29 お人好し

 一学期終業式の空は曇りだった。じっとりと湿った空気で、シャツが肌に張り付く。

「暑い」

 唸るような声で誰にともなく文句をいう。箒の柄に顎をのせてだらけた姿勢はたいへんお行儀が悪いのは重々承知だが、正直、行儀だなんだといっていられないくらいには暑い。

「こんな暑いのに、なんでエアコン止まってんだよ」

「全クラス窓を開けてるからな。校舎全体で空調を切ったらしい」

 乾いた雑巾で窓ガラスを拭きながら、矢口が「省エネ、省エネ」と呟いた。

 一学期最終日の予定は三時間。一限に全校生徒で校内清掃を行い、二限は終業式。三限のホームルームが終われば、晴れて夏休みとなる。

 清掃は各クラス六人ずつが決められた教室へと割り振られ、俺と矢口と航一は仲良く二年七組の教室担当となった。選択教科も出席番号もバラバラのはずだが、二年に進級してからというもの、本当にこの二人とは何かと縁がある。

「扇風機があるだけマシだろ。西棟の奴らは電気すらつかねえからな」

 黒板を拭いていた航一が丸めた雑巾をバケツに放り込んだ。ばしゃりと跳ねた水がスラックスの裾にかかりそうになって、慌てて飛び退る。

「おい、横着者」

 思わず非難の声を上げると、全く悪びれずに「すまん」と返された。

「んなこといったって、その扇風機が止まってんじゃねえか」

 天井に設置された扇風機を見上げながら悪態をつくと、バケツに手を突っ込んだ航一にぎろりと睨まれた。

「張本人が何いってんだ。せっかく集めた埃が飛んでくっつって、問答無用で止めたんだろうが」

 いわれてみればそんなことをした気もする。掃除を始めた時にはまだ空調が利いていたから、あまり考えなかった。

「さっさと終わらせて扇風機をつけよう」

「賢明な判断だ。ほら、手を動かせ」

 それぞれに黙々と掃除を進める。室内の温度計によれば気温は三十度を超えていないはずだが、とにかく湿度が高い。湿気でベタつく床に苦戦しながら何とか教室中の埃を集めると、矢口が塵取りを差し出した。「サンキュ」「いえいえ」のやり取りの後、埃を集めた塵取りを持ち上げた矢口が、おやという顔をした。

「高谷くん、学年章は?」

 いわれて、シャツの胸元に視線を落とす。胸ポケットに付けられているはずの学年組章が見当たらない。慌ててポケットの中を確認すると、ピンバッジの留め具だけが隅に転がっていた。どうやらピンがはずれて落ちたらしい。

「げ」と上げた声に航一が振り返った。

「どうした?」

「学年組章がないんだ。どこかで落としたらしい」

 答えながら視線だけで床を探すが、目的の物は見当たらない。教室にいた他のクラスメイトに訊ねても、「知らない」という答えだった。

 きょろきょろと周りを見回す俺の横で、航一が矢口に訊ねる。

「なあ、学年組章って何だ?」

「学年章のことだろ? ほら、胸ポケットに付けてるやつ」

「ああ、これか」

 シャツのポケットをつまみ上げて、航一が頷いた。

「学年組章っていうのか。単にバッジって呼んでたから気付かなかった」

「それだけじゃ、何のバッジかわからないだろ」

「それなら『制服に付けるヤツ』だな」

 呑気な航一の声に、矢口が苦笑する。

「俺は学年章って呼んでるけどね。確かに、学年と組が書いてあるんだから、学年組章の方が正式だよな」

 二人の会話を聞きながらも目は足元を探す。掃き掃除を終えたばかりの床には、それらしいものは見当たらない。

「学年章でも学年組章でも、俺はあまり馴染みはないけどな」

 そういいながら、航一は黒板横のカラーボックスに置かれた箱を覗き込む。教室の落とし物は、よくその箱に放り込まれていた。

「中学ではなかったのか? 校章とか学年章とか」

 窓のサッシにさっと目を走らせながら、矢口が訊ねた。

「校章は制服に刺繍されてたし、他にバッジを付けたりはしなかったな。クラスなんて毎年変わるのに、面倒な習慣があるものだと入学した時に思ったもんだ。少なくとも、前に住んでたところでは学年章だの何だののややこしい決まりはなかった」

