第5章 吾唯足ルヲ知ラズ

36 愁雨来たりなば

 9月1日はあいにくの雨だった。夏休みが明けたばかりだというのに、風は秋の気配を含んでいる。気温は低く、白シャツの半袖が頼りなく思えるほどに肌寒かった。

 始業式の前に教室で身なりを整える。胸ポケットの学年組章を確認していると、背後から肩を叩く手があった。

「おはよ」

 振り向いた先、小野がいつも通りの能天気さでへらりと笑う。

「おう」と返事をすると、小野はパーカーのポケットに両手を入れたままパタパタと振った。

「夏休み終わっちゃったよ、早いよなあ」

「まあな。休みっつっても、ほとんど学校に来てたしな」

「ね、働いたね」

 小野が嬉しそうな顔でにししと笑う。

「うちの近所にさ、3歳くらいの男の子がいるんだよ。その子が最近サムライごっこに夢中でさ、会うたびに『お主、何者じゃ』っつってチャンバラしかけてくんの。だからこないだ、『わしは働き者じゃ』って答えたら、『なんと、褒めてつかわす』って返してきてさ。それがめちゃくちゃ可愛かったんだよね」

 なんとも微笑ましいエピソードである。3歳児と一緒に新聞紙で作った刀を振り回している様子が目に浮かぶようだ。

「で、働き者の小野くんは課題は終わらせたんだろな?」

 からかいまじりに問うと、小野は遠く窓の向こうに視線を投げた。

「おい」

「大丈夫、大丈夫、提出期限は今月末だから」

「月末までだから言ってんだろ。俺たちは実行委員もあるんだからな。ここから金烏祭当日まで休みなんかねえぞ」

「平気だって。レポートとかは終わってんだよ。後は創作短歌とか、すぐできそうな課題だけだからさ」

 呆れた目を向ける俺に、小野はあははと笑って見せた。ついで、誤魔化すように近くにいた矢口と航一に話しかける。

「あ、ねえ、矢口、あっちゃん。夏休みの課題終わった?」

「一応ね。小野くんは?」

「俺もあとちょっとなんだけどさ、短歌とか考えんの苦手なんだよなあ」

 ため息をつきながら頭をかく小野に、矢口が苦笑する。

「そういうのは高谷が得意なんじゃないか」

 欠伸まじりに適当なことをのたまう航一に、小野がぱちんと指を鳴らした。

「それもそうね。ね、タカちゃん、参考までに一首」

 悪ガキのような顔でにやりと笑う小野に「なんで俺が」と渋りつつ、咳払いを一つ。

「鳴り止まぬ 朝日を浴びし 蝉の声」

 航一と矢口が真顔で頷いた。

「いいんじゃないか、普通で」

「うん、いいと思うよ、普通で」

 はて、普通とは褒め言葉であったろうか。疑問が頭をよぎるが、気にしないことにして解説する。

「これはな、『徹夜明け、久しぶりにカーテンを開けた時の世界の眩しさに目が眩む』という、夏休みのひとコマを切り取った名歌だ」

「なるほど」

「色褪せた夏休みをよく表現している」

 うんうんと頷いた矢口が、にこりとした。

「で、下の句は?」

 さっきの小野に倣って窓の向こうへと視線を投げると、小野が嬉しそうな顔を見せた。

「なんだ、タカちゃんもできてないじゃん」

「昨日、上の句まで考えて寝ちまったんだからしょうがないだろ」

 やり残していた課題を思い出したのが23時だったことはさすがに伏せておこう。

「もうこの際、俳句ってことにして提出しようかな」

「課題を無視するなよ。今回は短歌だろ、五七五七七の三十一文字みそひともじ

 穏やかな笑顔で矢口がつっこむ。

「なんだよ、それじゃ矢口と航一はどんな歌にしたんだよ?」

 矢口は手にしていた文庫本をぱたんと閉じた。

「夏休み 一人孤独に 家にいる」

 矢口の後に航一が続ける。

「夏休み まともに寝られぬ 夜が続く」

 いやいや。

「充実した夏を過ごした者はおらんのかい」

 しかも全部俳句じゃねえか。

