中編
「ふぅええうっ、おいひいですっ」
ミックスパフェをほおばった餡が、スプーンを口にくわえたまま感動に酔いしれている。
季節のイチゴショートや三色マカロンなどを食べて「おいしい!」と歓喜に頬をゆるませるあたりは、じつに一六歳の女の子として相応のリアクションに違いない。着ている服が巫女装束であることを除けば。
ウチは餡と一緒に近所のファミレスにいる。部屋をピカピカに掃除してもらってなにもお礼をしないのは気が引けるので――競馬の大当たりで余裕ができたのもあり――高級店以外の飲食店で希望があればご馳走すると言ったら「ファミリーレストランに行ってみたいです」と返事がきた。
「わ、私、こういうところ来るの初めてですし、こういうもの食べるの初めてなのでっ。おいしくて、うれしくて、ついはしゃいじゃって、恥ずかしいです」
「ええってええって。喜んでもらえてウチも気分いいわ。にしても、いくら巫女さんとはいえキミみたいな年頃の子がファミレスもパフェも初めて尽くしって、そんな厳しい家庭なん?」
「あ……はい。幼いころに父と母が事故で亡くなって、祖父がひとりで育ててくれたんですけど、私には古来より数世代に一人あらわれる特別な巫女の資質があるとかで、幼少時からずっと特別な巫女の修行にいそしむ毎日でしたから」
軽い気持ちできいたら結構しんどい感じの過去話がきた。その祖父は今年の春からずっと海外旅行中で不在らしい。
「あと、小学校低学年のときクラスメイトが悪霊に憑かれていたので祓ったんですけど、逆に気味悪がられたようで、家の事情もあってみんなから距離を置かれるようになって……だから、咲さんが私の力を見て褒めてくれたのうれしかったです」
「ちょ、ちょいまち。まって」
「はい? なんでしょう」
「いや、そういうのって、もっと親しい人間に、それを打ち明けるべき空気になったときに話す類の過去やないの? さっき初めて会ったばかりのウチに話してええことなん?」
餡が口を半開きにして茫然と固まった。俗にいう虚無の表情だ。
ゆっくりと両手で顔を覆い、たぶん羞恥で赤くなっていく。
「あっ、あのっ、わた、わたしっ! すごくきたない部屋をきれいにした満足感と、パフェやデザートのあまりのおいしさに満たされてっ、なんだか距離感がおかしくなってしまったようで、ごごご、ごめんなさいっ」
いやあ、パニクりながら目をぐるぐるまわしてあやまってくれてるところ申し訳ないけど、この子ほんまめっちゃ可愛いわ。
「気にせんでええて。いまの話はウチの胸にしまっとくから」
「あ、ありがとうございます。そういうわけで私は友達もいなかったので、咲さんと友達みたいにファミリーレストランで飲んで食べておしゃべりするの、本当にたのしいです。――あっ、今日あったばかりの人に友達とか言われても迷惑かもしれませんけどっ」
「べつに迷惑なんかあらへんよ。ウチでよければ遊び相手になったるから」
「わ、そうですか? じゃあスマートフォンの電話番号とLINEを交換しましょう」
餡のスマホはいかにもシンプルなデザインの水色だった。さすがにスマホを所持して扱うことはできるんやな――と失礼なことを思ってしまうくらい現代文明の利器から離れた雰囲気があった。
「ところで、ウチはもう怪異に悩まされなくて大丈夫ってことでええんかな?」
すっかり解決した気になっていたのだが、餡はいきなり真顔になった。
「そのことですけど、たぶん解決してません。あの魚の妖怪はなにかを探していたようですし、白い蜘蛛の件も気がかりです」
どうやら魚のバケモンはなにか目的があってウチの部屋に干渉していたらしい。掃除の邪魔をされた餡が怒りのままに退治したから、なにを言っていたか耳に入らなかったそうだ。