 箱から顔を上げた航一が、窓辺に立つ矢口に目だけで問いかける。視線を受けた矢口は無言のまま首を横に振った。

「前に住んでたとこって、航一、生まれはこの辺りじゃないのか?」

 訊ねながらゴミ箱から袋を引っ張り出し、ビニール越しに中を確認する。少なくとも外から見える範囲に金属製のバッジらしきものは見えない。

「中学の時に越してきた。二年の終わりに」

 ゴミ袋の中には、菓子の袋やジュースの紙パックが無造作に放り込まれていた。さすがに、この中に手を入れて探す気にはなれない。

「前はどこに住んでたんだ?」と訊こうと口を開けた時、清掃終了を告げるチャイムが鳴り響いた。あと三十分後には体育館で終業式が始まる。

「うわ、やべ」

 掃除は終えたが、机を並べていないし、ゴミも捨てていない。慌てて箒を掃除用具入れにしまおうとした俺を、矢口が手で制した。無言で俺の手から箒を取り上げ、西棟を指す。

「残りは俺と航一くんで片付けておくから、高谷くんは学年章を何とかした方がいい。今ならまだ間に合うだろ」

 矢口の言葉に、バケツを持ち上げた航一がにやりと笑う。

「横溝だからな。早くしねえと閉めちまうかもな」

 二人には大変申し訳ないが、他に選択肢がなさそうだ。

「悪い二人とも、すぐ戻る」

 頭を下げて廊下へ飛び出す。廊下には掃除を終えた生徒がぞろぞろと出てきていた。

 軽く駆け足で西棟を目指す。

 数分後、生活指導室の前に立った俺は、少し乱れた息を整えてドアをノックした。額の汗を拭っていると、ガチャリと音がしてドアが開く。

「なんだ」

 部屋から生活指導主任の横溝がのそりと顔を出した。いつものように、やる気のなさそうな、つまらなそうな顔をしている。

「学年組章を失くしてしまって。お借りしに来ました」

 頭を下げると、横溝はあからさまに面倒くさいという顔をした。ため息にまじって小さな舌打ちが聞こえる。自分に与えられた仕事に余程不満があるらしい。

「ああ、先生、私が代わりますよ」

 部屋の奥から快活な声が届き、すぐに若い男性教師が顔を出す。

「三津島先生、それじゃあ後は頼みますよ」

 ぼんやりとした声で応えると、横溝は気怠そうに部屋を出て行った。

 引き摺るような足音が廊下を去っていくのを聞きながら、改めて目の前の教師に頭を下げる。

「学年組章を貸して頂けませんか。どこかで落としてしまって」

 三津島と呼ばれた教師は優しい笑みを見せた。

「落としたのは校内?」

「はい、多分」

「ちょっと待って、届いていないか見てみるから。クラスは?」

「二年七組です」

 奥に引っ込んだ三津島が、何かを探す音が聞こえる。直接教わったことはないから馴染みがないが、確か三津島は去年赴任したばかりの音楽教師だ。若くてイケメンで性格も爽やかだと、クラスの女子が騒いでいた。

