24 傘

 去年の烏山生で、城崎きのさき涼子りょうこの名を知らない者は誰もいない。それほどに、城崎涼子は「特別」だった。その美しさと、凛とした佇まい。他人を寄せ付けない雰囲気と、時に高圧的に見える言動から、「女王様」と揶揄する者もいた。

 学校中の羨望と嫉妬を浴び、誰が見ても「特別」だった彼女は、そして、「特別」なままこの世を去った。

 城崎涼子が亡くなった日のことは覚えている。

 2学期の期末試験前日。放課後の質問教室で数Aの問題に頭を悩ませていたところ、にわかに外が騒がしくなった。生徒は教室で待機するようにとの指示が飛び、多数の教員が廊下を慌ただしく駆けていく。やがて響いた救急車のサイレンが学校の正門で鳴り止むと、生徒は全員速やかに下校するようにとのアナウンスがあった。

 ざわめく教室の中、わけもわからずに荷物をまとめる。正門へ向かう人波に流されながら歩く途中、何気なく振り返ると、北棟の方から何人もの大人たちが出てくるのが見えた。

 翌日の試験は急遽中止となり、臨時の集会のため全校生徒が体育館に集められた。普段は騒がしいはずの集会は妙な静けさに包まれ、誰もが重苦しい空気に圧し潰されたように口を閉じる。

 やがて、黒いネクタイを締めた校長の「残念ですが」の言葉とともに、城崎涼子の死が生徒全員に伝えられた。


 北棟を出たところで、ぽつりと落ちる粒が肩に触れる。見上げると、小さな水滴がぽつぽつと降り始めていた。

 細い線を描く雫の中、後ろに立つ百瀬を振り返る。

「東棟に戻ろうか。靴、履き替えるだろ?」

 言いながら何気なく足元に目を落とすと、つま先がつるりと丸い焦茶色のローファーがあった。

 小さく握りしめた手を口元にあてた百瀬が、気まずそうな顔で見上げてくる。

「悪い子……かな?」

「いや、北棟は建物も古いし、少しくらい平気だよ。俺も時々スニーカーのまま入ったりしてるし」

 大袈裟に肩をすくめて笑って見せると、百瀬もくすりとして頬を押さえた。

「けど、傘は必要だな」

 小雨の中を駆け足で東棟へ戻る。昇降口にあるクラスの傘立てから傘を取って振り返ると、百瀬が途方に暮れた顔で立ち尽くしていた。

「百瀬、傘は?」

「えーっと、失くなっちゃったみたい」

 総合科の靴箱の前。クラスごとに分けられた傘立てにはいくつかの傘が並んでいたが、百瀬の傘は見当たらないらしい。

「俺の貸すよ」

「え、いいよ、そんな。たかやくんが濡れちゃうでしょ?」

「いいよ。確か教室に置き傘があったと思うから」

 ぱたぱたと両手を振る百瀬に、自分の傘を手渡す。

 少し困った顔をした百瀬はしばらく傘を見つめたあと、「ありがと」と微笑んだ。それから目を伏せて、小さな声で「ごめんね」と呟く。

「いいって、傘くらい」

 気にしないでと笑う俺の後ろで、聞き慣れた声が響いた。

「あれ、タカちゃん?」

 振り向くと両手に靴をぶら下げた小野と目が合った。靴を履き替え、傘立てからビニール傘を引っ張り出した小野が嬉しそうに近付いてくる。手を振りながら「今帰り?」という小野に頷き返した。

「そっちはどうした? 部活は?」

「今日は会議。去年の文化祭実行委員の意見を聞きたいからって、生徒会に呼び出されちゃってさ。来週試験で明日っから部活動休止だってのに、今日は一日つぶれちゃったよ」

 まいっちゃうよなあと小野が残念そうに口を尖らせる。

「わあ、すごい。文化祭の実行委員やってたの?」

 百瀬が両手を合わせて楽しそうに笑う。小野は百瀬を見て一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに口元に笑みを浮かべて「まあね」と返した。

