37 君の瞳に恋なんて

 部屋のドアがかちゃりと閉まる音を背に、長く息を吐き出す。鞄を床に放り出し、靴下も脱がずにベッドへと倒れ込む。目を閉じると、窓ガラスを叩く雨音が耳の奥まで響いた。

 夏休み明けで鈍りきっているのか、妙に身体が重い。着替える気にもならず、制服のまま横たわって無意味に髪をわしわしとかき回す。腹は減っているが、昼飯を用意することすら億劫だった。

 のろのろと起き上がって壁際の本棚へと向かい、手近な1冊に手を伸ばす。気分転換でもしようかと思ったが、思わぬところに指がかかって、漫画やら雑誌やらがばさばさと床に落下した。舌打ちをしながらしゃがみ込むと、ひっくり返った漫画の下敷きになったクリアファイルが目に留まった。

 ファイルにはさんであったパンフレットの「京都」の文字に、生意気な従姉妹の顔が重なる。姉の修学旅行土産だと押し付けられたパンフレットは、ほとんどが寺社の案内だった。

 拾い集めた漫画と雑誌を本棚へと押し込み、ベッドに腰掛けてパンフレットを開く。

 京都へは中学3年の秋、修学旅行で行った。名所を中心に巡る定番コースだったが、とても楽しかった記憶がある。有名な清水寺や西本願寺を回るのも興味深かったが、ただ京都市内の道を歩いているだけでも十分に面白かった。新幹線なら2、3時間で着いてしまうような距離なのに、普段住んでいる東京とは、風の匂いも景色の色も、どこか違うような気がした。

 パンフレットに「龍安寺」の名を見つけて中を開く。一昨年の修学旅行で俺が一番にいいなと思ったのは、この龍安寺だった。かの有名な石庭は修学旅行生や観光客であふれて期待していたような静けさはなかったが、それでも何時間でも見ていられると思うほどに、あの庭は美しかった。

 パンフレットに紹介された「吾唯足知」の文字をそっと撫でる。

 龍安寺の茶室前にある手水鉢ちょうずばち、「知足の蹲踞つくばい」に刻まれたその四文字の意味を知ったのは、修学旅行の時だった。

 雨音が耳の奥を揺らす。

 急に肌寒さを覚え、二の腕をさするようにシャツの袖口を握りしめる。帰り道に少し濡れてしまったのがよくなかったかもしれない。部屋の中はひやりとして、8月の暑さが嘘のようだった。


