それは甘くて醜い

 それからの事は良く覚えていない。

ただ、急いで浴室のタオルで止血し携帯で救急車を呼んだこと。そして狂ったように救急隊に向かって何かを叫び続けていた事はボンヤリ覚えている。

お陰で喉が痛い。

母は一命を取り留めた。

連絡が早かった事と、応急処置が良かったせいだと言われたが私の心は千々に乱れていた。

母は・・・私の手を汚させまいとしたのだ。

その上で罪滅ぼしをしようと。

その相手・・・母は病室のベッドで静かな寝息を立てている。

多量に出血したので顔色は悪いが、数日入院すれば問題ないだろうと先生は言ってくれた。

ママ・・・

私は母の額にかかっている髪をそっとあげると、そのまま額を優しく撫でた。

思い出した。

子供の頃。まだ一緒に住んでいた頃。

怖い夢を見て寝付けなかった私に母はそっと額を撫でてくれた。

そうすると、母の手の暖かさが頭の中に染み込んでくるようで、不思議と不安が消えたのだ。(カンナ、怖くないからね。おやすみ)

その時の母の声が聞こえてきた。

なんで・・・忘れてたんだろう。

結局、私も自分の憎しみを正当化するために、母の優しかった所や弱かった所に蓋をしていたんだ。

そうしないと、捨てられた事を正当化できないような気がしたから。

「ごめんなさい・・・」

そうつぶやいた時、病室のドアが開き、朝尾先生と杏奈が入ってきた。

「大丈夫?一体何があったの・・・」

杏奈と先生は不安そうに私を見る。

答える内容は用意していたので、それを話した。

この人は私の母親だった人だ。

昔、事情があって離ればなれになったけど、昨日コロッケを買いに行ったとき面影があったので聞いてみた。

家に行ったけど、母は昔に引き取れなかった罪悪感から自傷行為を行った。

何て拙い内容だと思ったけど、半分事実を混ぜたせいか二人とも酷く驚きはしたけど納得してくれた。

何より、私が憔悴しきっておりそれ以上あれこれ聞ける感じでは無かったのだ。

そのため、二人とも何も言わずに病室を出て行った。

それでいい。

今は誰もいらない。

母が目覚めたら・・・どうしよう。

その時。

再び病室のドアが開き、朝尾先生が入ってきた。

「どうしたんですか・・・もう、帰ったかと」

「やっぱり山浅さんを一人には出来ないな、と思って。お母さんが目覚めそうになったらすぐに居なくなるけど、それまでは」

「それは・・・いいですけど」

朝尾先生はニッコリと頷くと、私の近くにパイプ椅子を持ってきて座った。

「・・・僕は昔、児童養護施設にいたんだ」

突然の言葉に私はポカンとした。

この人も・・・

「僕は両親から育児放棄・・・今で言うネグレクトをされていてね。誰もいない部屋でほったらかしにされていた。僕は暴力も受けていたから、幸運にも近所の人が通報してくれて保護されたんだ」

私と・・・一緒。

「それから名古屋の児童養護施設に入ったんだけど、ずっと荒れていてね。恥ずかしい話しだけど非行の道に入っちゃって、結構色々やって警察に何回もお世話になった。今思えば馬鹿な話しだよ」

「先生が・・・」

話しを聞きながら心底驚いた。

そんな過去があるように見えなかったし、何なら朴訥とした雰囲気からは「荒れていた」と言う言葉も全くうかがえない。

「その根っこには『親に愛されなかった』と言うのがずっとあったんだ。子供にとって親に愛されないと言うのは、他人が想像できないくらい深い傷になる。自分と言う存在を要所要所で全否定されているみたいに思えてしまう。でも僕の場合はある時、施設に住んでいた6歳の女の子が僕が警察に連れて行かれるとき、泣きながら追いかけてきたんだ。最初は恥ずかしいな。この程度で、と思ってたけど、その子を見ているとふっと感じたことの無い気持ちが沸いた。『自分のために泣いてくれる人がいる』そう思ったとき、突然泣けてきた。それ以来悪ぶってるのが、馬鹿馬鹿しくなってね。僕も誰かのために生きて、泣きたい。そう思って、恩返しのつもりでこの道に入った」

そこまで話すと、先生は私の方を見てニッコリ笑った。

「山浅さんの事情を聞いて、勝手に申し訳ないけど親近感を感じた。僕は結局今でも両親には会えてないけど、山浅さんはこうしてお母さんに会えている。そしてそうやってそばに寄り添うくらいに気持ちを寄せる事が出来ている。だから、その助けになれたら嬉しいんだ」

先生の話を聞きながら、私は例えようのない安らぎを感じていた。

胸がこんなに暖かくなるなんて。

この人と私は深いところでつながれているのかな?

そう思ったとき、ずっと昔から・・・高校生の頃・・・いや、もっと前か。ずっと感じていた感情の正体に不意に気付いた。

もしかして私は・・・

そっと朝尾先生の顔を見た。

朴訥とした、特に整ってる訳でもない容姿。

ボサボサの髪に洒落っ気のないバーゲン品のシャツ。

でも、この人と一緒に居るときはずっと昔から、素直に笑えたし冗談も言えた。

そう、この人といる時私は「家族」を手に入れることが出来ていたのだ。

でも単なる家族じゃ無い。

私はこの人をずっと男性として見ていたんだ。

だから、施設を出た後の醜く歪んだ私を見られたくなかった。

私はこの人に「女」として見て欲しかったんだ。

そう・・・私は、この人を愛している。

「どうしたの、山浅さん?」

「・・・いえ、何でも無いです」

私は顔を伏せた。

気持ちを実感すると顔を直視できない。

胸がドキドキする。

しかも母は眠っているため、私と先生の二人きりなのだ。

でも、こんな私とじゃ・・・

だが、不意に思い出した。

そうだ、私はカンナじゃない。美空なんだ。

カンナだったら先生に気持ちを伝えるなんてとても出来ない。

可愛くもない、愛嬌もないカンナじゃ困惑して距離を置かれるのが関の山。

でも、美空なら・・・

美空の美しさなら、先生もきっと私を見てくれる。

私を「女」として見て、心を寄せてくれるはず。

そう、この人とだったら私はやっと幸せになれる。

先生も美空だったら申し分ないはずだ。

きっと喜んでくれるに違いない。

「大丈夫?山浅さん。凄く汗かいてるけど」

「あ、はい。大丈夫です」

私はハンカチを取り出すと、慌てて汗を拭いた。

こんなに汗をかくくらい緊張してたなんて。

「はい、これ飲んで。普通の水で申し訳ないけど」

私はお礼を言うと受け取って、一口飲んだ。

先生のお水。

なんて事のないミネラルウォーターなのに、それはとても甘い味がした。

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