30 『魔王』と『公女』

 公女一行と現議長ボリス・ポポフスキーの会談はリュドミラがいなければ始まらず、リュドミラがいなければ終わらなかった。

 スヴェトラーナの迫力に押されたボリスだが、即断即決する甲斐性がある男ではない。

 熊の二つ名を持つ父実父マクシムは良くも悪くも決断力のある男だったが、ボリスは奸物マルコヴィチに引き取られ、女傑リュドミラに育てられたとは思えないほどに柔和な人柄のお人好しである。

 熊は熊でもテディベア。

 ぬいぐるみの大きな熊さんに近い男、それがボリスだった。


 公女にどんなに凄まれようと「あー。うー」とお茶を濁すように言葉怪しく、誤魔化すことで何とか悲壮な決意を固めた公女を翻意させたいと考えてのことだった。

 スヴェトラーナとアナスタシアが公女とは名ばかりで不遇に耐えているのは彼とて、知らなかった訳ではない。

 それでも公女として育てられた人間である。

 望み通り、平民になったとして、急に平民の暮らしを送れるとはとても思えなかった。


 ボリスは例え、愚か者のレッテルを貼られ、謗られようとも甘んじて受ける所存だった。

 それが力なき己の取れる王家への最大の敬意であるとも考えていた。


 しかし、リュドミラがそれを粉微塵に砕いた。

 「このすっとこどっこいが! この子らの覚悟を見な!」と啖呵を切る義母の剣幕はスヴェトラーナの比ではない。


 スヴェトラーナには前世の『魔王』フォルカスとしての矜持があった。

 『魔王』は強者である。

 強者は弱者を虐げてはならないとの考えにフォルカスが至るまで、様々な出来事があったのは事実だ。

 フォルカスは百八のを知る者――同じ『魔王』たるカークリノラースグラシャラボラスから、手解きを受けている。

 武器を持たずとも手を下さずとも相手をどうにかする手段を知っている。


 そんな前世を持つスヴェトラーナだからこそ、ボリスに対し物理的な手を用いなかった。

 彼が悪意を持った者であれば、話は違っただろう。

 だがボリスは善なる者、白き者。

 善意をもって己に対していると気付かぬスヴェトラーナではない。

 あくまで手加減をしたうえで凄みを利かせたにせよ、何とか凌いで見せたボリスは十分に称えられるべきかもしれない。


 ところがリュドミラはそういったしがらみを一切、無視する女だった。

 立ち上がるや否や啖呵を切り、いくら腰掛けているとはいえ大柄なボリスの胸倉を掴み、頭がぐわんぐわんと鳴るほどに揺さぶる様子は鬼気迫るものがあった。


(まるでカークリノラースのの一つね)


 スヴェトラーナは物騒な感想を口にはせず、再び開いた羽扇子で口許を隠し、静観の構えを見せる。

 ここで止めるのは得策ではないと踏んだのだ。

 その読みは当たる。


 勝負あった。

 元よりボリスはリュドミラに頭が上がらない。

 スヴェトラーナに抗し、いくばくかの男気を見せたもののリュドミラを同席させた時点で終わっていたのだ。

 最初から、勝負は決まっていたのである。


 かくしてを即位させる法案を通すことが確約された。




 リュドミラは不思議に思う。

 自らを『魔王』と称する美しき公女は何を望み、どこへ向かおうとしているのか。

 それが皆目、分からなかった。


 自意識を持たず機械のように仕事をこなす。

 与えられた依頼を完遂するのに手段を選ばない。

 誰にも姿を見られず、殺された形跡すら見せない。

 それが完璧とされる暗殺者だった。


 その意味ではリュドミラは完璧には程遠い暗殺者である。

 彼女は願いを叶える魔女が如く、情によって動いた。

 とされる完成された殺しの技を有しながら、己が信じる道を貫き、生きてきたのがリュドミラという女だった。


 スヴェトラーナはそんな長き時を生きてきた彼女をもってしても理解しがたき生き方をしているのだ。


ナーシャアナスタシア。それではいけないわ」

「は、はい。お姉様」


 落ち着きのある物静かな少女の声にリュドミラが窓を見やると二人の公女が組み手らしきものに取り組んでいる。

 二人とも動きやすいスウェットの上下に着替えていた。

 かれこれ一時間以上は体を動かしているだろう。


「全く、どうなってんだい、あんたは。よく分からんお姫様だよ」


 リュドミラは呆れたように。

 しかし、どことなく嬉しそうに独り言つと畳んだ洗濯物を籠に放り込み、中断していた家事を再開するのだった。




 一方、庭先で入念に一時間にも及ぶ長いストレッチをこなしていた公女二人が第二フェイズへと移行していた。

 このストレッチは実に丁寧に全身の筋肉や関節を効率よく、動かすこれとない準備運動である。

 スヴェトラーナが事前にストレッチマニュアルを完璧に頭に叩き込んだうえで行われた。


 傍目には見目麗しい少女二人が手を取り合った和やかなお遊戯のように映りかねないが、普段それほどに体を動かさないアナスタシアにとっては苦痛を強いられる苦行そのものだった。