『たかやくんのことが好きです』


 百瀬の声とともに、あの日の夏の音がよみがえる。

 騒々しい蝉の声に包まれた校舎には、いくつもの音が重なっていた。

 廊下を走る誰かの足音。体育館で跳ねるボール。グラウンドに響くホイッスル。どこかの教室から聞こえるはじけたような笑い声。

 その全てを遮断して、第二音楽室は静かだった。


『私と、お付き合いしてくれますか?』


 漆黒のピアノのかたわらで、百瀬はやわらかく囁くように呟いた。

 驚きのあまり返事もできず戸惑う俺に、百瀬の目がまっすぐに向けられる。瞳が揺れ、長い睫毛がゆっくりと伏せられた。震えるようなため息が鼓膜を揺らして、脳の奥が騒ぐ。

「なんて、ね」

 勢いよく顔を上げた百瀬が、明るい声でにこりと微笑んだ。

「ごめんね、たかやくん。急におかしなこと言って驚かせちゃって。忘れてくれる?」

 えへへと照れたように笑う顔。いつもより少し高いその声に、返す言葉が見つからなかった。

 あの日から、百瀬には会っていない。

 百瀬のことは好きだと思う。可愛らしいし、優しいし、色もにおいも全てがやわらかくて、すごく「女の子」だ。出会った日、恋に落ちたと思った気持ちも嘘じゃない。

 けれど。

 あの告白の時。一瞬、言葉に詰まったのは、驚いたからというだけではなかった。

 俺の躊躇いが伝わったんだろう。百瀬はなんでもないような顔で「忘れてくれ」と手を振った。彼女の気遣いを思うと、恥ずかしくて叫び出しそうなほどに情けない。

 机の引き出しから小さな箱を取り出す。蓋を開けると漂う甘い香りに、7月の図書室での会話がよみがえった。ほどいたリボンを手に、これを贈ってくれた時の百瀬を思う。百瀬が作ったホワイトチョコレートトリュフには、一つだけブランデーが入っていた。「ひとつ、あたりがあるの」といった彼女の楽しそうな笑顔が頭をよぎり、胸の奥がぐにゃりと歪むように痛む。


 なぜこんなにも、俺は馬鹿なんだろう。


 一般的男子高校生の俺の家族は、もちろん一般的だ。ひょうきん者だけれど頼もしい父と、呑気で明るくてそそっかしい母。口うるさくて構いたがりで、騒がしくて面倒くさい、家族。どこにでもある普通の、当たり前の、絵に描いたような一般家庭。

 その当たり前が当たり前じゃないことくらい、この歳になればさすがにわかっている。

 そうだよ、俺は幸せなんだ。優しい家族と気のいい友達に囲まれて、毎日の生活に何一つ不足なく、気ままに楽しく過ごしている。恵まれてないなんて思ったことは一度もない。満たされた、幸福な毎日。

 でも、でもさ。

 何かが足りないんだ。

 何かが欲しくて、何かがやりたくて、でもそれが何なのかわからない。

 好きだと思えるものはたくさんあるのに、「特別」に好きかと訊かれると、なぜか答えに詰まってしまう。

 単なるわがままだ。贅沢なんだよ。わかってるんだ。

 だけどさ。

 幸せな人間はもっと欲しがっちゃいけないのか?

 何不自由なく生活できている奴は、悩んじゃいけないのかよ。

 このままの俺じゃ嫌だとか、もっと変わりたいとか、違う何かが欲しいとか、そんなことを考えちゃいけないのか?

 京都の龍安寺。石に刻まれた四文字が頭の隅でちらちらと光る。


 吾唯足知。


 吾唯足ルヲ知ル。


 われ、ただ足るを知る。


 わかってる。満足しなきゃいけないんだ。だって恵まれてるんだから。でも俺だって、違う俺になってみたいんだ。もっとすごい自分に。お前の悩みなんて、ただの贅沢病だといわれるかもしれないけど。

 矢口、航一、ごめん。

 俺はお前たちのことを羨ましいと思ってしまうんだ。

 幼い時に父親を亡くして寂しい思いをしただろうこととか、奨学金で高校に通いながらバイトもして家族を支えていることとか。そういう風に「頑張って」生きている二人がすごくかっこよくて、ただ楽に生きている自分が情けなくなってしまうんだ。あまりにも平凡で普通で、満たされた生活の中で、怠惰に溶けていく毎日がつまらないもののようで、劣等感に溺れてしまいそうだ。

 そんなことを考える自分が矮小で卑屈で、また嫌になってしまうんだけど。

 恋人ができれば、この「普通」の生活が、もっといい方へ変わるんじゃないかなんて。普通な俺を「特別」だといってくれる子が一人でもいるのなら。そんな子と恋人になれたなら、俺の「普通」も「特別」になれるんじゃないかって。

 そんな理由で恋愛したって、相手に失礼だってわかってるのに。

 これを恋と呼ぶのはあまりにも身勝手すぎて、恥ずかしくて情けない。


 最後のホワイトチョコレートトリュフ。

 ブランデー入りのその味が口の中によみがえる。

 白い甘さに混じる琥珀色の苦み。

 溶けたはずのチョコレートの欠片がいつまでも喉の奥につかえているようで、上手く息が吸えない。


 昼下がりの雨音が部屋を満たす。

 薄暗い部屋の隅で、ゆっくりと、身体の奥の何かがつぶれていく音を聞いた気がした。

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