40 それは、君の
月曜放課後。薄暗い廊下を早足で歩く。
部活だ文化祭準備だと賑わう人の波をすり抜けて、いつも通りに図書室へと向かう。図書委員用の鍵をポケットから取り出して開錠すると、閉室の札はそのままに、中へ入ってドアを閉める。錆びたドアは鈍い音を立てながらゆっくりと閉まった。
明かりはつけずに部屋を進み、カウンターに腰を下ろす。ドアの外の喧騒も、校舎の端のこの部屋まではあまり届かない。
引き出しを開けて文化祭用のポスターを取り出す。図書室の開室時間までは、まだ少し余裕があった。いつもならすぐに開けてしまうが、今日はもうしばらく静かになりたかった。
カウンターにポスターを広げ、絵筆を揃えて色をつけていく。紙を撫でる筆の感触が心地よくて、時を忘れてしばし作業に没頭した。どこかで金属が軋むような音が響いた気がしたけれど、聞こえなかったことにして描き続けた。
羽根の模様までを描き終えて筆を置く。立ち上がって腕を回すと骨がぱきりと鳴った。長く息をはき出しながら、それとはなしに天井を見上げる。薄暗く静まり返った図書室は、いつもとは違って知らない場所のように感じた。
「暗いですね」
突然近くから聞こえた声に、慌てて顔を向ける。いつの間にかカウンターの近くには津田が立っていた。
「いや、そんなことないですよ。いつも通りですって」
笑いながらポスターに手を伸ばす。丸めて引き出しにしまおうと思ったが、絵の具が乾いていないのでそういうわけにもいかない。
津田の眼鏡がきらりと光った。
「照明をつけないのがいつも通りですか?」
いや、そっちかいと思わず心の中でつっこみを入れる。
「開室まで時間があったんで、ちょっとひと休みしてました。すみません、すぐ点けますね」
へらへらと笑いながらカウンターを出ようとした俺を、津田は片手で制した。
「構いません。私が点けます」
そういうとすたすたと入口へ向かい、明かりをつけて開室の札を下げ、またすたすたと戻ってくる。そのままカウンターに入って腰を下ろした我らが図書委員会顧問は、ごく当たり前といった仕草でパソコンの電源を入れた。
いつもとは違う様子に、恐る恐る訊ねる。
「あの、先生、何か御用でしょうか……?」
「真木さんから、本日は早退との連絡がありました。図書当番が高谷くん一人では大変だろうと心配していたので、私が代わりを務めておくと約束しました」
貸出用の画面を表示させながら、津田はいつも通りの無表情のまま淡々と答える。
「代わりって、真木の代わりに先生が当番を? マジでございますか?」
「ええ、マジです」
津田は慣れた手付きで記録用紙を取り出し、バインダーに挟み込んだ。
なんてこったい。確かに、文化祭準備と当番を同時に進めるには手が足りないけれど。しかし、助っ人が津田というのは、何というか、あまり、嬉しくはない。
「いや、そんな、先生に手伝って頂くほどではないですよ。当番くらい俺一人で大丈夫です」
「高谷くんなら、そういうだろうといっていました」
大袈裟に胸を叩いて見せる俺を一瞥して眼鏡を押し上げると、津田はパソコンの画面に顔を向けたまま口を開いた。
「文化祭のポスター制作は今週まで。来週からは校内掲示の準備と、古本市設営のための資材確保が始まります。古本の値付けは済んだようですが、余分な本の廃棄はまだですし、書庫の整理も終えていません。この上で通常業務の貸出対応と返本、書架整理。加えて今週は展示替えの準備がありますので、全てを一人で行うと閉室時間までには終わりません。普段ならともかく、今週は手伝いがいた方がいいと思いますよ」
「……そっすね」
よどみない説明にぐうの音も出ない。ここは大人しく手伝ってもらう方がいいようだ。真木のやつ、余計なことをとぼやきつつも、業務過多を心配してくれた相棒に心の中で頭を下げた。
返却箱から本を取り出し、数冊まとめてカウンターへ重ねる。一冊ずつ確認しながら返却していく津田の横で、展示用の本とポップを用意する。さっきから気になっていたけれど、津田は図書委員の仕事に慣れているようだ。もしかしたら、これまでにも何度か当番に入ったことがあるのかもしれない。
「真木が早退って珍しいですね。風邪ですか?」
「いえ、所用とのことでしたので、体調には問題ないようです」
よかった。
とりあえず胸を撫でおろす。先週の杉本との一件以来会っていなかったから、少し様子が気になっていた。
ほっとしつつ、展示の準備を進める。図書室には、本のバーコードを読み込む電子音だけが響いていた。
