第5部 平穏な日々

File31.向かう収束

世界的規模で新型コロナウイルスが感染拡大し、未曽有の事態となった2020年。

東京オリンピックも中止になるかと思いきや、異例の無観客で翌年に執り行われた。開催しなくてもいいのに…と思いつつも、俺はちゃっかりテレビで観戦していた。


街中にはアクリル板の設置や、アルコール消毒の徹底を促す張り紙、密を避けるように足元に足型マークまで目にするようになった。これまで馴染みのなかったマスク装着も、今では当たり前の世の中となり、学生がマスクなしで顔を合わせるのが恥ずかしい、という変な世の中になっていた。

まぁわからなくもないが…。目元だけでこの人良いな、と思っていてもマスクがなくなった途端に残念そうな表情をするのは、…是非ともやめていただきたい、と幾度となく思った…。


会議は専らリモートとなり、テレビでも司会者以外のコメンテーターがリモート出演している映像を目にし、世にも不思議な光景が流れていたような気がする。

院内で行われていた説明会で、上半身はスーツを着ていても、席を立った途端にスウェット姿だった業者の姿を思い出して笑ったこともあった。


物資も次第に出回るようになり、業者から安定供給してもらえるにまで戻った。

コロナ病棟勤務者だけにこっそり渡されたお菓子や、リラックス効果のあるアイマスク、アロマオイルまで貰ったこともあった。


こうして日常が戻りつつある頃、コロナウイルスに対する薬が開発されるようになり、重症化を防げるまでになっていた。軽症の患者にも、飲み薬で対応できるまで医療技術は進化を遂げていた。


コロナ病棟にも変化は訪れ、入院患者の人数が少しずつではあるが減ってきたのだ。スタッフはそこまで代わり映えしないが、不思議と結束力や団結力は他の病棟よりもあるのではないかと思えるくらい絆は深まっていた。


感染者が減る一方で、医療従事者の行動制限は相変わらず厳しい内容だった。

いきなり解除をするのではなく状況を見て少しずつ緩和するらしい…。

メールで送られてくる職員の行動方針も3年で61版までになっていた。


派遣されて実に3年の月日が経とうとしていた頃――。


「みなさん、少しだけお時間をください」


そう声を掛けてきたのはコロナ病棟開設当初からいる河口師長だ。

こうして勤務しているスタッフ全員を集めるとき、爆弾発言が付き物だ…。


今回はどんな事を言うんだ


冷や冷やした気持ちで師長の言葉を待っていると、


「世界的に猛威を振るったコロナウイルスが2類相当から5類になるとご存知かと思います。正式に移行されるのはまだ先ですが、5類へ移行されることでこれまでの生活は大きく変わると思います。それは生活に限らず、この病院内でも同じことです」


そう言いながらスタッフへと配布したのは『異動希望届』だった。


「今みなさんにお渡ししたのは、異動希望用紙です」


これって…


「5類へと移行されれば専用病棟も不要となります。病院内でも会議を重ね、5類へ移行される時期に本来あるべき姿、つまりは…救急病棟へ戻す計画が練られています。工事期間もありますし、こちらとしても早い方が良いと思い声を掛けさせていただきました。派遣される前の病棟に戻るのもいいですし、残って救急外来併用の病棟へ来ていただいても構いません。今のところ私はここで師長を続ける予定です」