「咲さん、これをお渡しします。可能なかぎり肌身離さず身に着けていてください」
餡が手渡してくれたのは、ヒトデの形をした灰緑色の石で、ざらざらした表面には五芒星っぽい菱形の中心に炎の柱が彫られている。
「なんかすごそうなアイテムやなあ」
「ムナール産の
「じゃあウチからも餡にプレゼント」
「なんですか、この鍵」
「ウチの部屋の合鍵や。好きなときに来て勝手に上がってええから」
一人暮らし始めたとき作ったはいいけど、結局これ渡すような相手との出会いは起きなかった。こういう偶然の機会には感謝しておこう。
餡と別れて帰宅すると、さっそくパイプをくゆらせた。
別れ際に「タバコは体によくないですから、やめたほうがいいですよ」と人差し指を立てて忠告した彼女のクソまじめな顔が浮かんできて、ケッケッと笑いが漏れる。
ウチは大学に入って一年後に一人暮らしを始めてから、人生を面白おかしく、なにより楽しく過ごすのを目標に遊び倒した。自分では愉快な日々を堪能できていると思っていたのだが、餡と出会って、それが虚構に過ぎないことをたったいま理解した。初めて会ったばかりの彼女とのやりとりが信じられないほど楽しかったのだ。
「今度から電子パイプを試してみよかな……」
そうすればあの清純まじめ巫女さんは笑顔で喜んでくれるだろう。それを思い浮かべるだけで楽しくなるあたり、だいぶ影響されたもんやなと苦笑せんでもないが、困ったことに嫌な気持ちは湧いてこない。
自由軒のレトルトカレーに生卵とソースをかけた夕食をすませて風呂を終えると、もろもろの満腹感にうとうとしながら睡魔に身をゆだねた。
地下迷宮を歩いている。
べつにこの先どうなるか知っているわけではなく、外国人の恋人(美女)が命と引き換えにアクアマリンの聖なる光で守ってくれる光景が待っているわけでもなく、記憶を消されるような過去なんてありはしない。
ただ、おびき寄せられるように辿り着いた最深部に「なにか」がいた。ウチの脳が「それ」を視覚で認識することを激烈に拒否した。どんな頭脳明晰で教養のある人間でも、いまおなじ状況に陥れば、無知で盲目こそが最高の慈悲であると悟るだろう。
「なにか」に精神をキャッチされたおぞましい感覚をおぼえ、錯乱の絶叫――と同時に聖なる光がはじけた。
荒い息を吐いてベッドから起き上がった。早朝の日差しがカーテンの隙間から差し込み、冷や汗がにじむ体に現実の安堵を光合成させてくれる。右手が固形物を強く握っていた。ヒトデっぽい五芒星石で、ざっくりと亀裂ができていた。
「フラグ回収が早すぎやろ」
小声でツッコんだ直後、ウチの鋭い神経がピンと張りつめる。寝起きの頭を警戒心が全力疾走で駆け抜けた。
何者かの侵入――!
玄関からかすかな抜き足差し足の微動音が伝わってくる。複数人でないことは確実だが、ウチに気配を感じさせないという事実だけで危険性が高い。
念のため退路を確認した。四階の高さなら窓から飛び降りても着地は可能だ。猫の足で部屋の死角に移動しながら対応を考える。どんな相手か確認してから行動するのは先制攻撃を許す可能性があるし、不意打ちも相手の実力によっては致命的なので、開幕で戦意喪失か狼狽させる必要がある。
ほどなくして何者かが部屋に足を踏み入れた。
「誰やオラアァァァァッ!」
「ひいぃぃぃぃっ!?」
大の男でも萎縮すること間違いなしのドス利かせビブラート恫喝を浴びせると、拍子抜けするほど情けない貧弱な驚き声が流れた。青いブラウスとスカートの少女が尻餅をついて小動物みたいにおびえていた。
「わっ、わた、わたしです、ひらさかあんです~」