しばしの沈黙。
やがて、津田はおもむろに立ち上がると、返却済みの本を抱えて棚の方へと向かった。半分残された本を手に、俺も後に続く。本を棚へ並べ、それぞれ簡単な書架整理を終えてカウンターへ戻る。
この間、いっさいの会話なし。
矢口や航一も口数が多い方ではないが、あの二人と津田とでは気安さがまるで違う。いつも居心地の良い図書室に重たい空気がゆらゆらと漂っているように感じるのは、たぶん、気のせいじゃないと思う。
カウンターに座り、展示の準備を進める。隣では津田が入館と貸出の記録をチェックしていた。
……うん、わかってはいたさ。わかってはいたが、やはり気まずい、やりづらい。
息を詰めたまま手早く展示替えを済ませて、作成途中だったポスターを引っ張り出す。こうなったら作業に没頭してこの緊張を紛らわすより他にない。
端に寄せていた絵筆を手に取り、細く長い息をはく。
よし。切り替え、集中、タスクフォーカスだ。
胸の内で呪文のように唱え、両頬を軽く叩いて気合いを入れる。絵の具を引き寄せようと手を伸ばした先で、いつの間にかこちらを向いていた津田の視線とぱちりと合った。
「よいポスターですね」
急に投げられた感想に、すぐには反応できずしばし固まる。津田は無表情のまま続けた。
「構成はよく考えられているし、色も線もとても丁寧に描かれている。よいポスターだと思います」
「……そっすか? たいして上手くもないし、落書きみたいなもんですよ」
思いがけない褒め言葉に、ついぶっきらぼうな返事をしてしまう。
「絵が得意なんですね」
「え? あ、ええ、まあ、そうですね。得意っていうか、一番好きな教科は美術です。あとは国語とか社会とか。あ、いや、数学が嫌いってわけじゃないんですけど」
勝手に喋って勝手に焦る俺に、津田は「そうですか」と呟いた。そして、銀縁の眼鏡が正面から俺を見る。
「以前から訊きたいことがありました。去年の文理選択で、君はなぜ理系を選んだのですか」
「なぜ、といわれても……」
唐突な質問の意図がわからず戸惑う俺に、津田は重ねて訊ねる。
「君は文系科目が得意でしょう。理数の成績も悪くはないが、国語の得点の方がはるかに高い。特に古典の知識が深いと篠田先生に聞きました。松本先生も篠田先生も、君が文系クラスではないことを残念がっていた。なぜ、理系を選択したんですか?」
「……別に、古典が得意ってわけじゃないです。親が教師なんで。中学の、国語の。だから、たまたま点が取れてるだけです」
「教師の子どもが必ずしも成績がいいわけじゃない。君の努力と適正でしょう。文系クラスの方が、君の得意教科の知識をさらに深めることができる。今よりも成績は伸びるでしょうし、それは進学の際に有利に働きます」
銀縁の眼鏡の奥から、津田の目がまっすぐにこちらを見ていた。その視線がやけに癇にさわって、不機嫌な顔を隠すことなく目をそらす。
「進路指導ですか?」
「いいえ。私の個人的な興味です」
あっさりと返した津田に拍子抜けする。
なんだそりゃ、ただの暇つぶしかよ。個人的な興味なら答える義理はないですね、とでも返してやろうか。
一瞬、このまま無視しておくかとも思ったが、いくらなんでもその態度はさすがに良くないと考え直す。気まぐれに選んだだけで大した理由はないと説明すれば、津田はすぐに納得して興味を失くすだろう。
「文系って、普通じゃないですか」
妙に不貞腐れた気分で開いた口からは、用意していたものとは違う言葉が飛び出していた。
「数学とか物理が苦手なやつが選ぶコースっていうか、選んだというより、他に選択肢がないから選ばされた、みたいな。消去法で選びましたって感じの。もちろん、文系科目が好きで選んでる人もいるんでしょうけど」
なんでこんな話をと思いながらも、一度喋り始めた口は止まらなかった。
「理系は、純粋に理数科目が好きだからとか、目指す将来に必要だから選んでる感じがして。それが、なんかいいなと思ったんです。未来を自分で選び取ってるってところが、なんか」
なんか、特別で、かっこいいなと、思って。
ぼそぼそと話す俺に、津田は相槌も打たずに静かに耳を傾けていた。
ああ、ちくしょう喋り過ぎた。無難な答えで適当に流すつもりでいたはずなのに。
少しの間をおいて、津田はゆっくりと口を開いた。
「君は、古典が好きではないのですか?」
その問いに、ゆるく首を振る。
「好きですよ。言葉遊びみたいだし、歴史の知識と合わせると、より面白いです」