 物音が止み、ノートを手にした三津島が姿を見せる。

「残念、ここには届いてないみたいだね」

「そうですか。確認してくださってありがとうございます」

 頭を下げる俺に、三津島がノートを差し出した。

「それじゃ、クラス章を貸すから、ここに記入してくれるかな?」

 ノートにクラスと名前を書いて手渡し、三津島から学年組章を受け取る。〈II-7〉と書かれた光沢のあるバッジが手のひらでころんと転がった。三津島がにこやかに微笑む。

「式が終わったら返しに来るように」

「ありがとうございました。失礼します」

 一礼してドアを閉めた後、足早に教室を目指す。まだ片付けに間に合うかもしれない。

 階段を上がって渡り廊下の手前まで来た時、すぐ側の被服室から「あっちい」という声が聞こえてきた。すぐにがらりとドアが開いて、小野が顔を出す。

「誰だよ、ドア閉めたの。サウナかっつーの」

 振り返って文句をいう小野に、部屋の中から「お前だアホ」という声が返された。はじけた笑いが廊下まで響く。

「あ、タカちゃん」

 廊下に顔を向けた小野が、俺を見つけてにかりと笑う。

「よう、お疲れ」

「疲れたよ。掃除はたいしたことないんだけど、エアコンが利かなくってさ。西棟全体停電だって。こんな蒸し暑い日に冗談じゃないよ」

 シャツの胸元を掴んで扇ぎながら、小野がうんざりした顔をする。

「タカちゃんは何してんの? 確か教室掃除だったろ?」

「学年組章を借りに行ってたんだ。俺のはどこかで落としたらしくてさ」

「ああ、そっか。次、終業式か」

 納得した顔で頷いた小野が、スラックスのポケットから学年組章を取り出す。不器用な手付きで胸ポケットにピンをさしながら、小野は口を尖らせた。

「変な校則だよな、式典時はクラス章着用必須のことってさ」

 ついでにベルトや女子のリボンも、式典の時は正式に決められたもの以外の着用は認められていない。「個性尊重・自主自立・自由平等」が理念の烏山高校だが、式典や校外活動に関しては服装規定が厳密に定められている。普段は自由なアレンジ制服で華やかな校内が、式典の時だけは黒と白のみで埋め尽くされる。着崩し不可でぴしりと揃えられた体育館は、いつもの雰囲気と違って、少しだけ静寂な空気が漂う。

「まあな。けど、何でもありよりはいいんじゃないか? 自由ばかりじゃ際限がなくなるからな」

「それはそうだけど、規定違反は反省文ってのがなあ。しかも原稿用紙五枚。『うっかり忘れました』以外に何を書けってんだよ」

 上手くささらないピンに、小野がもたもたと手を動かす。「しかも横溝の奴、絶対読んでないしさ」とぼやく顔には不満の色があった。四月の始業式で学年組章を忘れた時、提出した反省文を即ダンボール箱に放り込まれたのを根に持っているらしい。

「そういううっかり忘れたやつのために、貸出の制度があるんだろ」

 式典の日に制服を忘れた場合は、事前に申し出れば生活指導室で借りることができる。ベルトもスカーフも学年組章も。一昔前は黒の髪染めスプレーもあったと聞いたけど、さすがに今は使われていないらしい。