涙声の少女はまぎれもなく餡だった。巫女服じゃないのが新鮮だ。こんな状況でなければ清楚な洋服バフによる清純オブ清純のまぶしさに目がくらみそう。
「なんで餡が?」
「あっ、合鍵わたしてくれたじゃないですかあっ。か、勝手にあがっていいって」
それはそうやけど、まさか翌朝に来るとは思わんやん。
てゆーか学校はどないしたんやと思ったが、今日は土曜で休みか。
「連絡くれればよかったのに」
「早朝なので寝てるかもしれませんし、起こしたら悪いですし、とりあえずLINEを送りました。そうしたら未読だったので、まだ寝ていると判断して静かに音を立てないよう部屋に入ったんです」
「キミまったく気配せえへんもん。バケモ……泥棒や犯罪者かと思ったわ」
「そんなのしりませんよぅ~。さっきの咲さんの声、ものすごく怖くて腰が抜けそうになりました! いくらなんでもあんまりですっ」
そりゃ初手で掌握するためやからな。もし相手が萎縮せず敵意を見せたら、実力を判断したうえで攻撃か脱出するところだ。
ふと見ると、まわりに紙が散らばっていた。苦い思い出の箱が横転している。餡が尻餅をついたときにぶつかって中身が散乱したのだろう。
「あっ、ごめんなさい。すぐ片付けますね」
そそくさと散らばった紙を集める餡だが、目をぱちくりさせて熱心に見つめはじめた。紙に描かれているのは人物や風景のデッサンと、衣装デザイン画が大半だ。
餡は一枚ごとに手を止めては数秒ほど見つめるモーションをルーチンした。やがて興味津々の顔で振り向いた。
「これ、咲さんが描いたんですか?」
「せやね。こう見えても高校生のころは美術部で、それなりの賞も取ったことがあるよ」
「ええっ、本当ですか! たしかにすごく上手です。うわあ、びっくりです」
デザイン画とウチを交互に見て目をきらきらさせる私服の巫女さん。彼女が初めて向ける尊敬のまなざしはとても可愛くて、さっさと打ち切るはずの話を続ける気持ちになった。
「夢は衣装デザイナーになることやった」
「素敵な夢じゃないですかっ。それなのにどうして……あっ、いえっ、話したくなければ聞きませんので!」
「高校三年生になると先生からもまわりからも将来を有望視されて、わりといい気になってた。それで意気揚々と大学いったら自分が井の中の蛙で大海を知らんことを思い知らされた。みんなとんでもない才能で、追い抜かすとか張り合うなんて無理で、織田作之助みたいなハングリー精神はウチにはなかった。なんとか最初の一年やってみたけど、完全に心が折れた。あとは無気力に大学生活を送って卒業して、適当な就職活動で数社受けて不採用になって、遊び倒すようになった。そのなかでプロの賭博師からギャンブルの才能を見出されたり、インドのおじさんから伝説の古代武術を教え込まれたりして、働きもせずパチンコと競馬で生活するろくでなしが爆誕ってわけや」
おお、よくある挫折譚とはいえ他人に話したのは初めてだ。こんなにすらすら打ち明けさせてくれた張本人は、張りつめた眉と見開いた目をぴくぴくさせて、ルージュすら塗ってない唇をぎゅっと結んで硬直していた。なにかを口にしようとしては顔を下向けるのを何度かルーチンしたあと、意を決した琥珀色の瞳がウチを直視する。
さあ彼女はなにを言ってくれるのか。どんな慰めの言葉か、あるいは今からでも夢を諦めないで系の励ましが飛び出すのか。
「あの、受けのいい巫女装束を、私のためにデザインしてください」
なんかよくわからんオーダーきた。
「ほ、ほら、このまえ言ってたじゃないですか! 私の魅力を強調した、ミニスカートがどうとかの巫女装束!」
このまえやなくてつい昨日やけど、なんでそれ?
