29 悪法

「それは本気なのでしょうか、公女殿下」


 ボリスの困惑した表情はますます、酷くなった。

 困惑に加え、焦燥の色まで浮かび、眉間には深く皺が刻まれている。


「勿論、本気です。わたくしがあの法案のことを知らないとでもお思いですか?」

「…………」


 一方のスヴェトラーナはその場でただ一人、平然とした面持ちを崩さない。

 緩やかな弧を描く口許と深淵を思わせる闇の如き、揺れを見せない瞳のままである。


「もしも、あの法案が通れば、わたくしとナーシャアナスタシアの存在意義はなくなります。国内に留め置けば、禍根を残すと恐らくは国外に出されると思うのですけど、ポポフスキー議長はどう思われますか?」

「誠に遺憾であり……」

「遺憾で済むと本気で思ってらっしゃいますの? これはれっきとした王位簒奪。乗っ取りですわ」

「…………」


 この期に及んでもまだ、義父だった男マルコヴィチを庇おうというのか、言葉を濁すボリスを前にスヴェトラーナは言葉を荒げることなく、直球をぶつけた。

 スヴェトラーナが口に出した法案とはリューリク公国の在り方そのものを壊しかねない危険なものだ。

 これまではスヴェトラーナ姉妹の母ヴェロニカが公王であったように女系であっても即位できた。

 何よりも直系の血を重視する王位の継承が行われてきた。

 それを覆す内容の法案だった。

 女系王の即位を禁じ、王位に就けるのは男子のみとする。

 ではもし、直系王族に男子がいなければ、どうなるのか?

 傍系に生まれた男子を即位させることとする。

 この一文が加えられている。


あの男プラトンは傍系の生まれ。不思議なことにあの男以外の傍系は不自然な死に方をしてますのよね? おかしいですわね」

「そうなのかい? そりゃ、あたしも初耳だよ」


 百年以上を生きてきたリュドミラも耳を疑う事実にこれまで閉じていた口を開いた。

 スヴェトラーナは言葉で表さず、無言で首肯した。

 それが事実であると……。


 彼女が無限なる図書館インフィニトゥム・ビブリテオカで見た記録ではリューリク公国の王族の血を引く者はもはや、片手の指で事足りる数しかいない恐ろしい事実だった。

 直系の血族であるスヴェトラーナとアナスタシア。

 傍系の貴族に生まれ、王配となったプラトンと継室の間に生まれたエドアルト。

 この四人だけなのだ。

 それ以外の王族や僅かなりとも血が入った貴族は明らかに不自然な事故死や病死を遂げていた。


「ですから、議会をまとめて欲しいんですの。そして……」

「公女殿下。あなたが王位に就くと仰るのですか。あなたはそれで何をなさるおつもりなのか」


 懐から取り出したハンカチで冷や汗を拭ったボリスは緊張した面持ちながら、真っ直ぐにスヴェトラーナへと視線を向ける。

 スヴェトラーナは一切、動じた様子を見せず、羽扇子を音を立て、閉じると……。


「決まってますでしょう? 王権を国に返す。わたくしとナーシャは平民になりますの。いいえ。わたくし達、姉妹だけではありませんわ。もですわ」


 悠然と微笑むスヴェトラーナの姿は美しく、そして、壮絶である。

 『魔王』としての威厳にも満ちた面持ちに誰も口を開くことが出来ず、沈黙が場を支配した。

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