39 言葉は今も胸に残れど
2限終わりの鐘が響くと同時に席を立つ。
教科書とノートを乱暴に机の中へ放り込み、北棟へと廊下を駆ける。約束にはまだ時間があったが、じっとしてはいられなかった。
美術倉庫の前で足を止め、シャツの第一ボタンをはずす。首筋の汗を拭って呼吸を整え、目の前のドアを意味もなく睨みつけていると、外の蝉の声がいっそう大きくなった気がした。
昨日の杉本との会話が脳裏に浮かぶ。
無言で図書室を出て行った真木の背に、杉本が大きく舌打ちをした。
「つまらない弁解をしないのは評価するが、非を認めないあの頑固さはなんだ。黙っていれば誤魔化せると思っているなら、考えが浅いんじゃないか」
忌々しげな顔でドアを睨む杉本に、大袈裟にため息をついて見せる。
「確かに真木は頑固だけど。でも黙っていたのは認めるべき非がないからだ。美術倉庫を荒らしたのは真木じゃない」
「根拠はあるのか?」
「ある」
杉本の眉がぴくりと動いた。
「真木が、自分じゃないと言った」
「話になんねえな」
今度は杉本の方がため息をついた。
「そこまで言うなら、美術倉庫を荒らした犯人を連れて来いよ」
「なんで俺が。倉庫荒らしは真木じゃないと主張するのと、犯人探しとは別の話だろうが」
「それなら、真木栞が犯人じゃないってことだけでも証明してみせろ。全生徒の中であの時間自由に動けたのはあいつだけなんだからな」
杉本が鼻を鳴らした。冷静さはだいぶ取り戻してきたようだが、怒りはくすぶったままらしい。
しょうがない。大切なものを土足で踏み荒らされたのなら、腹の虫がおさまらないのも無理はないか。
「わかった。それじゃあ一度、件の美術倉庫を見せてくれ」
両手を上げて肩をすくめて見せると、杉本はちらりとこちらを向いて頷いた。
「なら明日の2限終わりに倉庫の前で。俺は生徒会があるから行けないが、誰か代理を頼んでおく」
「明日?」
明日は第一土曜で休みのはずだけど。
不思議に思って首を傾げる俺に、杉本は呆れた顔を見せた。
「9月6日は烏山の開校記念日だろ。来週の土曜と交代で授業日だよ。しっかりしろ」
ああ、そうか。
「そうだった。忘れてた」
「じゃ、明日の2限終わり、開校記念式典の前にな。忘れるなよ」
そう言ってさっさと図書室を出ていく杉本の背を目で追いながら、俺はもう一度大きくため息をついた。
蝉の声が鼓膜を揺らす。
ドアの前の壁にもたれてしばらく待っていると、廊下の向こうに石上が現れた。「すまん、待たせた」という声に片手を上げて応える。
がちゃがちゃと鍵を回しながら、石上は少し気まずそうな声を出した。
「今回は悪かったな。どうせ杉本が騒いだんだろ?」
アイツ、絵のことになるとすぐ血が上るからなとぼやく石上に、苦笑を返す。
「それで、何か倉庫から失くなったものは?」
「作品が部屋のあちこちに放り出されてはいたが、盗られたものはない」
首を振ってドアを開けた石上に続いて、倉庫に入る。中はきれいに片付いていた。後ろ手にドアを閉めながら訊ねる。
「荒らされてたんだろ? 失くなっていないかすぐわかるのか?」
「荒らされたっていうより、棚から引っ張り出して重ねて置いたって感じだったからな。この間片付けた時にメモしておいた作品リストと照合したけど、失くなったものはないし、壊されていたものもない。わりと礼儀正しい泥棒だよ。いや、盗られてないんだから泥棒じゃないが」
ふうんと返事をして部屋をぐるりと見回す。確かに、夏休みに見た時から変わったようには見えない。
がたりと音を立てて、石上は棚の陰から古びたイスを引っ張り出してきた。腰を下ろして背伸びをした後、欠伸まじりに、そういえばと口を開く。
「木島の話では、写真部の倉庫も荒らされたらしい」
「写真部も?」
「ああ、第二美術室の奥に現像室があっただろ?」
倉庫の鍵を指先に引っかけてくるくると回しながら、石上は気怠そうな声で続ける。
「現像室は作品倉庫も兼ねていたらしいが、そこにも誰かが侵入した形跡があったらしい。写真を保管していた引き出しからアルバムが取り出されていたそうだ。写真部は被害を訴えたらしいが、現像室は普段から施錠してないし、教師からは逆に鍵の管理が甘いと叱られて散々だったと言っていた。写真部の部長がだいぶ落ち込んでいたらしいな」
なんと、そんなことがあったとは。
篠原先輩が肩を落とす姿が浮かんで、胸が痛む。
「穏やかじゃねえな。部室荒らしでも流行ってんのか?」
「さあな。暇な奴がいるのかもな」
そう言うと石上は鍵を高く放り投げた。天井近くまで上がった鍵は、カチャリと音を立てて石上の手に戻ってくる。
