23 写真展
水曜日の放課後。鐘が鳴り終わると同時に教室を飛び出す。
今日は担任が休みだったため、副担の横溝が代理として教室に来ていた。6限のLHRにのそりと現れた横溝は、相変わらずやる気のない様子で教卓横のイスに腰掛けると「自習」と一言呟いた。その後は座ったまま目を閉じて動かず、授業が終わる10分前にようやく立ち上がったかと思えば、「本日は連絡事項なし。以上、解散」と言い残して教室を出て行った。その無気力な適当さは教師としてどうかと思わなくはないが、今日に限っては有難い。
上履きのままで中庭へ駆け出す。ベンチに腰を下ろしたところで、ふとひと息ついた。少しだけ上がった息を整えるために深く息を吸う。空気が肺を満たす感覚が心地良い。6月も半ばになったというのに、今日はほんの少し肌寒かった。
手持ち無沙汰に頭をかきながら一般教室がある東棟の昇降口に目を向ける。昇降口にはまだ人影はほとんど見えない。
ベンチの背に身体を預けて天を仰ぐと、厚みのある雲が空いっぱいに流れていた。少しずつ形を変える雲の端が小さくちぎれていくのをぼんやりと眺める。取り残された小さな雲がゆらゆらとどこかへ流れていく様に、ふと可笑しさが込み上げてきた。小さく笑って「迷子になるなよ」と呟く。
「誰か迷子なの?」
背後から聞こえた声に文字通り飛び上がる。
ベンチから立ち上がった勢いで後ろを振り向くと、驚いた顔の百瀬と目が合った。
「びっくりしたあ」
胸元を押さえた百瀬が目をぱちぱちとさせる。
「わ、あ、ごめん、驚かせて」
ううんと百瀬が首を振った。
「私こそごめんね。急に声をかけちゃったから」
「いや、大丈夫。驚くの大好きだから、俺」
慌てて両手を大きく振ると、「そうなの?」と百瀬が首を傾げた。
「少し座ろっか」という百瀬に頷き、ベンチに腰を下ろす。
今日のために百瀬との会話のネタになりそうなことを色々と考えておいたはずなのに、いざとなると何一つ浮かんでこない。何を話せばいいか頭の中でぐるぐると考えながら、とりあえず適当な言葉で場を繋ぐ。
「早いね」
「そう?」
「うん。今日は俺のクラスも早く終わったんだ。よかった、待たせずにすんで」
うふふと百瀬が笑う。
「すごく楽しみだったから、ちょっと急いできちゃった」
廊下を走っちゃダメだよねという笑顔に、全力で首を横に振る。
君が走っていても誰も叱ったりしないさ、だって天使だからね。
校舎から届く人声の波が少しずつ大きくなってきた。昇降口からは帰り支度を終えた生徒があふれ出し、それぞれが家に部活にと、自分たちの場所へ向かって散らばってゆく。
「展示会場の教室が開くのって45分からだよね?」
騒がしさが広がる中庭の隅で百瀬が笑う。ポケットから携帯電話を取り出して時間を確かめると、15時28分だった。
「うん。あと15分くらい」
「どんな写真があるのかなあ、楽しみだね。ね、貴文く……」
話の途中であっと小さな声をあげると、百瀬は口を閉ざして慌てて両手で口元を押さえた。そのまま困ったような顔で小さく頭を下げる。
「ごめんね、馴れ馴れしくて。私、仲良くなった人のことは、つい名前で呼んじゃうの」
頬を両手で包んで、はにかんだ笑顔を見せる。
「こないだ、親戚の子にも注意されちゃって。私より二つ下のはとこなんだけどね、すっごくしっかりしてるのよ。そのはとこにも、『気安く下の名前で呼ぶなんて相手に失礼でしょ』って叱られちゃった。私ってあんまり考えないで喋っちゃうから、イヤな思いさせたらごめんね?」
「いや、全然、そんな、嫌だなんて滅相もない」
むしろ名前呼びで全然オッケーです。
「よかったあ」
ほっとした顔で百瀬が微笑む。桜色に染まる頬を風が撫でていった。
「これからはちゃんと『たかやくん』って呼ぶね。私、うっかりしてるから、他にもよくないとこあったら教えて?」
立ち上がってスカートの裾をぽんと払った百瀬が軽やかに振り返る。小柄な百瀬には一回りくらい大きなクリーム色のカーディガンの上で、白いセーラー服の襟がふわりと揺れた。
「じゃ、行こっか、たかやくん」
緊張で情けなく裏返りそうになる声を抑え、「そうだね」と答えながらベンチから立ち上がる。
