35 月の光
西棟の校舎をふらりと歩く。
夏日の校内は蒸し暑く、歩いているだけで汗がにじんだ。肌の上を流れる滴が蝉の声と混ざり合い、わずかな不快感に小さく舌打ちをする。
三階へ下りたところで、階段を上がってくる真木に会った。「よ」と片手をあげると、「ん」と返事がある。
「新聞部か?」
お疲れ様と笑いかけると、真木は小さく「違う」と呟いた。そのまま過ぎ去ろうとした真木が、ぴたりと足を止める。
「高谷」
「ん?」
眼鏡の奥の目が、真っ直ぐにこっちを見ていた。
「どうした?」
「別に。なんでもない」
そういい残し、真木はすたすたと図書室の方へ歩いて行く。呼び止める間もなく消えるその背中を見送って、小さくため息をついた。
手持ち無沙汰に携帯電話を開く。時間は十四時五十分を表示していた。少し迷って、真木とは反対の廊下へ進む。
のろのろと校舎を徘徊していると、いつの間にか三階の突き当たりまで来ていた。ドアプレートに書かれた〈生徒会〉の文字に、わしわしと頭をかいて踵を返す。
「お、タカっち」
廊下を戻ろうと歩き出した時、生徒会室のドアが開いて鈴川先輩が顔を出した。
「なんだ、もう一人のタカっちはどうした?」
明るい声に、とっさに笑顔を作って振り返る。
「そんなにいつも一緒にいるわけじゃないんですよ」
「そりゃそうか」と先輩が笑った。「タカタカコンビの漫才が面白いから、ついセットで考えちゃうんだよ」
悪いね、と全く悪びれずに笑う先輩に苦笑を返す。
「会長は会議ですか?」
愛想笑いで話を向けると、鈴川先輩はにやりとした。
「いや、サボり」
「……叱られますよ」
眼鏡が似合う生徒会書記の、冷たい視線が頭に浮かぶ。呆れた顔でじとりと睨むと、先輩はからからと笑った。
「本当はこの後、舞台の打ち合わせをのぞきに行く予定だったんだけどさ。ちょっと男バレに顔を出そうと思ってな」
「男子バレー部なら、文化祭の企画書はもう少し待って欲しいといわれてますけど」
申し訳なさそうに頭を下げる部長と話をしたのは、数時間前だ。
「知ってるよ。あいつらインハイ終わったばっかで文化祭どころじゃなかったからな。部長の神林は生真面目なやつだから、練習と文化祭の両立に頭を抱えてんじゃないかと思ってさ。からかいついでに話を聞いてくるよ」
「からかわずには聞けないんですか」
すかさずつっこむと、鈴川先輩はへらりと笑って書類を取り出した。
「会えてよかったよ。これ、分担表の最新版な。相方にも渡しといてくれるか? 朝の打ち合わせで配り忘れたらしくてね」
「ああ、はい、わかりました」
「頼んだよ、タカっち。あ、それと、俺がサボってることは内緒な」
口元に人差し指をあてて不敵に笑うと、鈴川先輩は去って行った。
深いため息とともに、渡された書類に目を落とす。改定された分担表の欄には、俺と、小野の名も記されていた。
金烏祭実行委員(二年七組)
・
・
書類をたたんでポケットに押し込み、廊下の壁に背を預ける。窓から見上げた青の眩しさに、思わず目を閉じた。
午前中。写真部の作品を運び終わって北棟から戻る途中に、中庭で百瀬と会った。
いつものように可愛らしい笑顔で手を振る百瀬に、同じように手を振り返す。
「よかった、会えた」と小走りで寄って来た百瀬は、俺の前で足を止めてにこりとした。右手を胸に当て、息を整えるように大きく深呼吸をする。クリーム色のカーディガンがふわりと揺れた。
「急いできたら汗かいちゃった」
照れたように笑う姿に、こちらも笑顔になる。
「この前はありがとう」
開口一番に御礼を伝えると、ぱちりとした目が俺を見上げる。ほんのりと色づいた目元が、夏の陽を浴びてきらきらと光っていた。
「すごく美味かったよ、百瀬は料理上手だな」
百瀬からプレゼントをもらった日。家に帰ってすぐに開けた小さな箱の中には、きれいな丸い形のホワイトチョコレートトリュフがころんと六個並んでいた。素人の手作りとは思えない出来栄えに、思わず「おお」と感嘆の声がもれる。ピンクのアラザンに桜色の天使の顔が浮かび、緩みそうになる頬を慌ててつねった。
