File21.父と娘

仕事に専念できないでいた私を、診察時間が終わる頃に院内PHSで医局に呼び出したのは研修医時代にもお世話になった先輩医師だった。

対面するようにソファへと腰掛けると、先輩は淹れ立てのコーヒーは入ったマグカップを机の上に置き、同じように腰掛けた。


「どうしたの?貴女らしくないじゃいない」

「まぁ…色々とありまして…」

「患者さんにもわかるくらいだなんて…」

「…すみません、気を付けてはいるのですけど…」

「私にも話せないような事なの?」

「そんなわけでは…いつかお伝えしないと…とは思っているのですけど、なかなか言い出せなくて…」

「今なら話せる?」


私はこの言葉を待っていたのかもしれなかった。

ただでさえ普段から忙しい先輩なのに、わざわざ時間を作ってもらうだなんて、と躊躇っていた私の事に気付いている所に、なんとも言い難い嬉しさを感じていた。

このタイミングを逃せばまた話ができなくなる、そう思い私は先週に起きた事を話し始めた。話の合間で言葉に詰まることもあったが、先輩は静かに聞いていた。


「ちょっとは落ち着いた?」


話を聞き終えた先輩が始めに発したのは、仕事のことではなく私を労う言葉だった。


「少し…落ち着きました」

「それなら良かった。誰かに話すのは勇気がいるだろうけど、話をしないことでしんどくなるのは貴女自身だからね」

「そうですね」


先輩の言葉で、冷え切っていた心はじんわりと温かくなるのを身に染みて感じた。


「患者さんの気持ちがわかる医者になれるね」


先輩は微笑みながら言った。


患者さんの…気持ちがわかる医者

確かにそうかもしれない

まだ細かな治療方針は決まっていないが、おおよその予想はつく

自分自身が経験することで、これからは患者の立場になって考え、提案できるかもしれない…


そう考えただけで、私は少し心のわだかまりが解けた気がしていた。


診察当日。

今回も前回同様、午前の診察時間終了後の診察だった。


「画像検査と、細胞の詳細な結果が出ました」


そう言うと、二ノ山医師は父と私の前に置いた。検査結果用紙に書かれていた内容を読み、私は父の顔色を横目で見た。


ホルモン受容体:陽性

HER2:陰性

Ki67:60%

サブタイプ:ルミナルB

抗がん剤治療必須


検査結果を踏まえ、改めて治療方針が伝えられた。


「詳しく説明しますね。佐久山さんのがんは、女性ホルモンで活発に増殖しやすいでため、ホルモン療法で女性ホルモンを抑えます。HER2はがん細胞の増殖に関係するタンパク質のことです。陽性であればHER2タンパクをターゲットにした抗HER2療法が効果的なのですが、佐久山さんの場合は陰性です今回は適応ではありません。注意すべきは、Ki67です。これはがんの増殖スピードのことです。一般的には20~30%以上だと高値なのですが、佐久山さんのがんはその倍の数値となっています。早くがん細胞を取り除かないと、どんどん増え続けると言えるでしょう」


検査結果を聞いた父の表情は暗く、医師の説明を理解できているかわからなかった。そんな父の姿を見ていた私は、二ノ山医師に尋ねてみた。


「画像検査はどうでしたか?」

「それがこちらです」


パソコンに取り込まれたいた画像を見ると、左胸の乳頭から乳房にかけて広がる影が映し出されていた。


「現時点でリンパ節にまでは広がっていませんが、がんの増殖スピードを考えると…早く治療をした方が良いと思います」

「先生が考える治療方針を教えてください」

「私は、手術をしてから抗がん剤とホルモン療法をおすすめします」

「わかりました」

「今後のことを考えると、大きい病院が良いかと思うのですが…紹介状を書くにあたり、K大学病院か市立病院を考えているのですが、どちらがいいとかありますか?」

「市立病院でお願いします」

「美里!?」


今まで口を出さなかった父が急に言葉を発し、二ノ山医師も私も驚きを隠せないでいた。


「K大学病院の方が良いんじゃないか?」

「それは絶対にイヤっ!」

「どうして…」

「誰が好き好んで勤務先の病院を選ぶのよ。それに、K大病院の乳腺外科には知り合いが多し絶対にイヤっ!」

「お前がそこまで言うなら…先生、市立病院よりK大病院の方が良いとかありますか?」

「規模は違いますが、治療内容は変わらないと思います。市立病院は最近建て替えとかもされ、器材も新しい物が多いと聞きますし、安心して治療していただけるかと思います」


その言葉を聞き、父もようやく安心した様子だった。

紹介状を準備する間、待合室で待つように言われた父と私は、並んでソファに掛けていた。


「なぁ、本当にK大病院じゃなくていいのか?」

「いい」

「けど…」

「あんまり知られたくないの。1人だけ先輩には伝えてあるけど、他には知られたくない。ナースだって顔見知りが多いのにやだよ」

「お前がそれでいいならもう何も言わない。お医者様のお前に1つだけ聞いていいか?」

「何その言い方…どうぞ」

「治療すれば治るんだな?」

「治すために治療をするんでしょ!医学は日々進歩しているんだよ!お母さんの時は…治せなかったかもしれないけど、研究が進んでいるおかげで今では治る確率の方が高いんだよ」

「それならいいんだ。どうしても母さんのことが頭を過ってな…」

「そうだよね」

「うじうじ考えてても仕方ないな!」

「いきなり声を張り上げんといて恥ずかしい…」


受付にいた事務がくすくすと笑っている姿が目に入り、余計に恥ずかしさが増していた。


こうして私の治療は始まりの幕を開けた。

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