「写真部も盗難があったわけじゃなかったらしいし、たいした被害はないってことで、教師もあまり相手にしちゃくれないそうだ。生徒会の副会長さんはそこそこ熱心に話を聞いてくれたらしいけどな」
なるほどと頷く俺の後ろで、倉庫のドアががらりと開いた。振り返ると、美術部部長の檜山先輩が立っている。
「先輩、どうしたんですか?」
訊ねた後で、どうしたってのも変な質問だなと苦笑する。美術部部長が美術倉庫に来るのにどうしたもない。むしろ部外者の俺の方が訊かれる側だ。
後輩の不躾な質問に気を悪くすることもなく、檜山先輩はうんと頷いた。
「これを戻しに来た」
そう言って取り出したのは、いつかの城崎涼子の写真だった。
額縁におさめられた4切の写真を見て、石上が苦い顔をする。
「額縁が少し傷ついていたから直していた。卒業生からの預かり物だから、瑕疵があってはまずいだろう」
「卒業生って、桜井先輩ですか? その写真を撮った人だと聞きましたけど」
文化祭の騒動と、その後どこかへ消えてしまった作品。柴本から聞いた写真の逸話を思い出す。
額縁の端を軽く撫でながら、檜山先輩は無言で頷いた。
「去年の文化祭の後、桜井先輩本人から預かっていた。卒業の時に返そうとしたんだが、2年後に取りに来るからと置いて行ってしまったんだ。まだ早いからと言って」
「早い? 何が早いんです?」
「わからん。とにかくそう言い残して卒業してしまった。写真は門外漢だが、預かった以上は責任がある。夏休みに持ち帰って補修しておいたが、うっかりして返すのが遅くなってしまった」
そう言いながら、檜山先輩は写真を布で包んで棚の一番上にそっとのせた。棚の背は高く、男子高校生の平均身長と同じくらいの先輩では、少し背伸びをしないと届かない。先輩の手が写真から離れるのを見上げながら、石上がぼそりと呟いた。
「ほんと変わった人でしたね。今頃は何やってんだか」
「さてな。しかし、この前見かけた時には元気そうにしていた」
後輩のため息まじりの声に、檜山先輩がさらりと返した。石上がぎょっとした顔で立ち上がる。
「部長、桜井先輩に会ったんですか?」
「夏休みにオープンキャンパスでばったり会った。都内のデザイン学科に進んだ美術部の先輩に、一度見に来いと言われてな。その大学には写真学科もあるらしくて、桜井先輩はそこに在籍しているそうだ。挨拶の後で少しお茶でもと誘われたんだが、女学生と一緒だったから、遠慮するべきだと美奈に止められた」
おお? 篠原先輩とキャンパスデートっすか?
やりますね先輩、と茶化そうとしたが、やめておく。「石上もオープンキャンパスに参加したらどうだ? よい作品がたくさん見られるぞ」と満足気に笑う檜山先輩には、おそらく「デート」の観念がない。
呆然とした顔で、石上がどさりとイスに座り込んだ。
「恋人? あの桜井先輩に?」
ぶつぶつと呟いた後、うわあと天を仰ぐ。
「マジか」
「恋人ではなく、モデルだと言っていたな。今度の文化祭用に写真を撮っているそうだ」
「モデル? まさか、ほんとに?」
石上が思いきり眉を寄せる。
「あの桜井先輩が、城崎涼子以外の人間を被写体に選ぶって言うんですか? だって、そんな、あの桜井先輩ですよ?」
信じられないといった調子で頭を振る石上に、檜山先輩はふむと首を傾げた。
「美奈も驚いていたが、そう意外でもないだろう。確かに、高校では風景を好んで撮っていたが、新しい作品に挑戦したかったかもしれんしな」
ふうん、とつまらなさそうに口を尖らせた石上が、突然にやりとした。
「で、どんな女性でした?」
興味津々といった顔で訊ねる石上に、思わず苦笑がもれる。
「お前なあ」
「だって、桜井先輩だぜ? あの堅物な人間嫌いが、どんな人をモデルに選んだのか興味あるだろ」
悪ガキの目をして笑う顔に、肩をすくめて見せる。確かに、柴本の話を聞くに、好んで人物を撮るような人ではなさそうだ。
期待に満ちた後輩の視線を受けて、檜山先輩は小さく首を振った。
「挨拶はしたが、顔はよく覚えていない。ずっと俯いていたからつむじしか見えんかった」
「なんだ」
石上があからさまにがっかりした顔をする。
「しかし、あの桜井先輩がデートか。意外過ぎて想像できねえな」
木島に話しても絶対信じねえだろうなあ、とぼやく石上に、檜山先輩が首を捻った。
「デートかはわからん。二人で歩いていただけだ」
「そりゃデートでしょうよ。男女が二人仲良く歩いてんだから」
呆れ顔の石上が、先輩をじとりと睨む。
「部長も篠原先輩とキャンパスデートしてきたんでしょうが」
「確かに美奈とオープンキャンパスへ行ったが、別にデートというわけじゃない。進学先を決める参考になると思っただけだ。美奈も写真学科に興味があったらしいからな」
