奔流
「あら、いらっしゃい。また来てくれたんですね」
「はい。施設の帰りにここのコロッケを食べるのがルーティンなんです。でないと一日終わりません」
杏奈の言葉に彼女は口に手を当てて可笑しそうに笑う。
「もう、杏奈ちゃん・・・おかしな子」
「どういたしまして。あ、おばさん。コロッケ3個ちょうだい。1個は別の袋に」
「はい」
そう言うと彼女は慣れた手際でコロッケを取り出し紙袋に入れる。
そして笑顔で杏奈に手渡した。
「ありがと、おばちゃん!はい、美空ちゃん。どうぞ」
そう言われて1個入っている方の紙袋を杏奈から受け取った後も、私は目の前の女性から目を離せなかった。
「あ、そちらの方は杏奈ちゃんの友達?」
「はい、色々あって今は愛生院のお手伝いをしてくれてるんです」
「そうなんですか。お若いのに偉いですね。まるでアイドルみたいに可愛いのに、そんな事まで」
そう言うと、私にニコニコと柔らかい笑顔を向けて軽く頭を下げた。
なんて・・・優しい笑顔。
私は心臓がずっと大きな音を立てて鳴っているのを感じた。
それと共に、頭の血管が酷く脈打っているのも感じる。
手が震える。
間違いない。
コイツは・・・母だ。
年齢を重ねたと言ってももたかだか10数年。しかも声や目つきに至っては全く変わっていない。
忘れようとしても忘れられるわけが無いでは無いか。
「・・・美空ちゃん。どうしたの?」
ハッと我に返ると、杏奈が心配そうに見ている。
私は慌てて作り笑顔を見せた。
「ううん、大丈夫。ゴメンね、考え事してた。初めまして、山浅美空と言います。与田さんにはいつもお世話になっています」
そう言ってぺこりと母であろう女に頭を下げる。
「初めまして。私は進藤優子(ゆうこ)です。お店の『ゆっこおばさん』は私のあだ名なんです」
知っている。
昔、男を連れ込む度に自分を「ゆっこ」と呼ばせていただろう。
そばで身を縮こまらせている私をほっといて。
「ゴメンね、杏奈。私、ちょっと施設でやること思い出したから、帰るね」
「・・・あ、うん。またね、美空ちゃん」
その声を聞き終わらないうちに、私は振り返って歩き出した。
背中に「有り難う。また来てね」と言うあの女の声が聞こえたが、それも鳥肌がを立つだけだった。
畜生。畜生。
歩きながら私は小声で何度もつぶやいた。
あの看板の「ゆっこ」を見たときに気づくべきだった。
そうすればそこで引き返して、こんな思いをすることも無かったのに。
その夜。
愛生院の元々相談室として使われてた部屋で、座椅子に座って奔流のような暗い感情に悶々としていた。
浮かぶのは母のコロッケ屋で見せていた優しい笑顔と口調だった。
変わったな。
それが素直な印象だった。
私の記憶の中の母は、人生に疲れ切りいつも何かに不満を持っているような憮然とした表情だった。
自分が夫であり父となるはずだった最大のパートナーに裏切られたショックに囚われ続け、その原因を幼い私に向けることでかろうじて精神のバランスを保っていたせいだろうか。
口を開けば私や周囲の人間へのひがみと呪詛ばかり。
それなのに。
あの店でのアイツはどうだ。
憑きものでも落ちたかのように別人だ。
だが・・・
その表情を思い出す度に、暗い炎が心の奥で灯るのを感じる。
私にはあんな笑顔見せたこと無かったくせに。
世界の全てを呪っているんだとばかり思っていた。
でもそうでは無かった。
呪っていたのはもしかしたら私と自分を捨てた男に対してだけだったの?
そう思うと、脳のあちこちが酷く脈打つのを感じる。
学校で他の生徒から「お母さんが・・・」と言う単語を聞く度に胃がギュッと締まるような嫌な気持ちを感じていた。
クリスマスのイルミネーションやお正月の神社に集まる家族連れを見る度、泣きたくなるような、自分を粉々にしたくなるような、悔しいのか悲しいのか分からない気持ちになった。
そんな呪縛に囚われている間、何があったか知らないがアイツはあんな笑顔になれるような人生を歩んでいたのか。
そう思うと、身体が震えてくる。
私は深くため息をつくと、杏奈にラインしてあのコロッケ屋の営業時間を聞いた。
もうどうなってもいい。
アイツだけ勝ち逃げなんてさせるもんか。
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