女の子と二人。待ち合わせて、約束した場所へ出掛ける。つまりこれは、一般的にいうところのデートというものだろう。行き先はあまりロマンチックではないが、この際、そんなことはどうだっていい。
鼻歌混じりに歩き出した百瀬から少し遅れて後に続く。
そういえば、今日は寝癖ついてなかったっけと、今さらなことが頭をよぎった。
写真部の展覧会は北棟2階の空き教室で開かれていた。ここは新校舎ができるまでは地学準備室だったそうだけれど、今では備品置き場として使われている。最近では文化系の部活が協力して片付けながら、持ち回りで企画展を開く場となっていた。
写真展のポスターが貼られた入口のドアを開けると、受付に座っていた柴本が顔を上げた。「よ」と片手で挨拶すると、柴本も「おう」と手を上げる。
「なんだ、また来たのか」
パンフレットを渡しながら柴本が笑った。
「また?」
俺の背中からちょこんと顔を出した百瀬に、柴本は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑ってパンフレットをもう一枚手渡す。
「10日の展覧会初日にも来てくれたからさ。そんなに気に入ってくれたんなら嬉しいよ」
そう言う柴本の顔には揶揄いの色が浮かんでいた。
「たかやくん、もう見ちゃってたの? ごめんね、私、ちゃんと確認しないで誘ったりして」
「いや、大丈夫。もう一度来ようと思ってたところだったんだ」
しょぼんと眉尻を下げる百瀬に焦って答える。
「いやあ、いい作品は何回見ても素晴らしいなあ」
展示された写真を端から見ていく。ちょこちょこと動く百瀬から少し遅れて歩きながらパンフレットを開いた。作品解説を読みながらゆっくりと鑑賞していると、教室の端で百瀬がぱたぱたと手を振るのが見える。
「素敵な作品がたくさんあるのね。すごく楽しい」
嬉しそうに微笑む百瀬の隣に立ち、正面に飾られた作品を見る。大きく引き伸ばされた写真には、階段で佇む女子生徒が写し出されていた。踊り場を見上げる女子生徒の視線は画面の奥に向けられ、その横顔は豊かな髪に覆われて表情は見えない。見覚えのある階段は、多分、新校舎東棟の東側階段だろう。
「写真を撮る時って、何を考えて撮ってるんだろうね」
ふいに、百瀬がぽつりと呟いた。
「シャッターを切る瞬間、ファインダー越しに見える世界の全てが、自分だけのものみたいに思えたりするのかな」
いつもとは違う静かな声色に、思わず百瀬の顔をまじまじと見つめてしまう。
「いいなあ」
形の良い桜色の唇が動いた。
「一瞬でもその人の世界の一部になれるなら、それって、すごく幸せよね」
百瀬の目は写真の中の女子生徒に向けられていた。けれど、その瞳の奥は別の何かを見つめているようにも見える。
どんな言葉を返せばいいのかわからずに戸惑っていると、百瀬がぱっとこっちを向いた。ぱちりと瞬きをした大きな瞳に、情けない顔の俺が映る。
「私、あっちの方も見てくるね」
にこりと笑顔をくれると、百瀬は足早に教室の反対へ歩き出した。残された俺は間抜けな顔で一人立ち尽くす。
今のは、どういう意味だったんだろうか。
百瀬の言葉を思い返してみても、問いの答えは見つからない。百瀬は芸術にとても興味があるようだった。創作対象とか作家の世界観とか、そういったものに対して、何か思うところがあるのかも知れない。
写真を見上げてぐるぐると考え込む俺の背中を、誰かがとんと叩いた。
「高谷がそんなに写真好きだとは知らなかったよ」
背後に立った柴本がパンフレットをひらひらさせる。楽しそうな笑顔に、こほんと咳払いを返した。
「何をいってるんだね、柴本くん。俺は芸術を愛する男だよ。写真は素晴らしい芸術作品だ。うん、一度見ただけではわからない深みがあるよね」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
柴本の後ろでドアががらりと開いた。入って来た木島が俺を見て「なんだ来てたのか」と片手を上げる。
「石上は?」
教室をぐるりと見回した木島が柴本に訊ねた。
「ホームルームが長引いたから遅れるってさ、さっきメールがあったよ」
柴本が携帯電話を取り出して振って見せた。意外な名前に、へえと呟く。
「石上も見に来るのか?」