「あのね、事前貸出すら忘れることを『うっかり』っていうのよ、タカちゃん」

 小野がぶうと頬を膨らませた。全くかわいくない。

「よし、できた」

 ようやくピンを留めた小野が、やれやれと背伸びをする。

「そんじゃ、体育館行こうぜ」という声に、やりかけの片付けを思い出した。

「掃除の途中で出てきたんだ。悪いけど先に行っててくれ」

「りょーかい。また後でな」

 片手でシャツの第一ボタンをかけながら、小野がひらひらと手を振った。


 渡り廊下を通って東棟四階に着く。こちらはどうやら空調が復活したようで、各教室ともドアは閉まっていた。汗を拭いながら二年七組のドアに手をかける。

「あ、ちょっと、えーっと、アワクニくん」

 教室の中から誰かの声がした。

「このクラスだよね? これ、高谷に渡してくれない? 図書室に返しといて欲しいんだけど」

 聞き覚えのある声は、隣のクラスの山下だ。「図書室に返せ」ということは、また本の返却を頼みに来たんだろう。

 小さくため息をついて、ドアに触れた手に力を込める。

「そりゃ無理だな」

 ぴしゃりと響いた航一の声に、思わず手が止まった。

「は?」と戸惑う山下の声。

「今日は当番の日じゃないからな。日を改めるか、急ぎなら自分で返しに行くんだな」

 淡々とした航一の声に、山下が不機嫌そうに唸った。

「なんだよ、別にお前に頼んでるわけじゃないだろ。高谷とは知り合いなんだ、困った時はお互い様だろ」

「そうか。それなら当然、そっちも何か頼みを聞いてくれたんだよな?」

 皮肉に笑う航一に、山下が言葉を詰まらせる。

「お互い様、なんだろ?」

「いや、それは……」

「俺が返しとくよ」

 言い淀む山下の声に、矢口の声が重なった。

「六組の山下くんだよね。本なら俺が預かるから、代わりにゴミ捨てを頼まれてくれるか? 人を待ってるから、ちょっとここから動けないんだ」

「あ、ああ」

 穏やかに話す矢口に、山下が頷く気配がする。

 がさがさとビニールが擦れる音の後、いつもより明るい矢口の声が響いた。

「ありがとう、助かるよ」

「いや、別に」

 ぼそりと呟くように応えた山下が、俺が立つ方とは逆のドアをがらりと開けた。廊下に出てドアを閉めたところで俺と目が合い、気まずそうに視線を逸らす。

 ゴミ袋を手に階段へ向かう山下の背を見送る俺の耳に、航一の声が届いた。

「何がお互い様だよ。あれじゃただのパシりだろ」

「自覚ないんだろ、あまり責めるなよ」

「無自覚の方がタチ悪いじゃねえか」

 なだめるように笑う矢口に、航一が舌打ちする。

「高谷は人が好過ぎるからな。この間も数学のノートを見せてくれって頼みを断らねえで、提出期限間際に課題を出してただろ。あれじゃあ、津田もひとこと言いたくもなる」

 確かに、と矢口が苦笑した。

「それでも、人が好いのは高谷くんの長所だろ」

「そりゃそうだけどな。あれじゃ、俺みたいな悪い奴にいいように使われるぞ」

「おや、悪者の自覚がおありで」

 からかうような矢口の言葉を、航一が鼻で笑う。

「少なくとも自分をいい奴だと思ったことは一度もねえよ」

 皮肉まじりの声に、矢口が小さく笑った。

「それで憎まれ役ってわけか? 高谷くんのお人好しを笑えないな」

「うるせえ、ほっとけ」

 ドアにかけた手を下ろし、静かに廊下を引き返す。ゆっくり十歩程歩いたところで、一つ深呼吸をした。

 今、自分がどんな顔をしているかわからない。

 どうしたらいいかわからず、とりあえず両手でぱしりと頬を叩いた。目まぐるしく混ざる感情に、表情がついてこない。頭を無視して動き回る心を持て余したまま、廊下に立ち尽くす。この複雑な気持ちは、なんといえばいいだろう。

 少しでも気を落ち着けるために、頭の中の辞書を片っ端から引いて言葉を探した。

 まいった。

 これは、困る。

 もう一度大きく深呼吸して、顔を上げる。頭の辞書を閉じて踵を返した。両足に力を込め、教室までの十歩を全力で走る。

「お待たせ」

 勢いよくドアを開けると、窓際に座っていた二人が顔を上げた。

「ごめんな、二人とも。片付け任せちゃってさ」

 軽い調子で謝ると、矢口が笑った。

「すぐにすんだし、たいしたことないよ」

「そっか。途中で投げて悪かったよ」

 矢口と航一の目を見て、頭を下げる。

「本当に助かった、ありがとう」

 見ていてくれて、ありがとう。

 今、俺の顔は、きっと笑っているはずだ。

「大袈裟だな」

 航一が呆れたように頭をかいた。

「それじゃ、そろそろ移動しようか。生活指導室まで行って、式に遅刻したんじゃ意味ないからな」

 そういいながら矢口が席を立ち、航一も後に続く。ドアへ向かう二人を呼び止めると、揃って振り返った。

「御礼といってはなんだけど、今日、昼飯食いに行かねえか? 駅前のラーメン屋で餃子の割引券貰ったんだ」

「行く」と二人の声が重なった。

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