応援コメント

ドルメン 第 62 話 エピローグ」への応援コメント

  •  この話の怖いところ(よく分からないところでもある)は、
    「イカレた教団の企みになんか負けない!」的な立ち位置だったはずの主人公がいつの間にか(というか突然ラストで)
    「オレがドルメンだ(キリッ)」みたいな勢いで殺人上等教団そのものになっちゃってるのが……分かんなくて怖ェ!
     祖先からの血に覚醒するのが一つの転機ではあると思うんですが、その時点ではまだ理性よりだった印象でしたが……?

     あるいは、「人間は遺伝子の乗り物に過ぎない」という考え方があるように、皆が「『ドルメンの力』というシステム(あるいはそういう神)の中に、無自覚に巻き込まれていった」のかもしれない……そう感じました。
     誰もが……犠牲者だったんだよ! そうとでも考えないと父ちゃんのフリーダムっぷりとか主人公の変容が怖すぎる。

     呪術や伝説の研究書『金枝篇』に、「ローマのネミの森には聖なる木とそれを守る王(祭祀者)がいる」「だが別の者がその木に触れたとき、王は殺され、木に触れた物が新たな王となる」という伝説と
    「それは神の依り代たる王が代替わりすることで、神にも若さと新たな力を復活させるための儀式である」という解釈が書かれていました。このドルメンの話もそれに近いものがあるのかもしれません。

     あまり関係ないけど、このドルメン信仰みたいな「ウィッチクラフト」の神にアラディアという神格があるんですが。ゲーム『真・女神転生3』では面白い解釈がされていまして「希望の神」「虐げられている者に希望を与える神、だが救う力は無い無力な神」という(ゲーム独自の解釈)。
     ある意味余計残酷な神ですが……だからといって犠牲を強いて力を持つドルメンの神もどうなのとは思います。というか(イカワさんも言っていたのと同じく)結局ドルメンの力って具体的に何……?

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    木下さんのコメントにツボを突かれてしまったので返信が長くなってしまいました。

    『ドルメン』の翻訳中に、ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』を読んでいたんですが、この中にイニシエーションとしてのカニバリズムの解説が出てきます。キャンベルによると、オーストラリアの先住民の間には男子が成人する際の儀式として、同族の成人男子から取った血を飲む、または儀式のために殺された人間を食する習慣があり、キャンベルはこの儀式を成人になるための苦難と捉え、この苦難を乗り越えてこそ神の世界を理解し、そこに入ることができる、と解説しています。

    また、同書の最初の章は神話の原型についての解説なのですが、その中に世界樹が出てきます。キャンベルは、世界樹は世界そのものを表していて、世界樹を通じて天と地をつなぐエネルギーが循環するというようなことを言っています。「こうして魂に満たされた太陽(天)は、神に糧を供給する器、汲めども付きぬ聖杯になり、捧げられたもので満ちる。生贄の肉体は文字どおり肉となり、血も文字通り飲み物になる。(中略)『私の肉を食べる者、わたしの血を飲むものはわたしの中にあり、わたしもその者の中にいる(ヨハネによる福音書)』」

    まさに、『ドルメン』の中の儀式のモチーフが凝縮されていて、ピメンテルさんはこういった原型について学習していたのか、ピメンテルさん自身の神話として集合(無)意識から湧き上がったものなのか、聞いてみたい気がします。

    「人間は遺伝子の乗り物に過ぎない」と言ったのはリチャード・ドーキンスですね。人間というか、生命が誕生した時点から、生き物は、外界を自分が処理できる程度に解釈しながら生き抜いてきていると思うんですね。石器時代の人たちは、自分たちの世界を「太陽」という神が司っていると考えていた。その太陽がアポロンとなり、キリストとなり、科学が取って代わった。でも、科学が取って代わったと思っている人たちは全世界空見れば一部の人だけで、残りの人にとっては、未だにアラーだったり、キリストのお父さんだったり、様々な呪術だったりしている。

    アフリカの人たちなどは呪術を日常的に使っていて、ヨーロッパに移民してもその習慣を引き継いでいたりします。そういう意味では、アフリカのお向かいのスペインでこの小説が書かれたのはそういう習慣が身近にあったからかもしれません。

    ただ、ピメンテルさんが、まだ私たちが原始の精神に近くて呪術を通じて世界を見ているときに、呪術が心理的に象徴するものを現代の視点から明確に打ち出して、このお話を書いていたとしたらもっと深い小説になったんじゃないかな、と思います。その辺りを「うわ、カニバリズムだ」とか「血みどろだ」でセンセーショナルな娯楽で終わらせてしまっているので、「で、結局なんだったの?」となってしまうのではないかなと思いました。

    まあ、所詮娯楽小説でしょ、という見方もありでいいと思うのですが、でも、空想だったとしても人間性って出るでしょう。木下さんの小説で、崇春くんが「救うてみせるわ」と断言するのは、目の前で苦しんでる人がいたら見捨てたくないと木下さんが感じるからだと思います。
    シリアでアサド政権が崩壊し、セドナヤ刑務所で拷問の形跡のある複数の遺体が見つかりました。それこそ、『ドルメン』の儀式のような残虐さです。娯楽小説で読むのと、ニュースの記事で読むのとでは重みが異なり、そういう意味でもカニバリズムという残酷ではあるが実際にある習慣を取り上げるなら、それなりの深みはあった方が良かったんじゃないかな、と思いました。

    まあ、神さまは実際希望は与えられても救うことはできないんで、「希望の神」は妥当だと思います。自分を救えるのは自分だけです。キリッ