母に知られたら大袈裟に騒ぎそうなので、全部一人で食べることにして、机の引き出しにしまう。右端の一つに乗せられた小さなハートのトッピングに、思わず胸が高鳴ったのは秘密だ。
「お菓子作りが趣味なの」と百瀬がはにかむように微笑んだ。
「百瀬も文化祭の準備か?」
訊ねると、百瀬はゆるゆると首を振った。
「今日は、大事な用があって来たの」
桜色に染まった頬に、ほんの少し緊張の色が混じる。
「あのね」といってひと呼吸おいた百瀬が、ポケットから手紙を取り出した。うすい桜色の封筒が、花びらのように風に揺れる。
「これを、たかやくんに」
思わず伸ばした俺の手にそっと手紙を乗せると、ふわりとした笑みを残して、百瀬は西棟の方へ駆けて行った。
セーラー服の襟が跳ねて行くのをぼうっと見送って、一瞬の後にはっとする。
「……どっちの?」
思わず呟いた声に、返事はなかった。
もたれかかっていた壁から身を起こして歩き出す。廊下をゆっくりと進みながら、昼前の小野との会話を思い出していた。
「小野さ、こないだ百瀬に会ったんだよな」と訊ねる俺に、ロッカーを開けながら、小野は「うん」と返事をした。
「百瀬のピアノを聴いたのか?」
「いや、聴いてないよ」
軽く首を振ると、小野は取り出した財布をポケットにしまう。
「先週、部活の帰りに、吉祥寺の駅で偶然会ったんだ。最初は誰だか分からなくてさ、私服のせいなんだろうけど、女子って外で会うとすごく大人っぽく見えるよな。声をかけたら、百瀬も驚いた顔してた。ピアノ教室に行くところだっていうから、『文化祭の舞台で演奏したら?』って勧めたんだけど、あっさり断られちゃったよ」
ロッカーに鍵をかけて、小野が振り返る。
「それがどうかしたか?」
「いや、何でもない」と笑って誤魔化すと、小野は不思議そうな顔をした。
西棟二階、第二音楽室の前で足を止める。
部屋の中からは、かすかにピアノの音が響いていた。
ポケットから取り出した桜色の手紙を握りしめる。呼吸が浅くなっている自分に気づいて、目を閉じた。瞼の裏に浮かんでは消える情景に、舌打ちまじりのため息をはきそうになるのを、無理矢理に呑み込む。
百瀬のいう「たかやくん」が自分のことだとは思えなかった。手紙を渡された時の期待は、一瞬にして不安に変わる。卑屈と自虐に囚われた眼には、鮮やかな桜色もくすんで見えた。
小野はいいやつだ。
明るくて優しくて、いつもまわりを笑顔にする。
小野の良さは、近くにいる俺が一番わかっている。劣等感にまみれた俺とは違って、あいつの優しさは作り物なんかじゃないんだろう。
渡された手紙を開封するのは躊躇いがあった。
けれど、これが誰に宛てたものか書いてあるかもしれない。
〈 三時 第二音楽室でまってます 〉
桜色の便箋に踊る小さな丸い文字に、喉の奥がひりつくように痛んだ。
自惚れるな。
この手紙は、俺宛じゃない。
小野は、百瀬がピアノを弾くことを知っていた。きっと百瀬は、俺なんかより小野に演奏を聴いて欲しいと思うだろう。
手紙を小野の靴箱に置いて踵を返すと、振り返らずに階段を駆け上がった。
その後は、全部、矢口にいわれた通りだ。
情けなさに逃げ出してしまいたいが、今さら引き返すわけにもいかない。それに何より、部屋の中で百瀬が待っている。手紙が俺宛じゃなかったとしても、小野に渡せなかったことを謝らなくてはいけない。
両足に力を込めて、第二音楽室のドアをノックする。ピアノの音がぴたりと止んだ。「はい」という声は聞こえなかったが、少し迷ってドアを開ける。部屋の中はひんやりとして、外の明るさに慣れた目にはほんの少し薄暗かった。
「失礼します」
と薄闇の中に声をかける。
かたりと音がして、部屋の奥から百瀬が現れた。身体を半分ピアノに隠すようにして、にこりと笑う。
「来てくれてありがとう」
その言葉に、肩から力が抜けていくのがわかった。安堵にもれそうになるため息を、なんとか呑み込む。
「急に呼び出しちゃってごめんね。たかやくんに、私のピアノを聴いてもらおうと思って。少しだけ、時間をもらってもいいかな?」
