀬の瞳の奥が、紅く光ったように見えた。その妖艶さに、背中がぞくりとする。
「あのね、たかやくんの勘違いだよ。確かに調理室の冷蔵庫は壊れていたけど、実習はちゃんとできたの。東棟と北棟の冷蔵庫をお借りして。職員室や準備室に、先生方が使う冷蔵庫があるでしょう? あれを使わせてもらったのよ。いくらなんでも、総合科二年全クラスの実習をなしにはできないもん。あのトリュフは、ちゃあんと私が作ったわ」
「百瀬は、チョコレートトリュフの作り方を知ってるんだよね」
俺の問いに、百瀬がふふと笑った。
「たかやくん、私を試してるね」
そういうと、百瀬は人差し指を天井に向けた。
「もちろん知ってるよ。とっても簡単。まずは湯煎にかけて溶かしたチョコレートに、生クリームを混ぜるの。きれいに混ぜ合わせたら冷蔵庫で冷やして、少し固める。形が作れるくらいに固くなったら、スプーンですくって一口サイズに丸めて、仕上げにココアパウダーをまぶして完成。私はココアパウダーじゃなくて、粉砂糖にしたけどね。せっかくホワイトチョコレートで作るんだし、白い方がかわいいもの。どう? 合ってるでしょう?」
指先を魔法の杖のようにくるくると回して、百瀬はちょこんと首を傾げて見せた。
「そうだね。俺の知ってるトリュフの作り方と同じだ」
「それじゃ、誤解は解けたのかな?」
にこりとした百瀬に、こちらも笑みを返す。
「そう、トリュフを作るには生クリームが必要なんだよね」
頷いて、視線を合わせる。思えば、これまで百瀬の瞳をちゃんと見たことはなかったかもしれない。
「そして調理実習の材料は、全て前の週までに用意することになっていた」
ひとつ瞬きをした後、百瀬の瞳がわずかに揺れる。
温暖化の影響とかよく知らないけど、今年の夏も暑かった。雨もよく降って、洗濯物が乾きにくいと母さんがぼやいていたのを覚えている。
百瀬がチョコレートをくれた日。あの日も、気温は三十度を超えていた。とてもじゃないけど、生クリームなんて置いておけない。
「冷蔵庫が壊れているのに気づいたのは、月曜の朝。材料を買い直している時間はなかったはずだ。チョコレートを使った他のお菓子なら作れたかもしれないけど、生クリームがないのに、チョコレートトリュフはできない」
代用に牛乳を使うこともできるけど、冷蔵庫が壊れていたなら結局は同じことだ。この暑さでひと晩放置されていては、要冷蔵の食材はほとんど使えなかっただろう。そもそも、生クリームと牛乳では、風味がまるで違う。
あの日、真木はシフォンケーキに添えるクリームのために、ミントの葉まで用意していた。香りよく若々しい緑は、おそらく当日の朝に摘まれたものだ。それを考えても、冷蔵庫の故障に気づいたのは、実習の直前だったに違いない。
「チョコレートトリュフはあらかじめ用意されていた。たぶん、お店で買ったものだったんだろうけど、ラッピングしたのは百瀬だろ?」
きゅっと唇を結んで、百瀬がまっすぐに俺を見つめる。
「百瀬がいっていた〈あたり〉っていうのは、トリュフにトッピングされていたハートの飾りのことだよね。自分で作ったわけじゃないから、ブランデーが使われていたかどうかなんてわかるわけがない」
さっき、俺がブランデーの話をした時、百瀬は不思議そうな顔をしていた。まさかトリュフの中のひとつだけに、ブランデーが使われているとは思わなかったんだろう。
「それで、たかやくんは怒ってるの?」
小さな声で、百瀬が呟く。ゆるくかぶりを振って、できるだけ落ち着いた声で答えた。
「違うよ」
手作りじゃなかったのは残念だけど、この話の要点はそこじゃない。
「俺が訊きたいのは、チョコレートが手作りかどうかじゃない。あの日、百瀬は調理実習に参加してなかったんじゃないかってことだ」
百瀬の肩がわずかに跳ねた。俺を見つめる瞳の奥に、ゆらゆらと光る紅が見える。
「二度目に会った時の自己紹介で、百瀬は一組だっていったよね。俺と同じ二年生だって」
五月の終わり頃。ほんの四ヶ月くらい前のことだ。あの日の出会いを思い出して、俺は少し言葉を切った。小さく息を吸って、百瀬の目を見返す。
「百瀬のクラスは、二年一組じゃないよね」
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