うーむ、この子の思考回路がまるでわからんが……でもまあ。
「わからんけどわかった」
「どっちなんですか!」
「引き受けるってこと。いうて素人やし数年のブランクあるし期待せんといてな。どんな出来でもクレームなしで。キミには部屋をピカピカにしてもらったから代金はいらん」
私のためにデザインしてくださいってのが気に入った。
「わ、ありがとうございますっ。うれしいです。たのしみにしてます!」
「ところでこんな朝っぱらからなにしに来たん?」
「あっ、そのことですけど、咲さんにまといつく怪異が気になって、昨夜は何事もなかったか確認しにきました」
「ええ子やなあ。めっちゃ悪夢見たけど、たぶんこれのおかげで助かった」
深々と裂けたヒトデ型の魔除け石を見せたら餡は目を剥いた。
ウチが寝ぼけて壊したのではないかというあらぬ疑いをかけられたので、悪夢の内容を説明すると、じっとり汗を浮かべて眉間にしわを作る。
「むむむむ……これはかなり大物かもしれません。彼女の協力をあおがないと」
餡はスマホで誰かに連絡を取った。
「あっ、
餡に連れていかれた場所は、平坂神社のある町から一駅前の郊外に鎮座する、広い庭に囲まれた大きな二階建ての洋館だった。一九世紀のイギリスにありそうな洋風邸宅で、周囲の民家から浮きまくっている。
「餡さんが他人を連れてくるなんて青天の霹靂だわ! しかも成人女性とは、ぜひご紹介していただきたいものね!」
イギリスのディレッタントが住んでそうなアンティーク趣味全開の書斎にて(マントルピースの暖炉まである!)、亜麻色の髪をした少女がウチらを迎えた。年齢と背丈は餡と同程度で、さらさらのボブカットと自信に満ち溢れたダークブラウンの瞳が特徴的だ。
なんやろう、銀の鍵が胸もとについたフリルひらひらの白ブラウスと黒のベスト、黒のミニスカートに淡い白タイツと黒のブーツ、とどめに薄茶色のミニマントを肩に羽織ったその格好は、お洒落な令嬢兼冒険家という印象がふさわしい。
「えっと、咲さん、こちらは
餡が双方の紹介をすませると、夢野都が世界を見下ろすような表情でウチを見た。
「アタシは夢野都。いずれ
なんか高らかに言い放った直後に顔をそむけてくしゃみ連発したかと思うと、ティッシュを何枚も何枚も使用して鼻をかんだ。
「都ちゃん鼻炎持ちで……。ちなみに幻夢境というのは人間の見る夢によって構成されたファンタジー風の異世界で、彼女はその世界を行き来できる
ドリームランドってネズミのマスコットが支配する夢の国かと思ったわ。
それにしてもファンタジー風の異世界ねえ。にわかに信じられん話やけど、餡が言うからには本当なのだろう。そういやインドの師匠もなんか言ってた記憶がかすかにある。
「餡さんが説明したとおりよ。わかってもらえたなら話を進めるわよ!」
鼻水まみれのティッシュで満杯になったゴミ箱を押しやって、夢ちゃんが仕切りだした。
「えーと、餡さんが遭遇したのは
「間違いないよ。あっ、咲さん、私は妖怪とか神性の類は実際に見たらその名前(あるいは俗称)がわかるんです。頭に浮かぶんです」
どうやら平坂神社で数世代に一人あらわれる特別な巫女にだけ備わる資質らしい。
「深きものはまあ、またこいつらかって感じのあれだけど、アイホートの雛っていうからにはアイホートってやつが関わってることになるわよね。こういうときはナルが製本してくれた『フサン謎の七写本』をチェックチェック……ウルタールの大神殿に保管されている『フサン謎の七書』原本から直に筆写してもらったものよ」
夢ちゃんがぱらぱら繰りはじめた本は、表紙に猫とオリエント的な街並みと寺院の絵が描かれた自由帳にしか見えないんやけど、幻夢境から持ち帰ったらこういう見た目に変化したとのこと。
「ちょっと! アイホートってやっぱり
「いや知らんがな。てゆーかグレートオールドワンってなに?」
「そこからか! これはウルタールの大神官から教えてもらったことだけど、ざっくり説明するわね。宇宙には宇宙の善を体現する
スケールでかすぎなんやけど。あー、そういやAI端艇っていかにもな名前のカルトが配布してる迷宮探索ゲームが原因かもしれん。
