今日の佳き日に
ㅤ結婚式のスピーチを考えている。
ㅤこんなものを頼まれるなど一生に一度あるかないかだから、頭の中に定型文が入っているはずもなく。無い知恵を振り絞るよりもプロの知識を借りることにした。駅の本屋で買った指南書をパラパラと捲る。巻末にはそのまま使える例文も乗っているが、折角の門出だ。自分の言葉で祝ってやりたい。
ㅤあいつとも浅い仲ではないし。鍋をかき混ぜながら例文を見つめる。下からふつふつと音がして、煮立ったのがわかる。スープをタッパに移し、底に溜まった肉を解してスープに入れる。あとは一晩冷やせば完成だ。粗熱をとっている間、また指南書を開いた。
ㅤふと見た時計は、十時になる少し前だ。なんとか明日の夕飯には間に合いそうで息を吐く。スピーチに気を取られている間にこんな夜中になってしまった。いったいなんだってあいつはこんなものを俺に頼んだのだろうか。信頼されているようで悪い気はしないが、いかんせん難しい。とにかく褒め讃えろと言うような奴ではないし、かといって思い出語りをしたら俺とあいつの友情話を式の参列者に聞かせることになる。そんなの誰も求めてないだろう。
ㅤ新郎新婦に関する話をしようにも、いつの間にかあいつの隣にいた婚約者のことを、俺は微塵を知らない。
ㅤああでもないこうでもないと考えているうちに日付は超えてしまったが、なんとかスピーチを書き終えた。仮眠を取ろうと思ってソファーに寝転がったら、目が覚めたのは夕方だった。
ㅤコンビニで買ったワインと、いつかあいつが好きだと言った煮凝りというなんとも言えない組み合わせで出迎えると、あいつはいかにも幸せそうな顔で土産のケーキを押し付けてきた。
「まずはおめでとう」
ㅤ当てたグラスが涼やかに鳴る。
ㅤはにかみながら煮凝りに箸を伸ばすこいつに、それはお前の彼女を溶かして固めたものだと伝えたら何と言うだろうか。
ㅤ幸せそうな空気にあてられたのか、今日は安いワインがやけに美味しい。
ㅤ今夜こいつが帰ったら、スピーチの原稿は破り捨てるつもりだ。
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