8 悪役令嬢マニュアル

「SNSだけでは無理じゃ。もっといいマニュアルはないのか?」

「マニュアル?」

「そうじゃ。マニュアルじゃ。マニュアルこそ、至高。マニュアルこそ、究極。マニュアルを信じて、この道を歩くのじゃ」

「え、ええ……」


 アナスタシアは本気で姉を心配していた。

 池に落ちた時、石に思い切り、頭をぶつけたのではないだろうか。

 そう思えてならない変貌ぶりである。


ナーシャアナスタシア。お主、今、失礼なことを考えているな?」

「ギクッ!? ま、まさか、そんなこと考えてませんよ。ねぇ。カリーナさん」

「そ、そ、そうですよ。誰もツェツァスヴェトラーナ姫様が変だなんて、思ってませんよお。あははは」


 アナスタシアの鉄壁な淑女の仮面にもさすがに限界が来た。

 あからさまに狼狽えたアナスタシアは責任逃れをしようとカリーナに話を振ったのが運の尽きだった。

 急に話を振られたカリーナはアナスタシアよりも切羽詰まった状態である。

 「僕は◯◯なんて知らないよ」と白状する事件の真犯人の如く、やらかしてしまった。


「なるほど、なるほど。二人はそう思っておったか。ワシは悲しいのじゃ」


 嘘泣きをしてみせるスヴェトラーナだが、これほどわざとらしい嘘泣きもない。

 涙も出ていなければ、全く悲しそうにも見えなかった。

 露骨に獲物をどうやって、喰らってやろうかと捕食者の表情をしている。

 「えーんえーん」と口だけで言っているのが腹立たしくもあったアナスタシアとカリーナだが、これ以上、刺激したくない二人は状況を甘んじるしかなかった。


「分かりました。お姉様の仰るマニュアルとやらを持ってくれば、いいんでしょ」

「うむ。話が早くて、助かるのう。持つべき者は頼りになる妹じゃ」


 スヴェトラーナが今度は笑顔を向けて、そう言っている。

 だがアナスタシアは気付いていた。

 スヴェトラーナの笑顔は心の底からのものではないことに……。

 目の奥は全く、笑っていない。

 まるで深淵の底のように深く、昏い。


 アナスタシアはそれも甘んじて受けることに決めた。

 姉が自分のことを簡単に信用してくれないのは、己が蒔いた種だったからだ。

 姉に寄り添うのではなく、利用していただけの自分が簡単に信用と愛を受けられると思ってはいけないとすら、考えていた。




 それから、暫くしてからのことである。

 病室のベッドの上で満悦の表情を隠さぬスヴェトラーナの姿があった。

 アナスタシアが持参した文庫本サイズの冊子を手に取り、ひとしきり目を通すと実に興味深いとばかりに頷いている。


「これじゃ、これじゃ」

「手に入れるの大変だったんですよ。分かってますか、お姉様」

「分かっておるとも。これでワシは完璧になれるとも」


 冊子の表紙にはアニメ調で描かれた少女のイラストが描かれていた。

 クラシカルなドレスを纏っており、銀糸のような髪はお約束の縦巻きロールである。


「まだ、あまり翻訳されてないようで最近の作品はこのご時世ですから」

「ふむ。それも分かってるのじゃ。難儀な世なんじゃろう? 善き哉。ワシには問題ないことじゃ」


 遥か東方の国で流行した『悪役令嬢』を主人公にした小説を片手に自信たっぷりな様子でからからと笑うスヴェトラーナを見て、アナスタシアの心を過ぎるのは不安という名の影だった。

 「この人、本当に大丈夫なの?」と考えながらもアナスタシアには頼れる存在が他にいない。

 BET出来るCOINもなければ、BET出来る先もない。

 ないもの尽くしのアナスタシアにとって、目の前にいる人物に全てを乗せる他、道がないのだ。

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