「部長、あんたそれ篠原先輩に言っちゃダメですよ」
絶対、と真顔で忠告する後輩に、檜山先輩は眉間に皺を寄せて「む」と首を傾げた。
「先に行くぞ」という檜山先輩から少し遅れて、美術倉庫を出る。廊下の窓から空を仰ぐと、雲の隙間から青空がのぞいていた。
遠い空に、秋の気配がまじる。
「なあ、石上」
がたがたと施錠を確かめている友人の背に声をかける。
「1組って何人だったっけ?」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げて、石上が振り返った。
「うちのクラスなら、全部で37人だけど。それがどうかしたか?」
俺の顔を見て、わけがわからないというように首を捻る。
「いや、40人近くも狭い教室に押し込めてちゃ、暑くてかなわないよなあと思ってさ」
やっぱ理想は35人学級だよな、とへらりと笑い返すと、石上は呆れた顔をした。
「何言ってんだよ、だから各教室に冷房がついてんだろ。まあ、うちのクラスは女子が設定温度上げちまうから、あんまり涼しくはないけど」
「そうだな、冷房があれば涼しいよな」
シャツの胸元を掴んでばさばさとあおぎながら、へへと笑う。
しきりにうんうんと頷く俺を見て、石上がため息をついた。
「暑さにやられたか? しっかりしろよ、体育館は教室より暑いぜ」
美術倉庫の前で石上と別れ、西棟へと向かう。
首筋の汗を拭いながら進む廊下には、陽の光が差し込んでいた。やわらかな空は秋の色だけれど、暑さは夏のままだ。
第二美術室の前で足を止める。ドアに手をかけて引こうとしたが、鍵がかかっていてびくともしなかった。
小さくため息をついて踵を返す。
そりゃそうだ。施錠の甘さを指摘されたばかりで、開けっ放しになっているわけがない。
深い考えなしにここまで来てしまったが、どうやら上手く頭が回っていないらしい。石上に言われたように、暑さにやられているのかもしれない。
「あ、たかやくん」
じわりとした熱気の中に、鈴のような声が響いた。はっとして目線を上げた先、少し離れた廊下の向こうに百瀬が立っている。
瞬間、心臓が跳ねた。
にこりと微笑んだ百瀬が、軽く手を振りながら近付いてくる。熱を含んだ風が吹いて、薄いピンク色のリボンがふわりと揺れた。
「久しぶりね、元気にしてた?」
「まあまあ、かな。ちょっと暑さにやられてるかも」
できるだけ、いつも通りに話せるようにと努める。
「そうね。最近、暑くなったり肌寒くなったり落ち着かないものね。私もちょっとバテちゃいそう」
ふふ、と笑う表情に、胸の奥が焦げるように痛む。頬をつたう汗が不快だったが、拭う気にはなれなかった。
「百瀬、あの、この間は」
ごめん、と続けようとして言葉に詰まる。何に対して謝罪するべきか、自分でもよくわからない。
百瀬が、きょとんと首を傾げた。
「なあに?」
なんでもないような顔で百瀬が笑う。その笑顔を見て、妙に得心がいった。
ああ、そうか。
そうだよな。
ゆるやかに首を振って笑顔を作る。
「そろそろ開校記念式典だな」
「そうね、みんな体育館に移動しちゃった。まだ校舎に残ってるの、私たちだけみたい」
急がなきゃね、とにこりとして、百瀬は体育館に向かって歩き出した。その背中を呼び止める。
「百瀬、学年組章は?」
ぴたりと足を止めた百瀬が、振り向いて首を傾げた。自分のシャツの襟につけたピンバッジを指して、言い直す。
「クラスバッジ。式典は着用必須だろ?」
「ああ、そっか、そうね」
セーラー服の襟を指先でつまんだ百瀬が、えへへとはにかむ。
「しまったな、忘れてきちゃった」
「教室? 急げばまだ間に合うんじゃないか?」
「ううん、たぶん、お家に置いてきちゃったみたい」
困った顔の百瀬が、両手を頬にあててゆるく首を振る。大きめのカーディガンの袖からのぞく指先は、うすく色付いていた。
「生活指導室なら、この上だよ」
少しだけ揶揄うように笑うと、百瀬は一瞬きょとんとした顔をした後、悪戯っぽく頬を膨らませて見せた。
「やだな、もう。そんなに悪い子じゃないよ?」
うふふと笑って踵を返す。
「ハンカチを忘れちゃったから、取りに行かなくちゃ。式に遅れちゃいけないから、たかやくんは先に行ってて」
軽い足取りで駆け出した百瀬は、数歩先で立ち止まって振り返った。
「それじゃ、またね、たかやくん」
軽く手を振り返し、踵を返す。
蝉の鳴き声が、どしゃ降りの雨のように背を叩いた。
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