 ちょこんと首を傾げた百瀬が挨拶をする。

「私、百瀬。たかやくんのお友達なの」

「たかやくんのお友達? そりゃ嬉しいな、実は俺も」

 へらりと笑って話を続けようとする小野の肩を軽く叩く。

「ちょっと教室に行ってくる。小野、あんまり百瀬に余計なこと言うなよ」

「余計なとは何よ。たかやくんのお友達よ? 仲良くなりたいじゃん」

 騒ぐ小野を放って教室への階段を上がる。ロッカーから置き傘を取って昇降口に戻ると、楽しそうな笑い声が響いてきた。

「ほんとに?」

「ほんと、ほんと。めっちゃ面白いでしょ?」

 小野の言葉に、鈴を転がすような声で百瀬が笑った。

 スニーカーに履き替えて二人に近付くと、へらへらと笑う小野をちらりと睨んでやる。

「余計なこと言ってないだろな」

「余計じゃないって、楽しいトークで盛り上げてただけだっての」

 心外だというように小野が頬を膨らませた。

「1年の最初の自己紹介の時、俺の順番なのにタカちゃんが寝ぼけて自分の挨拶を始めちゃった話とかしただけ」

「それを余計っつーんだよ」

 なんて話をしてくれとんだ、この野郎。

「二人とも、とっても仲良しね」

「まあね」

 にこにこと笑う百瀬に、小野が得意気に胸を張った。

 昇降口を出て、軒下で傘を開く。百瀬は俺が貸した紺色の傘にすっぽりとおさまっていた。

「それじゃ、俺は部室に寄ってから帰るよ」

 ぽんと音を立てて開いた小野のビニール傘には、ひらがなで大きく名前が書いてあった。

「小学生かよ」

 黒い太字のマジックでフルネームが書かれた傘に、思わず笑いがこぼれる。

「これなら目立つから失くしたりしないだろ?」

 子どもっぽい顔で小野が笑った。

「ね、タカちゃん。今年の金烏祭実行委員さ、タカちゃんも一緒にやんない?」

「俺が?」

「そ。去年も楽しかったけど、タカちゃんと一緒だともっと面白いことできると思うんだよね」

 言いながら、小野がくるくると傘を回す。

 金烏祭は烏山高校の文化祭の名称だ。体育祭と合わせ、一週間くらいかけたお祭り騒ぎになる。部活動が盛んな烏山高校は事前準備から各部ともかなり気合いが入るため、総合運営を任される生徒が各クラスから選出されていた。期間中は多忙となるらしく、立候補者は例外なく実行委員を務めることになる。

 傘を大きく傾けた百瀬が、小野を見上げた。

「実行委員ってどんなことするの?」

「クラス企画のまとめ役とか、クラスTシャツのデザインとか。事務連絡や備品管理みたいな細かな作業もあるけど、それはそれで面白いよ。普段は立ち入り禁止のとことかも実行委員権限で入れたり、開催前にいろんな企画の作品見れちゃったりするしさ」

「わあ、いいなあ」

 小野の説明に、百瀬が明るい声をあげる。

「百瀬もやる? 実行委員」

 忙しいけど楽しいよと笑う小野に、百瀬がしょんぼりと眉尻を下げる。

「私、あんまり遅くまで居残りできないから、難しいかなあ」

「そっか、残念」

 小野は心底残念そうに肩を落とした。「こういうのは友達が多い方が楽しいからさ」と言うと、くるりと振り返る。

「ね、タカちゃん、考えといてよ」

「そうだな」と返すと、小野は満面の笑みを見せた。

「絶対だかんね」と言い残して小雨の中に飛び出す。水たまりがぱしゃりとはねて、小野の靴を濡らした。

 大きく傘を振りながら「約束だよ」と叫ぶ背中に、苦笑混じりに手を振り返す。隣の百瀬を見るとうふふと楽しそうに笑っていた。見上げてきた百瀬と目が合い、同時に声を立てて笑い出す。

「帰ろうか」

「うん」

 二人並んで正門へ向かう。雨水がはねないように、普段より小さな歩幅でゆっくりと歩いた。

「たかやくん、帰りはどこから?」

 訊ねながら百瀬はまたうふふと笑った。多分、さっきの小野の話を思い出しているんだろう。

「俺は駅から」

「そうなんだ。私、バスなの」

 正門を出たところで、百瀬は立ち止まった。

「それじゃ、ここでバイバイね」

 にこりと笑って小さく手を振る姿に、こちらも手を振り返す。

「傘、ありがとう。またね」

「うん、また」

 水たまりを上手に避けながらバス停へ向かう百瀬を見送る。小さな背中は道ゆく傘の花に遮られて、やがて見えなくなった。

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