28 黄色の食卓

「ごちそうさま」と手を合わせて席を立つ。食器を流しに置き、棚から皿を1枚取り出すと、テレビを観ていた母が「あら」と顔を上げた。

「デザート?」

 気が利くわねと笑う顔に、渋々もう1枚皿を取り出す。さすが目敏い。

 真木から貰ったシフォンケーキを2つに切り分けて皿にのせ、帰りに買った生クリームを六分立てにして添える。帰り際に「これもあげる」と真木から渡されたミントの葉をのせてフォークを並べると、いつの間にか紅茶を淹れていた母がいそいそとテーブルについた。

「やっぱりシフォンケーキには生クリームよね」

 鼻歌まじりに差し出されたティーカップを受け取ると、透きとおった紅がゆらりと揺れた。「レモンは?」と訊ねる母に「いらない」と返す。

 ふわふわのシフォンケーキは中がしっとりとやわらかかった。ほどよい甘さが生クリームとよく合う。

 一口食べた母が目を輝かせた。

「あら、美味しい。手作りよね、これ。あんたが作ったの?」

「貰ったんだよ。調理実習で作ったんだってさ」

「たいしたものねえ、ケーキ屋さんみたいな味だわ」

 感心したように頷き、カップを口に運ぶ。ほ、と息をはいた母の目がきらりと光った。

「ね、このケーキくれたの、女の子?」

 楽しそうな声にため息で返す。

「誰だっていいだろ」

「あー、女の子なんだあ」

 目を細めた母が「へー、そーですかー」と頷きながらしげしげとケーキを見つめた。

 正直、かなり鬱陶しい。

「お父さんにも残してあげようかしら、貴文が女の子からお菓子を貰いましたーって」

「やめろ、マジで」

 頼むから余計なことをしないでくれ。

 おもちゃを見つけた子どものような顔で絡んでくる父の姿が目に浮かぶ。想像しただけで面倒くさい。

「まったく、お父さんったら、こんな日に限って帰りが遅いんだから」

「仕事なんだから仕方ねえだろ」

 都内の公立小学校で教師をしている父は、今週まで教育実習生の指導教員を担当すると言っていた。実習日誌や指導案の添削なんかで、ここ最近はいつもより帰りが遅い。

「仕事、仕事って、真面目ばっかりじゃつまんないじゃない。適当がいいのよ、適当が」

 不満そうな顔をした母が、大きく開けた口にケーキを放り込んだ。もぐもぐと飲み込むと、途端に幸せそうに頬を緩ませる。

「教師がそんなこと言っていいのかよ。口を開けば『ちゃんとしろ』って説教すんのが仕事だろ」

「家に帰ってまで先生したくないわよーだ」と言いながら、母はもう一口ケーキを頬張る。

「だいたい、『ちゃんとしろ』ってよく分からない説教よね。『ちゃんとする』の基準は人それぞれだもの。何が『ちゃんと』なのか教えもしないで『ちゃんとしろ』って叱られても、何をどう改善したらいいか分からない子は困っちゃうわよ」

 ちゃんと、ちゃんとと繰り返しながら、「それにしても『ちゃんと』って可愛い響きね」と母が笑う。「ちゃんと」がゲシュタルト崩壊しそうだ。

 母は中学の教師だ。担当教科は国語。時々、教科書に載っている一文を使った謎の駄洒落を言って自分で笑ったり、料理をしながら鼻歌の代わりに「平家物語」や「奥の細道」を諳んじたりしている。家ではのんびりとごろごろしている姿しか見たことはないが、本人曰く「学校では威厳あるキャリアウーマン風の鬼教師なのよ」とのこと。もちろん、息子は全く信じていない。そもそもキャリアウーマン風の鬼教師ってなんだ。

 これ見よがしに大きなため息をつきながら呆れた視線を向けてやると、何を勘違いしたのかケーキののった皿を片手で隠した母がじとりと睨んできた。

「そんなに見つめたってお母さんのケーキはあげないわよ」

 威厳の欠片もない仕草に、重ねてため息をつく。

「自分の息子がそんなに意地汚いと思っとんのか」

「思ってるわよ、私の子だもの」

 真顔で言い返されては反論できない。

 何度目かになるため息をつきながら、ケーキを口に運ぶ。ふわふわとした甘さに自然と緩みそうになる頬に慌てて力を入れた。スイーツ好きの母が褒めるだけあって、確かに美味い。さわやかなミントの香りが、ひんやりとしたクリームによくあっている。

 真木にこんな特技があったとは知らなかった。相棒の特別な一面を見た気がして、何とも言えない気分になる。真木は「たいしたものじゃない」と言っていたけれど、十分にたいしたものだ。「特別」を持たない平凡な俺からすると、羨ましく思える。

 ケーキを平らげた母がテレビを観ながら紅茶を啜る。クイズ番組の「難読苗字を当てろ」という問題に、「世の中には変わった名前があるわねえ」と感心したように頷く母の声を聞いて、俺も画面に視線を移した。「東風平こちんだ」や「仲村渠なかんだかり」といった珍しい名前が並ぶのを観ながら、思わずぼそりと呟く。

「珍しい名前っていいよなあ、特別感があって」

 高谷貴文じゃ平凡だ。せめて名前だけでも特別なら、少しは自慢に思えたりするだろうか。……そんなことを考えてしまうのが平凡なんだろうな。

「何言ってんの。あんただって特別な名前よ」

 気付かれないように自虐のため息を呑み込んだ俺に、母がからりと笑った。

「産まれたばかりで七歩歩いたあんたが、天と地を指して『たかやたかふみ』って言ったのよ」

「どこのゴータマ・シッダールタだよ、俺は」

 それならアンタは摩耶夫人かい。

 ほほほと笑う母が、指で空中に文字を書く。すらすらと縦に動く指先の流れは、「高谷貴文」と読めた。書き終えた文字を真ん中で縦に切り、ぱたんと折りたたむような仕草をする。

「ほら、左右対称、シンメトリー」

 歌うように唱えた母が、「とくべつ、とくべつー」と続けた。

 呑気に笑う母の声を聞きながら、飲み干したティーカップを手に無言で席を立つ。

 能天気な母親には、俺の崇高な悩みなんてわかりゃしないんだ。ちくしょう。

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