「お、お姉様。これで終わりですか?」

「終わり? まさか。ナーシャは冗談が上手ね」

「ええ!? 終わらないんですか、死ぬぅ」

「これくらいで人は死なないわよ? これは単なるウォーミングアップ。さあ。走り込みよ。貴女はまず、足を鍛える必要があるわ」

「えぇ……」


 ストレッチだけで既に汗だくになり、伸びているアナスタシアに対し、スヴェトラーナは汗一つかかない涼しい顔をキープしている。

 少し前まで枯れ木のような手足で死の淵を彷徨っていた人間と言われても俄かに信じ難いものがあった。


「ど、どれくらい?」

「そうね。あと三十分は出来るわね?」

「は、はぃぃ」


 軽く心拍数が上がる程度のジョギングといった体でゆったりとしたペースでスヴェトラーナが走っているのでアナスタシアもどうにか、遅れることなくついていけた。

 かれこれ三十分近くは走ったので周囲の風景も様変わりしている。

 メドベージェフ邸は居住区でも割合、端の方に位置する。

 三十分もジョギングすれば、もはや郊外である。


 長閑な田園風景と評するには少しばかり、足りない。

 家畜の群れが放牧され、一面に麦畑が広がっている訳ではないからだ。

 ただ人影が少ないどころか、まばらですらない。

 皆無である。

 ここに至るまで人っ子一人いなかった。


 初めの内こそ、見慣れない風景なのも相まって、かしましく饒舌だったアナスタシアもずっと同じ風景が続くのに辟易としたのか、言葉少なになっていた。


「ぜぇはぁ」

これくらいにしておきましょうか」


 スヴェトラーナはこれまたぴったりと一時間でジョギングを終了させた。

 彼女は相変わらず、涼し気な態度を崩さず、近所にちょっと散歩した程度にしか見えない。

 アナスタシアは対照的にもはや息も絶え絶えである。

 青々とした牧草地が広がる大地の上で仰向けに寝そべり、荒い息遣いをしている姿はとても一国のプリンセスとは思えないものだ。


「どうだった?」

「し、しにそうですぅ」


 そんなアナスタシアの隣に服が汚れるのも厭わず、スヴェトラーナは躊躇なく、同じように仰向けに寝転がった。

 雲一つない空は澄み切った青に染められている。

 ただ眺めているだけで心が洗われる錯覚を覚え、二人ともいつしか口を噤んでいた。


 焦燥に駆られるようにここまでスヴェトラーナが動くのには理由があった。


(あまり時間が残されていない気がする)


 漠然とした感覚であり、確信は持てない。

 だが次第に消えていくのではない。

 互いが混じり合い、解け合う。

 『魔王』フォルカスと『公女』スヴェトラーナの垣根がなくなりつつあった。


 魔王の権能である無限なる図書館インフィニトゥム・ビブリテオカも問題なく使え、ロンゴミアントも自由に召喚出来る。

 スヴェトラーナの体内で生み出されるマナ総量は低かったが、大気中のマナを取り込めば、魔法も使えた。

 もっとも限界があった。

 大魔法は行使出来ず、身体強化など限定されてはいたが……。


 しかし、『魔王』としての意識は徐々になくなりつつあった。

 『公女』の意識が『魔王』の判断を鈍らせるのだ。

 契約を遵守することをもっともよしとする『魔王』は情に流されることがない。

 マニュアルに従い、マニュアルの通りに

 存在自体が消されることにも異議を唱えないのが『魔王』が『魔王』たる所以でもあった。

 ところがスヴェトラーナはそれに異を唱える。


 いつの間にか、『魔王』は『公女』の情で動いていた。

 信じられないことだが認めねばならない事実である。

 『魔王』は己がもはや『公女』。

 スヴェトラーナであることを否が応でも認めねばならなかった。

 否。

 ならざるを得なかったのである。


 それゆえに『魔王』は急がねばならなかった。

 自分の『魔王』たる冷然とした意識があるうちにアナスタシアに身を守る術を教えねばならない。

 そう決意した。

 『魔王』はまだ気付いていなかった。

 もはや自分が『公女』と完全に一体化している事実に……。


 『魔王』でもなく、『公女』でもない。

 一人の人間、スヴェトラーナであるという事実に……。

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