出るか、残るか…

コロナが落ち着いたと言ってもいいのか…

世間でも収束って言ってるもんなぁ


不本意に派遣されてかれこれ3年も経ったとは思えないが、実際にはそんなにも経っていたのか…、と師長の話を聞いてつくづく思った。


「さっくんはどうするの?」


隣にいた栗田が声を掛けてきた。


「栗やんは?」

「うーん、うーん。もとの病棟ねぇ…今更なぁ戻りたいとは思ってないけど…ここに残るのもなぁ」

「栗やんは外科というよりかは内科の方がいいような気がする」

「やっぱわかる?」

「うん」

「そやねんな…外科みたいに手術してすぐ退院、っていうあんまり患者さんと関われないのは嫌やねん。かといって、救急外来みたいに忙しい環境も不向きやろぉ」

「まだ時間あるし考えたらいいやん」

「そうやね」


栗田はコロナ禍に子どもが産まれ、時短勤務の日勤だけこなすイクメンになっていた。休憩時間にはよく写真を見せられ、俺は栗田の親ばかっぷりを目の当たりにしていた。


S8病棟でもこの3年の間に人事異動があり、俺の同期で残っているのはコロナ禍に和泉下と結婚をした立川だけだ。その和泉下は循環器内科、小池は治験コーディネーターを目指すためにK大学病院を退職、水谷は整形外科へとみんなバラバラになってしまった。

俺が担当していた新人4人も、今となっては見事にまでに先輩ズラをしているそうだ。意外だったのは、次年度の新人担当に月島君が抜擢されたことだった。

これらの情報は全部立川が教えてくれた。


月島君…俺みたいにはなりたくない、って言ってたのに…ちゃんとなってるじゃん


異動希望届を見つめ、これから先のことを考えていると、胸ポケットに入れていたPHSが鳴り響いた。


「はい、佐久山です」

「がっくん!」

「間違いですね」

「ちょいちょい!」

「どちら様でしょうか?」

「えっ、間違えた…?」

「冗談やし。…ってか立川、なんでPHSに掛けてきてんの?」

「ちょい急ぎの用で…今日ってさ、定時で上がれる?」

「できるけど」

「そしたらちょっとだけ時間欲しいなぁ」

「はぁあ…ちょっとだけやで」

「ありがとう」


着替えて病院の正面玄関前で待ち合わせすることとなり、俺はPHSを切った。

数時間後、着替えを済ませ約束した場所へ向かうと、そこには立川ではなく見覚えのある姿があった。


「お疲れ様」

「お疲れ。この時間に和泉下もいるなんて珍しいな」

「循内も今は落ち着いているからね。浩ちゃんちょっと遅れるって」

「そっか」

「がっくん、元気そうで良かった。浩ちゃんとも心配はしてたんやけど、大丈夫そうやね」

「一時はやばかったけどな…。マジで看護師辞めようと思ったくらいに…」

「それだけ大変な思いをしてたってことやん」

「確かに…」


しばらく和泉下と懐かしい話をしていると、立川が小走りで病院の玄関先まで来た。


「ごめん!ちょい遅れた」

「言い出しっぺが遅れてどないすんねん」

「しれーっと帰ろうとしたら主任に捕まったねん」

「まぁ、和泉下と懐かしい話ができたしええけど」

「それならええか」

「ええことないわ!んで、要件は何?」

「そうそう!これを受け取って欲しくて…」


立川がリュックから取り出した物を俺は受け取った。

手渡された物を見ると、表面に『寿』と書かれたご祝儀袋だった。


「直接渡したくて…」

「浩ちゃんと私のときもしてくれたでしょ?だからこれは私たちから」

「いや…待って。なんで知ってるん?」

「俺の情報網を舐められちゃ困るぜ」


両腕を組み、少し誇らしげな立川を唖然と見ていた。

ふと疑問に思うことがあり、念のために確認してみた。


「立川と繋がってる人って誰?んな人いたっけ?…は?」


俺はかなり困惑していた。


この事は誰にも言ってないはずなのに…


すると、なぜか頭をよぎる1人の人物がいた…。


まさか…?!


「栗やんか?!」

「ビンゴ!」


指パッチンをする立川を見ながら俺は盛大にため息を漏らした。


「おしゃべり野郎め!」

「詳しく聞かせてほしいな」


和泉下と立川のキラキラとした瞳で訴えかけてくる姿に逆らうことはできず、俺は渋々話をすることにした。

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