両手の指先を合わせて微笑む姿に、精一杯の明るい声で返す。
「こちらこそ、お招き頂き光栄です」
おどけた調子で馬鹿丁寧に頭を下げて見せると、百瀬はくすくすと笑った。
「せっかく百瀬がピアノを弾いてくれるのに、観客が俺だけでごめんな。小野も連れてくればよかったな」
「小野くん?」
百瀬がきょとんとした顔で首を傾げる。
「鷹也だよ、こないだ会ったんだろ?」
「ああ、たかやくんと仲良しの
百瀬が楽しそうにうふふと笑う。
「いいの。今日は、たかやくんだけのコンサートだから」
どうぞこちらへと示されたイスに腰を下ろす。
「それでは、一曲お付き合いください」
ぺこりと頭を下げると、百瀬はピアノの前に座って、鍵盤をそっとたたいた。
ドビュッシー〈ベルガマスク組曲〉の第三曲〈月の光〉。
しなやかな指先が流れるようにピアノの上をすべり、美しい旋律が部屋に満ちる。途中、わずかに百瀬の瞳が哀愁を帯びたような気がしたが、次の瞬間にはその哀色はかき消えていた。
音を拾うために目を閉じて、床をころがる雨粒のような音色に耳を澄ます。やがて最後の音が、部屋の空気にとけて消えていった。
立ち上がり優雅に一礼した百瀬に、拍手を送る。
「すごいな。すごく綺麗だったよ」
ピアノの上手さはよくわからないけれど、とても美しかった。
「やっぱり文化祭で演奏したらいいのに」
「……だって、たくさんの人の前だと恥ずかしいんだもの」
両手を頬にあてた百瀬が「とても無理よ」と小さく首を振る。
もう一度ピアノの前に腰を下ろした百瀬が、鍵盤を軽くたたいた。ぽおんという音が一つ、部屋を転がっていく。
「文化祭の準備はどう?」
指先を鍵盤にのせたまま、百瀬は訊ねた。
「完璧、とはいわないけど、とりあえず順調だよ」
「たくさん仕事を任されているって聞いてるわ。無理してない?」
百瀬の声が不安そうに揺れた。
「去年は大変だったって、写真部の彼もいっていたでしょう? たかやくんはとても優しいから、色々と抱えてしまいそうで心配。私にできることなら、いつでもお手伝いするからね。片付けとか、簡単なことしかできないけど」
気遣わしげな声がピアノの音に混じってとけていく。
「気にかけてくれてありがとう。今のところは手が足りているから平気だ。片付けが必要なことも特にないかな。写真部の作品も片付いたし」
「写真部の?」
「うん。さっき、美術部の倉庫に運んできた。去年の文化祭の作品もあったよ。大きな作品の移動はそれくらいだって柴本もいっていたし、しばらく困ることはないと思う」
「そっか、よかった」
にこりとして鍵盤から指を離すと、百瀬は顔の前で両手の拳を握って見せた。
「嫌な仕事を押し付けられて困ってたら、教えてね。私ががつんといってあげるから」
「それは頼もしいな」
可愛らしい仕草に思わず笑いが漏れる。
「大丈夫だよ、押し付けられたんじゃなくて、引き受けたからな。一度受けたからには、責任持つさ」
いつだったかの笹山の台詞を引用しつつ胸を張る。少し格好をつけ過ぎた気もするが、これくらいの虚勢は許容範囲だろう。
「やっぱり、たかやくんは優しいよね。真面目で、誠実で、優しくて。私、そういうたかやくんのこと、好きよ」
唐突に耳にした「好き」の言葉に、一瞬、驚きで息が止まりそうになる。
「いやあ、そんなふうにいわれると照れますね」
跳ねる心臓をなんとか抑えておどけて見せると、百瀬は不満そうに頬を膨らませた。初めて見る表情も、やっぱり可愛い。
「……今、告白したつもりだったんだけど」
ぽつりと呟いた百瀬が拗ねた顔でこちらを見る。上目遣いの視線がぱちりと俺を捉えた。
イスから立ち上がった百瀬が、一歩、こちらに歩み出る。光沢あるエナメルの靴が、ことりと音を立てた。
桜色の唇が開いて、小さく息を吸う。
「たかやくんのことが好きです」
ゆっくりと動く桜色は、スローモーションのようにひとコマずつが鮮明で、その鮮やかさが目に焼き付いた。
「私と、お付き合いしてくれますか?」
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