「いや、片付けだよ。今日は展覧会最終日だからな。美術部から何人か手伝いに来てくれる約束になってる。校内のポスターをはがして回ったりするのは人手がいるから」
俺の問いに答えた木島が、「あの野郎、サボってんじゃないだろうな」とドアを睨んだ。なんだかんだで仲良くやっているらしい。
「ちょっと美術部を見てくる」という木島に手を振る。鑑賞を続けようとパンフレットを開いたところで、袖を引く手があった。
「たかやくん、もう全部見た?」
俺の袖の端を小さくつまんだ百瀬が、上目遣いに首を傾げている。急いでパンフレットを閉じて笑みを返した。
「うん、見た」
百瀬の背中越しにこっちを見ていた柴本が、「うそつけ」と口を動かした。
ほっとけ。こないだ全部鑑賞したんだから、嘘はついてない。
「すごく楽しかった。付き合ってくれてありがとう」
嬉しそうに笑う百瀬が、くるりと柴本を振り返る。
「ありがと。とっても素敵だった」
「こちらこそありがとう。楽しんでもらえて何よりだよ」
柴本が微笑み返した。
「本当にいい写真ばかりね。高校生の作品とは思えないくらい」
教室をぐるりと見回した百瀬が、きらきらと目を輝かせる。
「去年の文化祭もすごかったって聞いたわ。卒業した先輩が素晴らしい作品を発表したんだって。私は去年見られなかったんだけど、とても素敵な写真だったって、友達が言ってたの」
隣の柴本に「そうなのか?」と訊ねる。柴本が何とも言えないような顔をした。
「その写真は、今回は展示してないの?」
百瀬がちょこんと首を傾げる。
「今回はモノクロ写真展だからね。去年の文化祭で発表されたのはカラー写真なんだ。それに」
気まずそうに頭をかいた柴本が、小さく呟いた。
「あの写真は、写真部ではもう公開しないことになってるから」
「どうして?」
百瀬の問いに柴本は困った顔を見せたが、やがて仕方なさそうに口を開いた。
「文化祭の時、去年卒業した写真部と美術部の部長同士がぶつかったんだよ。ぶつかったっていっても、目に見えて喧嘩したとかそんなんじゃなくて、なんていうかな、作品で対立したんだ」
「作品で対立?」
俺の呟きに柴本が頷いた。
「部長たちは同じ人物をモデルに作品を創ったんだよ。去年、学校で一番話題になったある女子生徒を。二人とも、彼女を一番美しく表現できるのは自分だけだといって譲らなかった。おかげで去年の文化祭は写真部も美術部も大盛況だったよ。油絵で描かれた彼女も、写真におさめられた彼女も、どちらもすごく美しかった。この世の者とは思えないっていう言葉があんなに当てはまることもないと思う」
柴本がここまで手放しで褒めるのなら、それは素晴らしい作品だったんだろう。
「高谷は、去年の文化祭の展示は見なかったのか?」
「去年は前日に風邪引いちゃって。文化祭当日は二日とも図書室にこもってたよ」
図書委員会は例年文化祭で古本市を開催している。たいして客が来るわけでもないし、どうせ動けないだろうからと体よく店番を押し付けられた。熱は下がったとはいえ、頭はぼうっとしたままだったから構わなかったけれど、正直なところ、去年の文化祭の記憶はあまりない。時々、様子を見に来た真木がポカリスエットをくれたことを覚えているくらいだ。
そっかと呟いた柴本は、暗い顔で話を続けた。
「文化祭が終わってしばらくしてから、その年の冬に、モデルになった女子生徒は学校の屋上から飛び降りて亡くなったんだ」
思いがけない言葉に息を呑む。
亡くなったということは、つまり、そのモデルの女子生徒ってのは。
「二人も知ってるだろ、去年の入学式から話題になった例の美少女」
柴本の声が淡々と響く。
教室に並べられた写真の中に、長い髪を美しく揺らした少女の後ろ姿が現れた。制服のスカートが風に舞い、同時に、その少女がゆっくりと振り返る。
ふいに目の前に浮かんだ光景に、背筋にさっと冷たいものが走った。幻想を振り払うように強く頭を振る。
微かに頷いた柴本が、小さく息を吸った。
「俺たちと同じ学年で総合科にいた、城崎涼子だよ」
呟くように零れた声が、古い校舎の床に静かに沈んでいった。
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