「仕方ねえだろ、理系クラスの俺たちに文学作品を創り出すのはハードルが高い」

 大きく欠伸をした航一が面倒くさそうに立ち上がった。矢口もその後に続く。

「確かに、文学のセンスがありそうなのは、この中じゃ高谷くんくらいだな」

「現文は得意だもんね、タカちゃんは」

「現文『は』とは何よ、古典も漢文も得意よ、俺は」

 これ見よがしに拗ねた顔を作ると、小野がにかりと笑った。

 ぞろぞろと廊下へと出ていく生徒に混じって体育館へ向かう。そろそろ始業式が始まる時間だ。

「俺、タカちゃんは絶対文系選ぶと思ってたんだよね。だから今年おんなじクラスだった時は驚いたな」

 のろのろと廊下を歩きながら、小野がポケットから学年組章を取り出す。先を行く矢口と航一の背中はすでに遠くなっていた。

「なんで理系選択したの? タカちゃん、文系の方が成績良いじゃん」

「うん、まあ、なんとなく」

 適当に返しながら、両手をポケットにつっこむ。

「しかもいつの間にか矢口やあっちゃんと仲良くなってるしさ、あの二人とタカちゃんが楽しそうに喋ってんのも、最初は意外だったよ」

「そうか?」

 確かに、二人とも教室では無口だから、俺や小野みたいに騒がしいやつと一緒にいるのは珍しく見えるかもしれない。

「化学の授業で同じ班になってから喋るようになったんだよ。二人ともいいやつだし、話してると楽しい」

 もたもたとした手つきで胸ポケットに学年組章をつけていた小野が口を尖らせた。

「えー、俺だけ班違うんだけど」

「お前ね、4月のはじめの方はインフルエンザで休んでたでしょうよ」

 ああそっかと小野が頷く。小野が休んでいなければ矢口や航一と同じ班になることはなかっただろうし、話をする機会もなかったかもしれない。いや、話くらいはしたかもしれないけど、今みたいに昼飯をかこむような仲にはならなかったと思う。袖振り合うも何とやら。合縁奇縁とはよくいったものだ。

 やっとバッジのピンをとめた小野がにかりと笑った。

「でも、おかげで俺も矢口やあっちゃんと仲良くなれたから、結果オーライだな」

「そうだな」

 軽く肩をすくめて見せると、小野は嬉しそうにへへと笑った。まわりが楽しそうに話をしていると、小野はいつも嬉しそうな顔をする。こいつは本当に、根っからの「人間好き」なんだろう。

 予鈴の音が廊下に響き、小野と顔を見合わせる。にやりと笑って、二人同時に走り出した。ひんやりと涼しい風に肩をすぼめながら、体育館までの道を急ぐ。

 雨は、まだ止みそうになかった。


 矢口と航一について、俺が知っていることはそんなに多くない。

 二人とも運動が得意で頭の回転が早く、マイペースで他人とはあまり積極的に関わろうとしない。一見クールに見えるし普段は口数も少ないけど、話してみると楽しいし、悪ふざけや軽口にものってくれる。けれど、化学の授業が同じ班だったからというだけで、こんなに喋るようになったわけじゃない。矢口はいつも穏やかだし、航一も見た目ほど怖いやつじゃないことはすぐに分かったけれど、それでも、二人のまわりには壁があった。

 その壁がほんの少し崩れたのは、2年生になって少し経った4月の終わり頃のことだ。

 その日も、今日と同じように雨が降っていた。

 雨音が響く教室で、俺は少し不貞腐れていた。本来なら芸術選択だったはずのその時間が、急遽変更となったからだ。変更といっても午後に移動しただけだったけど、俺にとっては十分に不満だった。しかも代わりの授業がホームルームで、学校事務手続きの説明となれば尚更だ。唯一の気晴らしは席替えだったけれど、窓際から2列目、後ろから2番目という中途半端な席では、さして面白みもない。ただ、矢口と航一が揃って近くの席に移動してきたので、まあ悪くはないかなと思っていた。

