どうして

目の前を歩くかつて母だった女は心なしか小さく見えた。

記憶の中の母はまるで巨人みたいに見え、それも恐怖を感じていた物だが、こうしてみると小柄な美空の身体とさほど変わらない。

恐らくカンナの身体であったなら、母を見下ろしていただろう。

もちろん、小さく見えるのは気のせいばかりではなく、不安に押しつぶされそうになっているせいとも思われる。

それはそうだろう。

昔、男と共にゴミのように気軽に捨て、19年以上顔も見ること無くきっと存在も忘れていたであろう子供。

そんな子が、新しい娘と恐らく夫と共に幸せな家庭を築き、コロッケ屋も開いて順風満帆な生活をしている最中に別人となって現れたのだ。

冷静になれというのが酷な話しだ。

だが、それは私も同様だった。

表向きは平然としていたが、正直この後どうしたものかと考えていた。

と、言ってもする事は二つしか無いのだけれど。

一つは、過去の恨み辛みをぶちまける。

もう一つは・・・

脳の中では母との様々な有り難くない記憶・・・虐待の記憶がまるで逆回転のテープから流れる音のように、ハイスピードで意味不明な形で溢れていた。

まともには直視できないので、思い出すときはいつもこんな意味不明な形を取って現れる。だが、不思議と中身は理解できるのだ。

「・・・あのお店、知り合いの方から営業を任せて頂いているの。その人が元々やってたお店なんだけど、腰を痛めちゃってね。だから、アパートは別なの」

「はあ、そうですか」

「・・・元気にしてた?」

「はい、本当に色々ありましたが元気です。あれからコロッケを食べれなくなったのと、クリスマスが大嫌いになった程度です」

「・・・ゴメンね」

私は何も言わず、母の背中をずっと見つめた。

先生や杏奈には迷惑をかけたくない。

でも・・・もしかしたら私は・・・

そもそも、家には娘がいるんだろう?

それなのに、私をそこへ連れていこうとしている。

私がどう思うかも分かるくせに。

やっぱりこの女は変わっていない。屑は屑なんだ。

そうだ。

そんなに新しい娘を見せつけたいなら、期待に応えてやろう。

その娘の前で、この女が私にしてきたことを全部話してやる。

そしたらどう思うだろう。

号泣しながら話せばきっと説得力も増す。

そんなことを考えていると、やがて小さく古びた木造アパートが見えてきた。

今時中々珍しい前時代的な感じだ。

どうやら二階に住んでいるらしい。

錆の浮いている階段をカンカンと音を立てながら上る母に続いた。

「施設の方の時間は大丈夫なの?」

「施設には連絡してあります。私はそこの児童ではないので、生活においてはある程度自分の裁量に任されています」

「そう・・・」

隅の部屋に住んでいるようで鍵を取り出すと、ガチャリとドアを開けると私を先に通した。中に入ると、軽く驚きを感じた。

薄暗い玄関からすぐ左側のキッチンとリビング、そして右側に見える4畳半程度の畳張りの部屋には驚くほど何もなかった。

せいぜい布団や小さなカラーボックス、そして小さなテレビがある程度。

記憶の中の母は可愛い小物や家具が大好きで、良くそういったグッズで部屋を飾り立てていた。

今思えば、彼女はその世界に救いを求めていたのかも知れないが。

男に捨てられて、醜い娘が居るだけ。経済的にも困窮している現実。

そこからの唯一の逃げ場だったのかも知れない。

そして左側にも部屋があるようだが、そちらはふすまで閉じられている。

「どうぞ、上がって」

私は靴を脱ぐと中に入った。

母は、私に続いて入るとすぐにキッチンに向かい、テーブルに置いてある柿を取ると棚から包丁を取り出した。

「良かったら柿でも食べない?頂き物だけど、とても甘かったの」

「いえ、結構です」

この家で水一滴ももらう気がなかった私はすぐさま拒絶した。

「そう、じゃあお茶でも出すわね」

「それも結構です。それより娘さんはまだ帰られてないんですか?」

「娘は・・・それより、私に話したいことがあるんでしょ?良かったらそこの椅子に座って」

そう言うと母は包丁をそのままテーブルに置き、後ろを向いた。

私は包丁を一瞥すると、近くの椅子に座った。

「あなたも座ってください」

「私はいいわ」

しばらく沈黙が流れた。

母は後ろを向いたままなので、表情も分からない。

何を話せば良いんだろう?

部屋の中のどことなくかび臭い匂いがやたらと鼻につく。

外からは女の子と母親の話し声が聞こえる。

女の子が何かで叱られている感じだ。

「どうして・・・」

私はポツリとつぶやいた。

一度口を開くと、言葉が次々と浮かぶ。

「どうして置いていったんです?あの時、私あなたの背中に向かって叫んでました。『行かないで』って、何度も。『良い子になるから』って、何度も。あの時のあなた、あの男にしがみ付いてました。何かから隠れるように。私から隠れてたんですか?」

母は後ろを向いたまま何も言わなかった。

「どうして私を虐めてたんです?私、一杯頑張りました。絵だってお手伝いだって。なのにどうしていつも叩いたんです?一度だって『がんばったね』とか『えらいね』とか言ってくれたことなかった。私『つぎはきっと言ってくれる』って、それだけを・・・楽しみに・・・」

話しているうちに、言葉が詰まってきた。

どうやら涙が出てきているらしい。

でも母はやはり後ろを向いたまま、何も言わない。

私は椅子から立ち上がると、母に近づいた。

「あなたは結局一度も言ってくれなかった。いつでも私が醜いって事ばかり。・・・ねえママ、私可愛くなったよ?みんな私の事を振り返って見とれてる。それでも、まだ私を見てくれないの?・・・ねえ!」

「・・・ごめんなさい」

「私の顔を見て言いなさいよ!」

私は怒鳴りつけるようにそう言うと、母の肩を掴んで強引に振り向かせた。

すると・・・母は泣いていた。

涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。

「ごめんなさい・・・」

「もう私はカンナじゃない・・・あなたはコロッケ屋で私に笑いかけてくれた。でも、私は・・・カンナに笑いかけて欲しかった。もう遅いんだよ。新しい家族の居るあなたに、偽物の私を見てもらっても・・・意味ないじゃん!ねえ!」

母は顔を覆うと、声を上げて泣き出した。

私はもう自分の感情が止まらなかった。

私の視線は左側のふすまの閉まっている部屋・・・きっと新しい娘の子供部屋であろう場所に向いていた。

「あそこは可愛い娘さんのためのお部屋なんですね。他は殺風景だけどさぞや可愛らしいんでしょうね」

そう言うと私はその部屋に向かった。

「待って、カンナ!そこはダメ」

「うるさい!」

ああ、もうダメだ。

新しい娘さんに何の罪も無いのは分かっている。

でもごめんなさい。もう無理なんです。

あのふすまを開けて・・・部屋を滅茶苦茶にしてやる。

それで私の事を二度と忘れられないようにしてやる。

私はすがりつく母を乱暴に振りほどくと、ふすまに近づき勢いよく開けた。

そこには・・・

「え?」

私は言葉を失い呆然と突っ立っていた。


 

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