File8.春の訪れ、新たな一歩

病院近くの講堂前、見事に咲き誇った桜の木があった。

今年の桜の開花は、例年よりも早いとネットニュースで知った。

―――3年前、俺は入社式でこの講堂を訪れたにも関わらず、この桜の木に全く気付かなかった。



■□■□

家を出る前、じっちゃんが俺に言った。


「楽人、お前さんも一人前じゃの。上司から頼られる存在になりおって…。儂は、儂は、嬉しい…うっ…」

「そっか…。じゃあ、その嬉しさを胸に成仏してくれ」

「それはまだ先のことじゃ」

「………」

「そう睨むな。ええか、お前さんは今日、新しい一歩を踏み出すんじゃ。下ばっかり見とってもエエことはねぇからな!!そんなちっこい機械なんか見てんと、上を見んしゃい。自分がいかにちっぽけかわかるぞ」

「へいへい。どうせ俺はちっぽけですよ。…ほな、行ってくるわ」



■□■□

じっちゃんとの何気ない会話を思い出し、俺はスマホを眺めていた視線を上にしてみた。———そこには、満開の桜が木を揺らしながら俺を見下ろしていた。

〈久方の 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ〉

ふと頭に思い浮かんだ百人一首。桜の花びら舞い散る景色が、こんなにもキレイだとは思わなかった―――。

と余韻に浸っていたが、集合時間ギリギリであることを忘れており、俺は慌てて講堂の待合室へと急いだのだった。


今年度、俺が新人教育として担当するのは大学卒業2名と、専門学校卒業の2名、計4名と知らされた。———男性3名、女性1名。

割り当てられた名簿を確認し、部署毎で集まる時を待っていた。


オリエンテーションが終わり、ついにご対面の時…。

各テーブルに部署名の書かれたプレートを置き、新人が来るのを待っていた。


「あの・・・。S8はここで良かったですか?」


まず始めに来たのは専門学校卒の西口彩羽にしぐちあやは、続いて仲のよさげな2人組がやって来た。大学時代から一緒の友人同士、牧田楓まきたかえで原真琴はらまこと。最後に月島隼人つきしまはやとが来た。


「S8、新人教育担当の佐久山です。よろしく」


挨拶が簡潔すぎたのか、4人ともどうしてよいか迷っている様子だった。


「…あぁ、顔合わせは初めてだろうから…自己紹介をしてくれるかな」


俺の右隣にいた原くんに挨拶を促した。


「オッケーっす。俺、原真琴!!こっちの牧田と同じ大学出身、とか言いつつ、実は中学から一緒の腐れ縁。どうぞよろしくお願いしまーす」

「ちょっとまこー。勝手に俺の紹介までしてんじゃねーよ。…改めまして、牧田楓です。まさか勤務先まで一緒とは思わなかったけど、原とは長い付き合いです。よろしくお願いします」

「西口彩羽です。…よろしくお願いします」

「月島隼人です。よろしくお願いします」

「仕事に慣れるまで大変だと思うけど、できる限りのサポートはするので気負わずに、ね…。正直、俺自身もまだまだだけど…一緒に乗り切ろう」

「はい。」「はーい。」「うっす。」「御意っ!!」


なかなかの個性揃いだと思いつつも、どこか安心した俺がいた。

今日から始まった新しい一歩、不安と期待に心躍らせ、俺は4人を見ていた。


1日の役目を終えた俺は病棟へと戻った。

新人教育用ファイルの作成、教育プランニング―——。すべきことはたくさんある。ここ数日、時間外でしか作業をできないせいか、疲れが溜まっていた。

だが、4人と顔合わせをして以降、俺の作業ははかどっていた。

この日、珍しく定時に帰ろうとすると…同期の和泉下に声をかけられた。


「がっくん、珍しく定時あがり?」

「そう。…頑張った、…俺」

「だったらさ、がっくんさえ良ければ…今から飲みに行かない?浩ちゃんも来るんだけど、…どうかな?」


誘われた飲みにはだいたい行っていたが、俺は立川の気持ちを察し、今回ばかりは遠慮した方が良いと思った。


「うーん。今日はやめとくわ。家で録画してたテレビ観ながらゆっくり飲む」

「そっか。わかった。また行こうね、お疲れー」

「おう、お疲れー」


自宅近くのスーパーで買い物中に立川から連絡が来た。


浩輔:『なんか気ぃ遣わせた。ごめん』

楽:『謝ることないと思うけど』

浩輔:『久しぶりに同期同士で飲めるー、って思ったんじゃない?』

楽:『思ったけど、メンバー考えたらやめるっしょ www』

浩輔:『ありがと』

楽:『はやく告れよ』

浩輔:『りょ』


なんとも言えない気持ちを抱え、俺はビールをカゴに入れた。


「ただいまー」

「楽人、おけーり。今日は早えーじゃないか」

「仕事がはかどった」

「そうかそうか」

「あぁ…。俺にも春、…こねーかな」

「何言っとんじゃい、春は来とるやろ!!」

「そっちじゃねーよ!!」


持っていたビール缶を飲みながらつぶやいた。

口に含んだビールはいつもよりも苦みがあった。

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