「なるほど、それは原因として濃厚ね。ただ疑問が残るわ。不特定多数の人間がプレイしてるわけだから、アイホートも全部を餌食にしようとは思ってないはずよ。それなのにあんたはしつこく狙われてる。きっとほかにも理由があるんじゃないかしら」
魚のバケモンはなにか目的があってウチの部屋に干渉しているらしいと餡が言ってたな。
「すみません、私が深きものの話をちゃんと聞いていれば……」
「餡さん、このままじゃあなたまでアイホートに狙われることになるわよ? この女には悪いけど、いま手を引けばこれ以上は巻き込まれずにすむんじゃないかしら」
「そんな無責任なことはできないよ。私は力のおよぶかぎり咲さんを守るの。それより都ちゃんこそ危険そうなら手を貸さなくていいから」
「ハァ!? この夢野都を心配してもらっちゃ困るわね! アタシは幻夢境で遭遇した旧支配者の化身をマジックアイテムによる機転とナルの力で自滅させて生還したビューティフル
「なんや餡、友達いないとか言うてたくせに、こんな親身になってくれる友達がおるやん」
二人のやりとりを眺めていて思ったことをそのまま口に出したら、場の流れが凝結した。
餡がきょとんとした顔で「えっ?」と首をかしげ、夢ちゃんが「げっ」と表情筋を固まらせる。前者が口を開くまえに後者がウチの手を取って強引に引っ張った。
「ごめん餡さん、ちょーっと織田っちと話したいことがあるから、しばらく待ってて!」
ものすごい勢いで書斎から連れ出される。抵抗してやり返すのは造作もないが、ここは空気を読んで従うことにする。
拉致された先は屋敷の正面にあたる二階の客間だった。
「で、ウチがなにかまずいこと言うた? キミは餡の友達やないんか?」
「アタシは餡を友達と思ってるわよ。でも彼女は距離感と価値観がバグってるから、アタシが互いの利益関係で協力してくれてると認識してるのよ。餡がそういう思考になった理由はちょっと言いにくいんだけど……」
「幼いころに事故で両親を亡くして、祖父が特別な巫女の修行を優先したからやろ? きのう餡と一緒にファミレス行ったときに彼女から聞いた」
「ハァ!? 餡がファミレス!? てゆーかさらっとデートかよ! なによなによ、アタシの灰色の脳細胞が追いつかないわよ、あんたと餡の出会いをイチから教えてちょうだい!」
おー、すごいわー。好奇の光で両目ギラギラなのに嫌な気持ちをまったく感じない。楽しさを求める純粋な興味の塊や。これこそウチが成し得なかった、人生を全力で面白おかしく愉快に生きる人間の顔だ。
あんまり感心したので
「ギャルゲー主人公か!」
夢ちゃんが吠えた。
「ラッキースケベで清純巫女の豊満バストを揉んで、部屋を掃除してもらって、ファミレスでデートとかいうトリプルコンボを会ったその日に発生させるとか、どんなRTA走者なの! なんでそんな美味しいイベントにアタシを呼んでくれないのよ!」
刺繍入りの上品なハンカチをかんで、むきーっと悔し涙を流している。餡もそうやけど、この子はそれ以上にベタな漫画の表現が似合う女の子だ。
「もしかしてキミ、餡のことが好きなん? 恋愛的に」
「バッッッッッカじゃないのっ!? アタシにはれっきとした恋人がいるわよ! 幻夢境の住人でね、ウルタールの巫女にして大神官の娘という極上の美少女よ? 幻夢境から連れてくるのは無理だけど、その綺麗さをひと目でも見せてあげたいものだわ」
おお、ほんまに百合か。ええやないの。
「話を戻すわ。餡の祖父とは会ったことないけど、育て方に文句を言ってやりたいわね。ま、富豪だからって海外で暮らして日本に残った娘にはろくに構わず大金だけよこしてくるアタシの親も大概だけど」
この子にもいろいろあるんやなあ。キャラ濃いけど普通にええ子やないか。
などと感心してたら、急に室内が陰った。
んん? 曇ってきて太陽の光が弱まったんか?
いや、なんや、屋敷の外壁をなんかつるつるしたものが叩いてるような音がする。
おそるおそる窓のほうを見て、ウチは絶叫した。
「窓に! 窓に!」
ばかでかい魚の目が!
