31 黒き妖精、夜を駆ける

 ボリスとの秘密会談から、一月余りが経過した。

 スヴェトラーナはまだ、学園に復帰していない。

 追随するようにアナスタシアも休学している。


 この間、二人が何をしていたのかといえば、トレーニングである。

 朝日で自然に目を覚ますことから始まる。

 朝はそれでもまだ軽い部類だった。

 郊外までの慣れ親しんだコースをジョギングするだけ。

 たかだかである。


 慣れなかった頃のアナスタシアは往路の一時間で体力と気力の限界を迎えていた。

 復路の一時間はスヴェトラーナが妹をおんぶして帰るのが常だった。

 それでも何ともなく、「いいトレーニングになるわね」と涼しい顔のスヴェトラーナにリュドミラとアナスタシアも呆れるより、ただ驚くばかりである。


 しかし、次第にアナスタシアに基礎体力がついてくれば、話は違う。

 姉妹で談笑しながら、優雅にジョギングをこなせるようになっていた。


 二時間からのジョギングから、帰宅するとリュドミラと朝食を摂るのが彼女らのルーチンワークだ。

 これは下宿するにあたって、リュドミラとの約束だったがそれ以上の意味合いが三人にあった。


 リュドミラと公女姉妹は今や家族も同然である。

 姉妹は元々、庇護する大人がいない状況で育った複雑な身の上。

 肩を寄せ合うように生きてきたと言えば、聞こえはいいが実際は矢面に立つスヴェトラーナ一人がその身で受けていただけだ。

 リュドミラはそんな幸薄き姉妹の母親代わりを引き受けた。

 欠けた物同士が合わさったように……。

 今や三人は共同体と言っても過言ではない。




 リュドミラ・メドベージェフ。

 彼女もまた数奇な運命に弄ばれた半生を辿ってきた。


 家族はいない。

 リュドミラはハニーブロンドの髪とスカイブルーの瞳を持って、この世に生まれ出でた。

 遠い先祖にあたる妖精アールヴの血が起こした先祖返りである。

 両親ともに黒い髪で親戚にもそのような毛色の者がいなかったこともあり、母親が不貞を疑われ夫婦仲は冷え切った。

 そのような状況でリュドミラに愛情を傾ける者など誰もいない。


 寂しい子供時代を送ったリュドミラはやがて、己が人と異なる力を有する――異能の持ち主であることに気付いた。

 おとぎ話に出てくる魔女のようにが使える。

 まだ、子供だったリュドミラは深く、考えもなしにソレを使った。


 ソレは彼女に何を招いたのか。

 絶望である。

 実の親から「化け物!」と呼ばれたリュドミラの心はその時、一度死を迎えたのだろう。


 そして、彼女は行き先も告げず、一人家を出た。

 十三になるか、ならないかの頃だった。


 家族からも化け物呼ばわりされたリュドミラだが、容姿端麗。

 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花の言葉がよく似合う浮世離れした美しさは妖精の血を引いている証左だった。

 しかし、その瞳はまるで深淵を覗いてきたとでも言わんばかりに酷く澱み切っている。

 自然と声をかける人間など、まばらになっていく。

 ゆえにリュドミラは長らく、孤独だった。



 彼女の心は既に幼少期に死んでいる。

 次第に心を病むのも道理ではあった。

 この頃である。

 リュドミラが妙な誓いを立てたのは……。


「あたしはの願いを叶えるになろう」


 黒革のボディースーツに身を包み、闇夜に紛れるが誕生したのはこの瞬間だった。

 リュドミラが目指したのは恐らく、違ったものなのだろう。

 欧州ではクネヒト・ループレヒトやクランプスと呼ばれる存在が信じられている。

 聖なる日に現れる懲罰者だ。

 悪心を持つ不心得者に罰を与え、善き行いをする者に福音を授ける来訪者とも言える。


 リュドミラはそうならんと欲したが、その行いはあまりに苛烈だった。

 同じく苛烈な裁定を下す女神ペルヒタの如く……。


 その一例が正義を望む弱き者マルコヴィチの願いを聞き入れ、マクシムを退治したことである。


 そして、この誓いはやがてリュドミラ自身をさいなむ原因となっていく。

 一度立てた誓いは撤回することが出来ない。

 誓いを交わした者を害することもまた、出来ないのである。

 彼女が善なる者と信じ、力を貸した男が道を踏み外そうとも何も出来ないのだ。


 現実を逃避するようにリュドミラは己が殺めた男の遺児ボリスを引き取り育てた。

 しかし、愛を知らずに育ったリュドミラである。

 愛情の注ぎ方も当然のように分からない。

 彼女の愛は持て余した母性愛にも似た重すぎるものだった。


 ボリスとの間にもぎくしゃくした関係しか築くことが出来ず、リュドミラはまたも逃避するように下宿を営み、そのまま歴史の表舞台から去るつもりだった。

 ところが何たる運命の悪戯か。

 伝説の暗殺者と公女の出会いは偶然ではなく、必然だったのだろう。




 この一月余りの間、不審な死を遂げる者が急増していた。


 何もない見通しのいい交差点で単独事故を起こし、即死。

 高速列車の窓を開け、身を乗り出したことによる転落死。

 いずれも自殺ではなく、単なる事故死として処理された。


 警察の捜査では何ら、不審な点が見つからなかったのだ。

 誰もが自然に自らの意思でそうしたとしか、思えない状況で説明がつかない。


 しかし、被害者が札付きの破落戸ごろつきや鼻つまみ者ばかりだったこともあったからだろう。

 人々は訝しく思うより、世の中が良くなったと考える者の方が多かった。


「あたしゃ、誓いを破っちゃいないよ」


 リュドミラは目を通していた新聞をテーブルに戻すとふぅと小さく、息を吐く。

 新聞の一面で大きく取り上げられた記事は、とある大物議員ラマン・レフチェンコの変死事件を取り扱ったものだった。

 ラマンは前議長マルコヴィチ・ポポフスキーの腹心として知られた男だ。

 議会古参の一人であり、御意見番などと担がれた人物である。

 時にテレビだけではなく、SNSまで使い、マルコヴィチに忖度する働きかけを行ったマルコヴィチ派の首魁と言ってもいい。


 彼は心臓に持病があり、薬を飲んでいた。

 ところが心臓発作で呆気なく死んだのである。

 正確には併用してはならない薬を飲んだのが原因だった。

 そのせいで急激な血圧低下を起こし、発作が起きたのだ。

 ラマンは慎重な性格でも知られ、そのような真似をするのはおかしい。

 そんな遺族の証言も記事に掲載されていた。


「それを飲んだ方がって、言っただけさね」


 リュドミラの口角が僅かに上がり、口許が緩やかな弧を描いた。

 公女の前では決して、見せない表情だった。


 裏事情を知る界隈で一つの噂が囁かれ始める。

 鳴りを潜めていた『黒き妖精』が、息を吹き返した。

 心当りのある者は覚悟すべきと……。

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