第25話 香の薫る橋(2)

 コンラッドに背を叩かれてランシャルは振り返った。その目に笑い声をあげて近づく妖魔の姿がはっきりと写っていた。


(逃げなきゃ!)


 でも、動けない。

 岩を覗き込んでうつ伏せに近い体勢からすぐに立ち上がれなくてじたばたもがく。


(来る!!)


 思わず目を閉じた。


 ドガッ!

 ぎゃあぁ!!


 妖魔の悲鳴に目を開けると、妖魔が地面に転がっていた。

 全身毛むくじゃらの巨大な獣が仁王立ちで妖魔を見下ろしている。妖魔を叩き落としたのか、勝ち誇るように4本の腕を挙げて雄叫びを轟かせる。


 獣が妖魔に覆い被さるのを見てランシャルは逃げ出した。四つん這いで這うように逃げる。


(どこか丈夫なところ、安全そうな所はどこ!?)


 辺りに目を走らせて、身を低くしたまま移動する。

 短剣を失い這いつくばるランシャルはスパイドゥの格好の獲物だった。


 ギチギチギチ


 声をあげてスパイドゥが飛びかかる。

 ランシャルはとっさに横に転がった。


 ガキ────ン!!


 岩を叩く金属音と体に当たる石つぶて。

 ランシャルがぱっと振り返ると、岩の上にスパイドゥが一匹。左右の一番前の足が岩に小さな穴を開けていた。


(うそ・・・・・・)


 岩に穴を穿うが強靭きょうじんな足。細く見えるあの足で体を突かれたらどうなるか。そう思うとそら恐ろしくて走り出す


「わッ!!」


 逃げる先にもスパイドゥが待ち構えている。

 右に交わし、転んでは立ち上がって逃げた。頭の隅でコンラッドが気になりつつ、逃げるだけで精一杯だった。


 橋へ行け

 香りを追え

 逃げろ

 逃げろ


 頭の中で、もう1人の自分が警笛のように繰り返す。


「逃がすかッ!」


 獣を倒した妖魔が追いすがる。


「うわッ!!」


 どんと背を押されてランシャルは地面に投げ出された。


 ザクッ!


 顔のすぐ横の地面にスパイドゥの足が突き刺さって絶句する。スパイドゥが覆い被さっている。真上にいる。振り出しだ。

 最初に岩の上でスパイドゥに捕獲されたときと同じ。鳥かごのような足の隙間に逃げ道はない。


(どうしよう・・・・・・! どうする!? どうしたら)


 スパイドゥの口元で小さな触足が舌なめずりするように動いていた。


 ドン!

 ギギァア!!


 衝撃音と同時にスパイドゥの悲鳴が遠退いた。いや、悲鳴の尾を引いてスパイドゥが弾き飛ばされていた。


「邪魔な8本足め」


(はっ・・・・・・!)


 声の主がランシャルの背にまたがった。


「あぁ・・・・・・感じる。印の力だ」


 声が笑っている。


「どこだ? ここか?」


 男とも女ともつかない声がくつくつと笑っている。冷たい指がランシャルの背に触れた。


(ううッ!!)


 指が触れた一点から身体全体が凍ってしまうかと思うほどの冷たさに、身体中の毛穴がぷつぷつと音を立てる。


 首筋から襟繰りへと指がすべる。そして、勢いよく上着が引き裂かれた。

 あらわになった印を目の当たりにして妖魔は笑った。森中に響き渡るかと思うほど大きな声がキイキイと耳をつんざく。その声に怯えてスパイドゥたちが後ずさる。


「ああ・・・・・・なんと愛しい」


 妖魔は王印にほおずりして、ランシャルの身体に長い舌を這わせた。


 背筋からおぞけが伝って腹の底から吐き気が上がってくる。ランシャルは思わず手で口を押さえた。


「さぁ、頂くとしようか」


 カッと口の開く音がする。


「食べたって無駄だよッ!」


 ランシャルは必死で叫んだ。


「食べたってドラゴンの力は手に入らない!!」


 言いながらもがいてみたけれど、華奢に見える妖魔の体は思った以上に重く、長い指はランシャルを捉えて離さない。


「あっはっはっは、それはそれでいい。若い体を食べるのは久しぶりだ」


 その言葉を聞いてランシャルの歯がカタカタと鳴った。


「ふふふ、怖いか? なんてやわらかな肌。すぐに食べてしまうには惜しい」


 頭を撫でられて、耳元で囁かれて、ますます歯の根があわなくなる。


「どれ顔をよく見せてごらん。その可愛い唇にキスをしてあげよう」


 肩に置いた妖魔の手がランシャルを仰向けにする。

 おとなしく体の向きを変えるふりをして、ランシャルは握った土を妖魔の顔へぶちまけた。


「ぎゃっ!!」


 土が思いっきり目に入って妖魔が慌てて立ち上がった。顔の土をはたき目をしばたたいて土を落とそうと試みる。


 ランシャルはすかさず走った。

 妖魔から逃れてもスパイドゥたちが待ち構えている。


(あっ、あそこ)


 窪んだ場所に倒木が横たわっている。その下にわずかな空間を見つけてランシャルは滑り込んだ。

 ここに集まっているスパイドゥは大柄の物ばかり、ランシャルは入れても彼らは入るには細い隙間に身を隠す。


(ラッドは? ラッド、どこ?)


 ほっと一息ついてコンラッドの姿を探した。

 右を見ても左を見てもスパイドゥばかりが目に止まり、コンラッドの姿が探せない。どこを見ても4つの赤い目とぶつかるばかり。


(・・・・・・! ラッド!)


 少し離れた木の影からコンラッドの姿が現れてランシャルは身を乗り出した。

 どこから見つけてきたのか、棒を手にスパイドゥを牽制している。


「・・・・・・ラッド」


 手を握りしめ、歯をくいしばってコンラッドの姿を見つめる。ただ、そうするしかできなくて、きりきりと胸が痛んだ。


 棒をぶんぶん振り回すコンラッドの周りで、スパイドゥたちは余裕のある動きで間を詰めていく。


 一匹のスパイドゥが跳ねた。


 コンラッドの後ろから抱きついて8本足で彼を拘束する。


「ラァ──────ッド!!」


 ランシャルは叫ばずにはいられなかった。





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