「では、『好き』で文系を選ぶこともできたのではないですか?」
一瞬言葉に詰まって、今度は大きく首を振った。
「ダメです。俺、全部中途半端で。好きなものはたくさんあるけど、だからって夢中になるとかいうわけじゃない。古典は好きだけど、大学で学びたいというほどじゃない。絵は好きだけど、美術部に入るほどじゃない。サッカーや野球の試合を観るのは楽しいけど、自分がやるほどじゃない」
ただの気分屋で、口先ばかりで、必死で努力することができない。あれやこれやに手を出しながら美味いとこだけつまみ食いして、夢中になる前に手を引く怠け者だ。檜山先輩や篠原先輩、柴本、木島、石上、杉本、松嶋。実行委員で知り合った、いろんな部活の人たち。彼らのように、熱心に何かに向かう瞳を、俺は持っていない。矢口には「好きなものは好きでいいだろ」とか、あんなに偉そうに言っておきながら。
津田は何も言わずに、ただ黙ってこちらを見ていた。
「……俺からも訊きたいんですけど」
沈黙に耐えられず、今度は俺が質問する。
「先生は、なんで教師になったんですか?」
なぜか噛み付くような訊き方になったのは、情けなさと羞恥を誤魔化すためだ。
生意気な教え子からの突然の問いにも、津田が驚いた様子はなかった。眉一つ動かさず、いつも通りの口調で淡々と答える。
「中学の頃、私は学校があまり好きではありませんでした。勉強も運動もできる方ではなかった。ただ、図形の証明問題だけはなぜか得意でした。2年の夏、学年で一番成績がいい子と隣の席になった。不思議と気が合い、よく話をするようになって、ある日、その子から証明問題について質問されました。解き方を教えたら、とても感謝された。誰かから『ありがとう』といわれて嬉しいと感じたのは初めてでした。それが理由です」
「それだけ、ですか?」
「それだけです。それだけを頼りに私は教職を選びました」
「そう、ですか」
随分とあっさりした理由だ。
津田は右手の親指を軽く曲げて眼鏡を押し上げた。
「予想外につまらない理由で拍子抜けしたでしょう」
「いや、そんな。……まあ、ええ、少し」
「ですが、人生の選択などそんなものです」
そう言うと、津田は引き出しから図書委員会議事録を綴じたファイルを取り出した。
「それに、教職についてからは別の目的も見つかりました」
「別の目的?」
開いたファイルをゆっくりとめくりながら、津田が頷く。
「人は一人で生きてゆくことはできません。買い物をするにも、遠くへ移動するにも、誰かの力が必要です。一人では家を建てることも、水を引くこともできない。自分の生活は多くの人の働きによって成り立っているものだと、社会に出てはじめて気付きました」
顔を上げた津田と正面から向き合う。
「ほんの少し考えればわかる当たり前のことです。しかし、学生の頃はそんな当たり前にさえ考えが及ばなかった。社会人になったばかりの頃は、自分一人で立派に生活しているつもりですらありました。他人の勤勉さと誠実さの上に生かされているという事実に気付いた時には、顔から火が出る思いがした。その時から、誠実な人間を育てることを、職務の主たる目的と決めました」
「誠実、ですか?」
呟くように訊ねると、津田は静かに頷いた。
「この国では、蛇口をひねればきれいな水が出て、宅配を頼めば遠方からでも物が届きます。水を飲み、荷を預け、道を歩いて橋を渡り、誰かが作った料理を口にすることに、不安を覚えることはそう多くはありません。私たちが日々当たり前に受け取っている安心は、それを担う人の誠実さの上に成り立っている」
淡々と響くその言葉に、小さく頷く。
確かに、いつ壊れるかと怯えながら橋を渡ることはないし、腹を壊す心配をしながら店で食事をすることもない。余程のことがない限り、俺たちの日常は守られている。
津田は手にしたファイルをぱたんと閉じた。
「ですが、誰かが『ああ面倒だ』と手を抜いた途端に、その安心は容易く壊れてしまう。職務に対して誠実であろうとする人は、社会を支える柱そのものです。その柱を育てることが、教師としての責務であると思っています」
津田の言葉は頭の中にするりと入った。真綿が水を吸うように、じわりと俺の中に染みて色をつける。
ああ、そうか。この人の生真面目さは、その人生観からきているのか。固い信念。そりゃロボットと噂されるわけだ。
納得したと同時に、嫉妬に似た感情がちくりと胸を刺す。その固さは、俺にはないものだ。