 ざわついた教室で、配られたプリントに目を通す。年度のはじめは学校に提出する書類が多く、その内のいくつかは保護者のサインが必要だった。担任の説明を聞きながら、奨学金だのスポーツ保険だののプリントを適当に仕分けて必要箇所を記入していく。ため息をつきながら事務的に書類の空欄を埋めていると、目の端を1枚のプリントが通り過ぎていった。足元に落ちたそれは「緊急連絡先」と書かれていて、氏名欄には矢口の名があった。

 俺が手を伸ばすより先に拾い上げた航一が、プリントを一瞥して、わずかにしまったという顔をする。そのまま、俺の隣に座る矢口の机にプリントを置いた。

「見るつもりはなかった、悪い」

「いや」

 若干気まずそうな航一の声に、矢口が苦笑する。

「俺が小さい時に亡くしたから、あまり覚えてないんだ、気にしなくていい」

「そうか」

「うん」

 それきり、二人は黙ってプリントに向かった。

 隣に座る矢口をちらりと横目で窺いながら、俺は一人納得していた。

 航一が拾ったプリントには連絡先として家族構成が書かれていたけれど、そこには、母と兄と矢口の名前しかなかった。矢口が言うように、父親は幼い時に他界したんだろう。そして航一の机に置かれた奨学金申込書の保護者欄にも、父親の名はなかった。

 俺には両親がいるし、田舎へ行けば祖父母も健在だ。だから、片親の不在という環境がどういうものなのかは知らない。知らないけれど、寂しい思いをしたり、苦労をすることはあるんじゃないかとは思う。航一が毎日のようにバイトをしているのも、小遣い稼ぎのためじゃないとは薄々気付いていた。

 手元の書類に目を落とす。保護者欄に書かれた父の名を見て、複雑な思いが絡み付くように足元から這い上がってくる。自分ばかりがいつまでも子どもみたいで、焦りに似た何かが喉の奥につっかえているようだった。

 矢口と航一が他のクラスメイトよりも少し大人びて見えるのは、そういう性格というだけじゃなくて、早く大人にならなくてはいけない理由があったのかもしれない。

 やがてペンを置いた二人が揃って立ち上がった。俺の横を通り過ぎ、教卓の提出箱に書類を放り込む。その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息をはいた。同い年の二人の背中が急に大きく見える気がして、なんとも言えない感情がぐるりと腹の奥に蠢く。


 ―――この焦燥感は、どこからくるのだろう。


 意味もなくプリントを睨みながら指先でシャーペンを回す。紙の上の活字は目がすべるだけで、全く頭に入って来なかった。

「昼はいつもどうしてんだ?」

 ホームルームが終わり、途端に騒がしくなった教室で、ふいに航一が口を開いた。

「教室とか中庭とか、適当なところで食べてるよ」

 訊ねられて少し驚いた顔をした矢口が、微笑みながら律儀に答える。

「けど、あんまりいい場所がないんだよな。教室は結構混んでるし、雨の日は中庭も使えないしさ」

「そうだな。部活でもやってりゃ部室が使えるんだがな」

「粟國くん、陸上部とバスケ部から声をかけられてたよな。随分と熱心な勧誘だったけど、入部しないのか?」

「遠慮しておく。チームプレイは性に合わない」

「陸上は個人もあるだろ」

「どこかに所属するってのが苦手なんだよ。余計な縛りはない方が気楽だ」

 皮肉に笑って肩をすくめる航一に、矢口が少し目を伏せて小さく笑う。その瞬間、二人のまわりにあった堅い空気が、ほんのわずかに和らいだように見えた。

「なあ、昼飯食いに行かないか?」

 気付けばそんな言葉が口をついていた。

 急に立ち上がった俺を、二人が驚いた顔で見上げる。

「ちょうどいい場所を見つけたんだ。北棟だから古くてちょっと離れてるけど、雨でも使えるし、人が来ないからのんびりできるぜ」

 勢いで誘ったはいいものの、続く言葉に迷って、焦ったように早口になる。気恥ずかしさを誤魔化すように「な?」と笑いかけると、矢口と航一は顔を見合わせ、笑って頷いた。

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