「
亜麻色の髪の少女が罵倒と同時に窓を開けてヒトデ型の石を投げつけた。
石が巨大な魚の目玉に命中すると、魚の叫び声が響き渡って窓から離れた。
あわてて階段を駆けおりて屋敷の外に出た。縞模様の紫色によどんだ空間がピンポイントで屋敷と庭を覆っていた。
黒髪の少女がお祓い棒を構えて「この大きな魚さんダゴンです!」と言った。
ああ、全長一〇メートルはある巨大な魚人が――
「ゴンゲーって鳴いとる。あの魚はウチの弟の直樹にちがいないわあ」
かわいそうに。ひもじくて餓死したから今度は腹いっぱい食べれるようにあんな大きなお魚に……。
「はい? ダゴンが弟って? 咲さん、なに言ってるんです?」
「ケッケッ、嬢ちゃんええおっぱいしてるなあ」
黒髪の少女の胸を青いブラウス越しに揉むと、彼女はびくんと体をふるわせて清純な顔を真っ赤にした。
「やああああっ! ど、どうしちゃったんですか!」
「ダメよ餡さん、こいつダゴンを見て正気を失ってるわ」
亜麻色の髪の少女が金属的なミニ香炉を取り出した。ヘンなにおいが鼻腔にくる。
「魔道士ズカウバの香よ。すぐ正気回復の効き目があらわれるから、餡さんはダゴンをぶちかましておいて」
「よくも……よくも咲さんを!」
黒髪の少女がめっちゃ怒って両手でお祓い棒を構えた。
大きな光の玉が浮かんだ。お祓い棒がぶんっと左にスイングされると、光球が直樹の右頬にクリーンヒットした。直樹の巨体が揺れた。遠巻きに群がってる小さい半魚人たちが「ゲェーッ!」と目ん玉飛び出す漫画表現で驚愕の叫びをあげた。
クセのある心地よいお香のかおりが脳に充満する……。
お祓い棒が右スイングされると、今度はナオキ――巨大魚――ダゴンっちゅうバケモンの左ほっぺに光の玉がぶちかまされた。一〇メートルの巨体がふらふら痙攣する。
右の頬をぶたれて左の頬もぶたれたら、最後はひとつだ。
平坂餡が大幣を下から上へ垂直に振り上げた。まばゆい光球がダゴンの顎を直撃!
少しのあいだ宙を舞った巨大な
餡が半魚人たちをキッとにらみつけると、彼らはみっともなく狼狽した。
「わ、われわれは、名前を言ってはいけないあの方にアイホートと契約してそこの三つ編みロン毛が持つアーティファクトを奪えと脅されただけなんだ! たすけてく……ぐぇぇぇえ!」
半魚人たちの頭頂が腹部までざっくりと裂け、内部から這い出した球形の白い蜘蛛みたいな気持ち悪い生き物が大量に紫空間のひずみへ消えていく。
空間のひずみ? そう、いつの間にか発生した時空の間隙から、ぶよぶよに膨れた白い楕円形の大きな肉塊が出現し、蜘蛛のような細いたくさんの脚を動かして、肉塊についた世にもおぞましい無数の眼でウチらを見つめたのである。
さらに戦慄すべきことに、ダゴンの巨体がゼラチンを思わせる肉塊にぎゅるぎゅる吸収されて跡形もなくなったのだ。
こいつや! 昨夜の悪夢に出てきた「なにか」はこいつや!
「アイホートですね」
大幣を構えた餡がよどみない声で断言する。恐怖に凍りつくウチと夢ちゃんとは対照的に、彼女の顔に浮かんでいるのは緊迫感のみだった。
「わたしと契約すれば命は助けてやろう。さもなければわが雛の餌食となる」
口らしき器官がどこにもないのに硬質の声が脳裏に伝わってきた。
「どちらもお断りします!」
餡が大幣を振るう。ダゴンをぶちのめした光の玉がアイホートへ剛速球したが、細い脚の先端が触れただけではじけ飛んだ。
「きゃああっ」
防御姿勢をとっていた餡が衝撃波でも喰らったようによろめいて膝をついた。
「大丈夫か、餡っ」
「はい、なんとか……。でも、これは、私の力ではとても調伏できません」
うわマジでピンチやん。旧支配者ってここまでヤバイんか。
そのとき、夢ちゃんが小走りでウチらの前に出て邪神と対峙した。
おお、これはもしや、幻夢境のマジックアイテムで活躍する展開に期待してもええんか?