腹の奥が妙にむず痒くて、つい軽口を叩いた。
「いつもそんなことを考えながら仕事をしているんですか?」
「そんなことを考えながら仕事はできませんよ。仕事中は仕事のことを考えています」
左様でございますか。
「でも、意識の中にはあるわけでしょ? すげえな。何のためにとか、仕事の目的なんて、俺、考えたことなかったです」
なんとなく面白そうとか、他にやることもないからとか、誰もやらないからとかで引き受けたりはするけれど。
「私も働き始めてから考えたので、多少こじつけのようなところはあります。ある人に『教師は産業にも関わらず、娯楽も生み出さない、生産性のない仕事だ』と言われて、頭にきて言い返しました」
わお。
マジか。津田が怒っている姿など想像できない。
「先生にも感情があったんですね」
「君は私をなんだと思っているんですか」
きらりと光る眼鏡にへへと愛想笑いを返す。
「職務を抜きにしても、信頼できる人間が増えることは、私個人にとって利があります。他人の誠実さを疑いながら生活するのは気持ちが落ち着きませんから」
そう付け加えた津田は、いつもよりほんの少し早口だった。ひょっとすると照れているのかもしれない。
津田の意外な一面を見たせいか、こちらとしてもどうにも落ち着かない。面映いというか、気恥ずかしいというか。いや、俺が照れる必要はないんだけど。
「ところで、文化祭準備の進捗はいかがですか?」
ふいに、津田が話を変えた。
「なんとか間に合いそうです。室内のレイアウトは真木が考えてくれてますし、広報と予算は委員長が交渉中です。今年は予想外に古本が集まってしまいましたけど、今んとこ順調ですよ」
予想外に集めてしまった責任があるのでかなり気を揉んだが、おかげ様で何とかなりそうだ。
「そうですか。君と真木さんと藤井くんのおかげですね」
津田は図書室を見回して、小さく頷いた。
「君と真木さんは、文化祭の店番は結構です。当日は自由に過ごしてください。クラスの当番もあるでしょうし、高谷くんは実行委員も忙しいでしょう」
急な話に「へ」と気の抜けた声がもれる。
「いや、だって、俺と真木が抜けたら、誰が店番を担当するんです?」
去年だって、ほとんど二人で切り回していた。俺は風邪引いて座っていただけだから、あまり役に立ってはいなかったけど。
「図書委員は君たちだけではありません。他の委員に頼みます」
「でも、みんなクラスとか他の用事で忙しいでしょ? せっかくの文化祭だから友達と遊んだりしたいだろうし」
「それはお互い様ですし、条件は皆同じです。委員会の仕事なのだから、タスクは分割するべきです」
「けど」
「当日は二日間とも私がサポートにつきます。手落ちがないように見ていますので安心してください。それに」
津田はポケットから眼鏡拭きを取り出した。
「すでに藤井くんが委員全員に声をかけて、店番のシフトを作っています」
「委員長が?」
いつの間にそんなことを。いや、それよりも。
「みんな、よく了承しましたね」
普段の当番だって、あまりやる気があるようには見えないのに。
「担当時間を15分ずつに区切って、短時間のローテーションにしたそうです。他に仕事が入っている者を優先に、イベント参加や舞台観覧の希望を聞いて、可能な限り配慮したそうですよ。部活がある子は藤井くんが3年生に事情を説明して、当番の時間調整をしてくれるよう頼み込んだと聞いています」
眼鏡を外してレンズを拭きながら、津田は淡々と説明する。
「委員長が、なんでそこまで」
「藤井くんは君たちに感謝していました。普段の図書当番も含めて、いつも本当によく働いてくれていると。自分は曼荼羅部の活動が忙しくてあまり委員会を見てやれないが、高谷くんと真木さんがいてくれるから安心できる。不甲斐ない委員長で申し訳ないが、ここまで準備をしてくれた二人には、せめて当日の文化祭を思い切り楽しんで欲しいと言っていました」
眼鏡をかけ直した津田が、こちらを向いて小さく頷く。
「もちろん、店番に参加したいのなら、シフトはいつでも調整するそうです。二人が作った古本市ですから」
「そう、ですか」
突然の話に驚いて、上手く声が出ない。
委員長がそこまで考えてくれているなんて、全く知らなかった。
「何か問題がありましたか? 古本市の計画にマイナスの影響があるようなら、私から藤井くんに説明しますが」
津田の声にわずかに気遣いの色が混じる。そのことを少し可笑しく感じながら、首を左右に強く振った。
