7 タヌキがキツネになる

 スヴェトラーナが目覚めてから、二週間余りが経過した。

 アナスタシアは意識を失っている間も毎日のように病室を訪れていたが、目覚めてからは常軌を逸したように長時間、篭っていた。

 勿論、本当に常軌を逸した訳ではない。

 時には主治医であるルスランがその場にあったし、ほとんどの場合は専属の看護師と化したカリーナが同席していた。


「あの……お姉様。その言葉遣い、どうにかならないですか?」

「何がじゃ? 何の問題があろう」

「「ええ……」」


 アナスタシアとカリーナは顔を見合わせ、これはいけないと天を仰ぐ。

 これでも以前よりはましになったのだと諦めるしかないのだろうか。

 そう考えながらも諦めきれないアナスタシアである。


 目覚めた当初のスヴェトラーナは、もっと酷い言葉遣いをしていたのだと思い返した。

 初めのうちはまだ、良かった。

 衰弱しており、身体を動かすこともままならなかったのでスヴェトラーナも大人しくせざるを得なかったからだ。

 「我は行かねばなるまい」と男性のような口調で喋ることに我慢すれば、良かったのだから。


 ところが療養食を軽く平らげ、あっという間に体調を取り戻してしまうとそうはいかなくなった。

 意識を失う前はあれほど、おどおどしていたのが嘘のようである。

 前をはっきりと見据え、自信に満ちた表情をしている。

 垂れ目だったはずの目も心無し、目つきが悪くなったようにさえ見えた。

 タヌキからキツネに変わってしまったと言っても過言ではない変貌ぶりだった。


「お姉様。まだ、退院は出来ませんから、こちらのテレビでSNSでも見て気を紛らわせてはいかがでしょう?」


 アナスタシアはそう姉に強く、勧めた過去の自分に往復ビンタしたくなるほどに後悔している。

 何の動画を見たのか、スヴェトラーナの言葉遣いはさらにおかしなものになった。

 バグってしまったと言われてもおかしくないほどに……。


「何じゃ? ワシはいかんのか? では何じゃ? ワシは……いや、余は! とでも言うべきなのか?」

「お姉様。本気マジでどうされたんです? 池に落ちた時、頭も打ったんですか? そうなんですね? そうなんでしょう?」

「お、お二人とももちついてください」

「「お前がな」」

「はい……」


 カリーナは結局、自分が貧乏くじを引くことになるのかと心の中で咽び泣く。

 二人の公女はそんなこと、おかまいなしに話を進めている。

 危うく白目を剥いて、卒倒しかけたカリーナだったが看護師としての矜持がそれを押しとどめた。




ナーシャアナスタシアよ。ワシは……学んだのじゃ」

「何をですか、お姉様」


 「どうせ、ろくなことではないんでしょ」と口走りかけたアナスタシアだが、すんでのところでそれは回避する。

 スヴェトラーナが信じられないほどに色々な知識を資産として蓄えていたことにも驚きを隠せなかった。

 それまでの彼女はあまりにも愚鈍で誰にでも出来ることさえ、こなせない無能でお飾りにしかならない姉としか思えなかったからだ。


 目覚めてからのスヴェトラーナは見た目だけではなく、中身までもが変わってしまったように感じるほど一種の輝きを放っていた。

 アナスタシアの中で己の身を守る為の隠れ蓑にしか使えないと思っていた姉がいつしか、憧れの存在へと変わりつつあった。


「ワシはアレじゃろ? アレ」

「アレって、何です?」

「アレはアレじゃ。アレはそうじゃ。悪役令嬢じゃ」

「あ、悪役令嬢!?」


 「何を学んでるんですか!」とまたもや口走りかけたアナスタシアだが、十数年の修行の賜物だろうか。

 無意識に失言を避ける特技を身に着けていた。

 そもそもがSNSでも見て、気を紛らわせるようにと勧めたのが自分だったこともあり、迂闊に責める訳にもいかない。


「そうじゃ。悪役令嬢じゃ。あれほどに嫌われておるのは悪役令嬢で間違いないじゃろう?」

「え? ええ? 違う気がしますけど?」

「そんなはずがないのじゃ。ワシが見た動画では悪役令嬢は国外に追放されたり、毒殺されておったのじゃ」

「それはその、そうかもしれないですけど……お姉様の場合、悪役令嬢ではなくって、ヒロインでは?」

「そんな訳なかろう」


 スヴェトラーナは深淵を覗いてきたかのように虚無の表情を浮かべ、即答した。

 チベットスナギツネそのものといったスヴェトラーナの表情にアナスタシアは「ひっ」と小さな悲鳴を上げたが、幸いなことに誰にも聞こえていなかった。


「で、でも、お姉様の境遇はドアマットなヒロインそのものです」

「ふむ。ドアマットとは面白い。それも勉強せねば、なるまい」

「あ、はい」


 カリーナは姉妹の会話に全く、口を挟めない。

 両者の顔を見比べるだけで行動に出ることが出来ないままだった。

 その顔は心無し、青褪めているようにも見えた。

 受け持った不運にして、薄幸のプリンセスのあまりの豹変ぶりについていけないのだ。


「時にナーシャ。一つ頼みがあるのじゃ」

「何です?」


 口角を僅かに上げ、顎に手をやる姉の姿を見て、アナスタシアの背を冷や汗が一滴伝った。

 「これはろくでもないことを思いついた顔!」と叫びたくなる己をしきりに抑え、人当たりのいい誰にでも優しい調子のいい姫の顔を決して崩さないアナスタシアも大したものである。

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