「アイホート、あんたと契約すればアタシを助けてくれる!?」
なにいうてんねん。
「そうだ。わたしと契約してそこのふたりを捕まえればおまえの命を助けてやる」
「嘘じゃないわね? アタシまだ死にたくないのよ。本当の本当に言うとおりにしたら助けてくれるか約束して!」
ウチと餡が唖然と見つめるなか、夢ちゃんは土下座して命乞いした。
「お願いしますアタシの命だけは助けると約束してくださいなんでもしまむら!」
「約束しよう。わたしと契約し、命令を実行するのだ」
そして彼女は顔を上げると――
「だが断る」
あー、あの、あれ、ウチでも知ってる有名な漫画の有名な返しを、顔の角度と表情そっくりに真似て言ってのけた。
アイホートの返事はなかった。
さしもの旧支配者もリアクションに困ったか、ネタが寒いと感じたか。
立ち上がった夢ちゃんが、ドヤ顔でふんぞり返って嘲笑しながらアイホートに人差し指を突きつけた。
「あっはははははは! ちょっとでも信じるなんて大バカね! いやあ、正しい用法で言ってみたかったのよいまのセリフ!」
「いやいやいや、キミの度胸は称賛するけど、この状況で相手を挑発してどないするねん!」
「そうだよ! こういうときの都ちゃん無謀無策だもんっ」
「死ぬがよい」
はい、死刑宣告きた。
「あっははは、問答放棄とは、アイの怒りが有頂天ね!」
なにわろてんねん。もうめちゃくちゃやんこれ。
アイホートが前進した。
ここまでか。
餌食の運命が迫ったとき、突如として近くの空間から別個の物体が出現した。
アイホート以上に大きな黒い蜘蛛だった。無数の真っ赤な複眼を光らせている。
こんなとんでもない状況でウチと夢ちゃんが狂わずにいられるのは、夢ちゃんの持つお香のおかげにちがいない。
黒い蜘蛛を見上げた餡が、ぼそりとつぶやいた。
「アトラック・ナチャの
アイホートが前進を停止して、アトラックなんちゃらのほうに向きを変えた。
にわかに黒い蜘蛛が二本の脚を伸ばし、白い蜘蛛みたいな肉塊が複数の脚で応戦した。
みしり みしり みしり ぶおおおおおん
まってまって。バケモン同士の激突で凄まじい空間の振動が発生してるんやけど!?
「人間たちよ、強い力で防壁を張らなければ我らの衝突によりお前たちも屋敷も消し飛ぶぞ」
黒い蜘蛛が甲高く癇に障る人間の声で語りかけてきた。
「それもっと早く言いなさいよ!」
大声で悪態をついた夢ちゃんが、ぶつぶつなにかの呪文を唱えながら走り出す。ウチらの前からスタートして、屋敷のまわりを一周したあと真ん中を通って戻ってくると、不思議なことに巨大蜘蛛の取っ組み合いから発散される衝撃がピタリとやんだ。
「ウルタールの大神官から教えてもらった〈ナアク=ティスの結界〉よ。強力な透明防壁ってやつ」
ぜえぜえと息を吐いて親指を立てる夢ちゃんを、ウチと餡が拍手して褒めた。
結界の外ではアトラックナランチャが二本の脚でアイホートの胴体を掴み上げ、そのまま後方に反り投げて地面に叩きつけた。
このジャーマンスープレックスが決め手になったようで、アイホートはぐしゃぐしゃにひしゃげた躯を引きずって空間のひずみに姿を消した。
ウチと夢ちゃんが興奮に湧いた拳を突き上げて勝利のゴングを鳴らす。
餡が救いの主に頭を下げてお礼を述べた。
「汝がそこの三つ編み女の部屋で掃除した際に蜘蛛を逃がしたおかげで、先程の輩が差し向けた雛の餌食にならずにすんだ。深淵に縁ある汝への返礼だ。但し、先程の輩はまだ諦めぬだろうし、異なる深淵に縁あるものが汝を狙っている。気を付けるがよい。それと、我を呼んだのは幻夢境の巫女が汝と我に繋がる縁の糸を結んだからゆえ、感謝はそちらの娘にするがよい」
ウチらが振り向くと、一人の少女が屋敷の玄関から出てきたところだった。
なめらかでエキゾチックな褐色の肌とプラチナブロンドの長い髪、宝石の輝きを秘めたエメラルドグリーンの瞳、オリエントと西洋の折衷みたいな衣服を着た、それはもうとんでもなく綺麗な美少女だ。ウチは(反応からして餡も)初対面だが、夢ちゃんだけ驚いた顔で口をぱくぱくさせていた。
美しい少女が抑揚に乏しい透き通るような声を発した。
「バケモンにはバケモンをぶつけんだよ。ミヤコが教えてくれた作品のセリフどおりにしてみたぞ」
「ちょちょちょ、ちょっと、ナル! どうやって
夢ちゃんの恋人だろう美少女は、夢ちゃんに微笑を返し、ウチと餡に向かって両手を合わせておじぎした。
「ドーモ、初めまして。ボクはウルタールの現大神官ヒノウエの娘、ナルニワだ」
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