まさか。マイナスなんてとんでもない。
「いえ、そんなふうに言ってもらえるとは思わなかったから。なんていうか、その、意外で」
俺なんかに、そんなに気を遣ってもらわなくてもいいのに。
「俺なんてそんなたいしたことしてないっていうか。誰でもできることしかしてないし。だから、なんか、むしろ申し訳ないなあって、思って」
ぐだぐだと喋る声は、尻すぼみになって消えていく。なぜだろうか、今日は妙に卑屈な言葉しか出てこない。
情けなさに頭をかく俺をじっと見つめながら、津田は小さく息をはいた。
「北棟まで本を運んだ時のことを覚えていますか」
「本?」
一瞬、何の話かと戸惑うが、やがてあれかと思い至る。夏休み前に、津田に頼まれて美術室まで画集を運んだことがあった。
「ええ、覚えてます」
「あの時、当番の委員は二人とも体調を崩して任せることができなかった。頼まれた画集は重さも量もありました。私一人では往復しなくてはいけないので、授業に間に合いそうにありません。誰か他の図書委員の手を借りなくてはと思った時に、まず君の名が浮かびました」
ドアを隔てた廊下の向こうから、誰かが笑う声が聞こえてくる。放課後の喧騒が校舎を包んでいた。一人も利用者のいない図書室に、津田の声だけが響く。
「急いで運ばなくてはいけないが、画集は落とすと壊れてしまう。丁寧に扱ってくれる人でなくては困ります。重い画集を北棟まで運ぶ腕力があり、かつ面倒な仕事を頼まれても誠実に対応してくれる人は誰かと考えると、委員の中で他に思い当たる者はいませんでした」
津田の声は、しんと鼓膜を揺らした。
「私は君だから頼みました。仕事を任せても問題ないと判断したからです。君のことは信頼に値すると思っている。手を抜く人間がいる一方で、誠実な者もいるという事実は、それだけで誰かの安心になります。助けが欲しい時に、あの人ならばと思える人がいるのは、きっと支えになる。高谷くん」
名を呼ばれて、はっと顔を上げる。真っ直ぐに向けられた目が、銀縁の奥から俺を見ていた。
「誰しも君には頼み事をしやすいでしょう。それは、ある意味では他人から上手く利用されやすいともいえる。損得で考えるなら、損となる方が多いかもしれない。ですが、君の働きを見ている者、感謝している者は必ずいます。君が『たいしたことではない』というその仕事は、君が誠実であればこそなし得ていることです。誰にでもできることではない。それは、得難い君の資質です。誇っていい」
津田の言葉に打たれたように、心臓の奥がきんと痛んだ。痛みのあまりに流れそうになった涙を、唇をかみしめてなんとか耐える。
「君の誠実さに救われる者がいる。それは、人を支える柱となります。誰もがそうあれるわけでは決してない。君の素直さと真面目さを大事に育ててくれた人がいるんでしょう」
ふいに、両親の顔が浮かんだ。
ひょうきん者で、頼もしくて、呑気で明るくてそそっかしい。口うるさくて、構いたがりで、騒がしくて、面倒くさい。どこにでもある普通の、当たり前の、絵に描いたように平凡な、俺の家族。
「君が助けを求めるなら、手を貸そうという者はたくさんいます。責任感が強いのは君の長所ですが、全てを自分だけで片付けようとしないで、時には誰かに頼ってもいいと思いますよ」
そう呟くと、津田はやわらかな笑みを浮かべた。
返事の代わりに、小さく頷く。
そうだ。小野も、矢口も航一も、他の奴らも。俺にはたくさんの味方がいる。
平凡で普通な俺の「特別」な友人たち。
照れ臭さを誤魔化すように、両手で髪をくしゃくしゃとかき回す。一つ息をはいて顔を上げると、津田はいつもの無表情に戻っていた。ありがとうございますと言いかけて、その言葉を飲み込む。面と向かって礼を伝えるのは、さすがに恥ずかしすぎて顔と心がふやけてしまいそうだった。
代わりに、お調子者の高谷貴文の顔でへらりと笑う。
「先生って、笑ったりするんですね」
「ですから、君は私をなんだと思っているんですか」
呆れた声に、うへへと笑う。腹の奥がむず痒くて、笑いはなかなかおさまらなかった。低く笑いながら、窓の外を見る。
「先生が笑うとこなんて、俺、はじめて見ましたよ。明日は雪でも降りますかね」
ふざけた調子で訊ねると、津田はいつもの仕草で眼鏡を押し上げた。
「いいえ。明日の予報は晴れ時々雨、です」
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